重なる挫折、続く挫折
「あーあ。大失敗だ」
グルグルと腕を回しながら、夜道を駆ける義彦。
高本との連絡を終えて場所を聞き出し、今自分がいる場所からなら、警察が来るのを待つより自分の脚で走った方が早いと判断して、こうして走っているところだった。
沙月が口にした仮説は確かに説得力のあるもので、恐らくはその仮説は真実なのだろう。
それを言ったのが高本だと言うのは気に入らないが、あれでも大人。そうした洞察力には優れているのだ。
「自分を過小評価。か」
人混みをぶつからず、けれど速度も落さずに、駆け抜ける義彦に視線は集まるが、その視線のいずれも彼の顔を捉えることは出来ないだろう。
その前に彼の身体は加速し、目に移るのはその残滓か、背中だけだ。
普段ならばその残滓すら、残させはしないのだが、今日はやはり気が乗らない。いつもならば踏み切る度に、身体が加速していくはずなのに、その加速にも今日はかげりが見えていた。
これで先程沙月のブルマ姿を見ていなければもっと非道いことになっていただろう。
そんなことを考えて不意に、彼女はその為にこちらにショックを与えないように、ショックを和らげる為に、あの服装のまま部屋に来たのではないかと思った。
「ああ、全く」
踏み切りながら口にする。
せめて彼女が聞いていないこの場所でなら、言ってみるのも良いだろう。
「なんていい女だ」
目の前で言ってしまえば、そのまま結婚に発展しかねないその言葉。弱気になった今だからこそ言える。いつも思っている言葉だった。
「っと。こっちか」
角を曲がり、目的地まで走る。走る。
この件はひとまず、彼女に預けよう。雨美沙月と言う女は自分にとって数少ない信頼の置ける女なのだから。
自分はその間にこの事件を解決しなくては、気持ちを切り替えようと、うん。と自分に頷いてみせる。
頭の中を走馬燈のように、三奈穂の顔がちらついた気がしたが、それは一切無視をして義彦は夜の街をひた走る。正義の味方として。
目的地までもう少し、と言うところで義彦は遠くで重なり合う人の声を聞いた。
一つの目的に向って多数の声が交わる理由というのはそう多くはない。
あっちだ。
そう直感して、狭い路地裏へと入っていく。人の多いこの地域、夜の街、人が隠れるには適任の場所であっても、バレる者バレる。
今更ながら仮面を付けていないことに気が付いたが。仕方がない。この場合は一般市民が逮捕に協力したと言う形にするか、誰もいないところで捕らえるのがいいか。
どちらにしても義彦の頭の中に、犯人を逃がすかも知れないという思いは欠片もなかった。
例え日常生活で挫折を経験していたとしても、それが正義の味方の仕事に影響を及ぼすことなど、露とも思っていなかったのだ。
裏路地を抜けたところで、驚いた。人の壁によって道が完全にふさがれている。
ここに立つと声が更に大きくなっていた。
混じっているのは女の悲鳴や驚き。恐怖に駆られた悲鳴と言うよりは、突然の自体に驚いて上げてしまった軽い悲鳴のようだ。
野次馬根性を手にした住人達が皆々、足を止めているせいで前に進むことが出来ない。
如何に隙間を塗って走るのが得意な義彦でも、隙間が埋まり、それを退かしながらでは、速度が落ちてしまうのも仕方がなかった。
「退け! クソ」
前に出て来た若い男の肩を掴んで退かし、更に前へと進もうとする。
そうしていると隣に、見知った制服を着た人物を見付けた。警察官だ。
「オイ。この騒ぎは何だ!」
声を張り上げるも、警官は義彦に見向きもせずに前に進もうとする。
義彦が誰であるのか分かっていない為だろう。
「俺は正義の味方だ! 状況を説明しろ!」
警官の服を掴み、自分の元に引き寄せて耳元に声を投げ落とすと、ようやく警官は立ち止まり義彦の顔を見つめた後、慌てて敬礼を取った。
「はっ。すみません気がつきませんでした。清正さんですね」
「フルネームで……いいや。で、前の人集りはひょっとして逃げている強盗犯か?」
訂正する元気もなく、顎で人が山になっているその先を指した。
「はい。どうやら、別の警官と格闘しているようなのですが、その男、何か格闘技をしていたらしく、今応援に向うところです」
「いや、いい。下がるように伝えろ。後は俺が……」
相手が格闘家であろうと、何であろうと、一対一の状況ならば警戒をする必要もない。負けるはずがない。
そう続ける前に、その場に悲鳴でも、怒声でも、叫びでもない、一つの音が、響き渡った。
パン。
鈍い、柏手のような音、その音を義彦自身何度か耳にしたことのある音だった。
一斉に音が消える、感覚が人波にそれこそ波のように広がっていく。
その静寂が伝わりきり、そしてその静寂は転じて、パニックの引き金となった。
人波は津波となって、義彦達にも襲い掛かる。一斉に反転して走り出した為に、悲鳴、怒声、叫び、様々な声が混ざり有り、辺り一帯は完全なるパニックになっていた。
警官から手を離し、義彦は自分にも向ってくる人達を掻き分けながら前に進もうと脚を進める。
「クソが!」
何が起こったのか、予想はついた。
強盗犯が拳銃を持っていたなどと言うニュースは聞いていない。そうすれば撃ったのは警官。或いは、警官から拳銃を奪った犯人だ。
そして、この逃げまどう群衆から見て、それはきっと後者なのだ。
人を避け、退かし、或いはその肩に手を置いて跳躍し、そのまま前転の要領で次の人物の頭に手を置いて更に高く遠く飛ぶ。
「退けっ!」
驚き顔の男が避けたスペースに脚を入れてしゃがみながら着地。
そうしてから立ち上がった時には、前は開けていた。
そこにいるのは脚から血を流し、倒れている青い服の警官と、震える手で警官の腰から伸びるリードに繋がれた拳銃を持った男の姿。
荒い息のまま、唸り声を上げる警官を見ていた。
「おい」
声を掛ける。
けれど男は反応しない。声が届いていても、それが脳まで達していない。その状態の危険性を察し、義彦はクソ。と悪態を吐いた。
「オイ!」
声量を張り上げると途端に弾かれたように男が顔を持ち上げる。手配書で見た中年の男。格闘技をやるらしいと言う警官の言葉通り、体つきがガッシリとしていて、背も義彦より十センチ近く高い。
その身長差にも義彦は臆することと無く男を睨み付けていた。
「ヒッ!」
拳銃で警察官を撃ってしまった。そのことに今更恐れを抱いたのか男は悲鳴を上げ、握った拳銃を義彦に向けた。
チラ、と後ろを確認する、まだ、逃げ出した群衆の最後尾は残っており、もし仮に男が拳銃を発砲し、それを避けでもしたら流れ弾が当る可能性があった。
撃たせては駄目だ。
「拳銃か。面白い。撃てるもんなら撃ってみろ! 俺に、正義の味方にそんなものが当ると本当に思っているのならな!」
だからこそ、撃たせてはいけないと思ったからこそ。義彦は相手を挑発した。
そのまま、距離を詰める。
「く、来るな! 撃たれたいのか!」
上擦った声を上げる犯人に、義彦は顔には出さずにほくそ笑んだ。
その反応が予想通りの反応だったからだ。撃たれたいのか。と問うという事はつまり、撃ちたくはない、殺したくはないと言っているのと同意味だ。けれどこのまま、この余裕を保ったまま近付いていけば恐らく男は恐怖に駆られ撃つだろう。
但し、それは義彦の身体ではなく脚。
文字通り足止め。今警官の脚を撃ったばかりの男ならば間違いなくそうする筈だ。それぐらい読める。
「来るなって言ってんだろ!」
更に男は声を荒げる。
その銃口はまだ持ち上がったまま、下を向かない。
もう少し近付かないと駄目か。
そうしてまた一歩義彦が脚を進めようとした瞬間。ハタと脳裏に顔が過ぎった。
泣いている少女の顔、以前見た、そしてまた見てしまうであろう少女の顔。
三奈穂が泣いている顔だった。
それに気が付いた瞬間、義彦の足が止まる。自らが間違えてしまったからこそ、泣かせてしまう少女の顔に、義彦の足は止まったのだ。
このやり方は本当に正しいのか。男の拳銃は本当に下を向くのか、自分に向けて、そして或いは後ろで逃げまどう群衆に向けて放たれはしないのか。確信が揺らいだ。
「よし。それで良いんだ。そのまま動くなよ」
義彦が立ち止まったのを拳銃に怯えたからだと勘違いした男は、銃口を向けたまま、ポケットから肉厚なナイフを取り出し、それで警官と拳銃を繋いでいたリールを切り始めた。
「テメッ!」
その光景に、男が逃げるつまりだと気付いた時には既に遅く、走り出そうとした義彦より先に男はリードを切り走っていった。
「待てコラ!」
慌てて追い掛けようとするが、脚を撃たれた警官が、狙い澄ましたように呻き声を上げた為、一時停止。男の元にしゃがみ込む。
後ろを見ると先程の警官が、制服を乱しながら、ようやく近付いてきているところだった。
「コイツ任せるぞ。俺は奴を追う!」
大声で言い。立ち上がったその時には、もう。男の背中は消えていた。
「チッ」
大きく舌を打ち鳴らし、地面を踏み蹴った。
それは余計なことを考えてしまった、自分に対する苛立ちと怒りを示したもの。
握りしめた拳が震えている。
硬く硬く握った拳、爪が手のひらに食い込み、皮膚を破り、血が流れ出る。
ポタリポタリと地面に落ちる血滴は涙にも似ていた。
「逃がした? あのガキ、何してやがる」
携帯電話を片手に防弾仕様の窓ガラスを拳で叩いた高本に、沙月はスッと目を細めた。
「義彦が、逃がした?」
信じられない。その思いで頭が埋まる。
清正義彦、沙月にとっては幼なじみであり、親友であり、片思い相手であり、そして何より憧れの人。こうなりたいではなく、こうなれないのは知っているから、傍にいて見ていたい。そんな男。
その男は、間違いなく生まれついての正義の味方。
仕事になんかしなくても、正義の味方である事実は変わらない。
どんな時でもどんなことがあってもずっと何とかしてきた。その男が犯人を逃がした。その事実が信じられなかったのだ。
「雨美さん。どうやら思いの外アイツのショックが大きかったようです。回収に行きます」
「……ええ」
低く頷いて、沙月は顔を伏せた。
今の自分の表情を人に見せる訳にはいかなかった。きっと非道い顔をしている。泣きそうで、悔しそうで、怒りに震えている。そんな顔を誰にも見せる訳にはいかなかった。
身体に掛かる加速度を無視するように、沙月は後部座席の真ん中に座りながら、背骨に鉄の棒を尽きたしたように、微動だにせずに、ただ座っていた。
回収した義彦は、手のひらに付いた血を舌で舐め取りながら、呆然と車に乗り込んできた。覇気を欠片も感じないが、何処か危なげで、何か言葉を掛けた瞬間、襲い掛かってきそうな獰猛さも隠されれていた。
高本が乗ってきた義彦に対して軽口を叩かないのは、それに気が付いたからだろう。
黙って現時点で入手している情報を淡々綽々と読み上げているだけ。真ん中に沙月が座っているせいで狭いスペースになってしまった彼女の左隣で、義彦は窓に頭を乗せながらそれを聞いていた。
「と言う訳で拳銃を所持した男が街中を彷徨いている。非常警戒宣言と共に、テレビで男の情報を流す。これで人は家の中から出ないだろうし、外にいる連中も中に入るだろうから、捜しやすくなったはずだ。後は何処に逃げたか何だけど」
高本がミラーでこちらの様子を伺う。沙月はどうにか取り戻した無表情で、それを鏡越しに見返し、義彦は特に反応しなかった。
「いい加減にしろよ。仕事だろ仕事」
深く分かりやすいため息を吐きながら頭を抱える。
「お前が言われているのよ」
瞳だけ動かして、言う。
それに対する返答は無言。
その答えに沙月もまた息を吐き出した。車内の二酸化炭素濃度が僅かに上がる。
「……分かっている」
外部の音をほぼ遮断した車内に、声が落ちる。小さな普段の彼からは思いも付けないほどの声量だ。
視線はまだ虚空の中。
「分かってるから……もうちょっと待てよ。生まれて初めての挫折なんだ。しかも連続と来たもんだ」
「挫折……ね」
「そう。ざせ……おわっ」
義彦の言葉を遮って、沙月は彼の身体を自分の元に引き寄せた。正確に言うのならば、沙月は自分の膝上目掛けて義彦の頭を倒し、その頭を沙月の太腿に乗せた。
所謂膝枕、と呼ばれる状態を作った。
義彦のいた位置のせいで脚を伸ばすことも出来ず、身体を縮み込ませたままで窮屈そうではあったが、義彦はそんなこととは関係なく、目を白黒させていた。
「もう少し、充電に時間が掛かるのなら、ここで充電しなさい」
「おまっ」
「黙れ」
耳上から、垂直に落された声に、義彦はうぅ。と唸り声を上げながら、口を閉じた。
「高本さん」
「は、はい! 膝枕、羨ましいですねーなんて」
「二人切りになりたいので、出ていって下さい」
冷たいと言うよりは冷徹な声。
「はい」
スゴスゴと車のドアを開けて高本は大人しく出ていった。
そうしてそのまま、近場にあった電柱に身体を預けて、口にタバコを加えて火を付けた。
それを確認しつつ、沙月は自分の太腿に掛かる重さを感じながら、その側頭部を撫でた。
「これってひょっとして、俺が頭を撫でられたその感触を感じながら、強がっていた自分を捨てて、涙でも流すところか?」
「さあ? それが良いならそうして良いけど。お前のことだから、そうはならないだろう? 寧ろ、私の太腿に頬を押し当てながら、頬摺りをして感触を確かめる方が、それらしい」
力なく笑う義彦に合わせて、唇を釣り上げながら言うと、ははは。と言葉のような笑い声を上げて、義彦は目を瞑った。
「そうな。これが生足じゃなく、黒のニーソでも穿いてて、スカートとの間に出来る絶対領域が構成されていたら頬ずりしても良かったな」
「ふーん。黒ニーソと絶対領域か。覚えておくわ」
「制服だと、なお良し」
「いいよ。明日から私のあだ名がニーソ少女になるくらい毎日穿いてあげる」
「やったぁ」
まだ声に力はない。言葉の掛け合いを続ける様は、子猫同士のじゃれ合いにも似ている気がした。
「他にも要望があれば聞いてあげるけど?」
「ああ、そうだな。ブルマは見せて貰ったから次は……」
その後暫くマニアックな要求をし続ける義彦の言葉を総て受け入れて、沙月はずっと頭をなで続けた。
「つまり私は明日から、ニーソを穿いて、パンツを穿かず、上の下着はオープンブラジャーをにして、制服の上の裾も切り、臍が見えるくらいに。スカートはギリギリ気をつけないと殿部が見える短さに、髪を伸ばして二つに分けてツインテール。細いフレームの眼鏡を付けてツンツン少女の口調で、でも頬だけ染めて好意を見せ続ければ良いのね」
「そうだな痴女真面目可愛いツンデレ系女子だ」
「家に帰ったら、裸エプロンで出迎えて、家の中では常にブルマー、お風呂に入る時は透けやすい白のスク水で一緒に入り、寝る時は上のワイシャツだけを羽織って下には何も穿かずに一緒に寝る」
「完璧だ」
「ならそうしてあげねわ。出来たら結婚してくれるよね?」
「勿論」
目を瞑りながら頷いた義彦に、沙月はフフフ。と笑ってもう一度頭を撫でた。
「……嘘つき」
そう言って沙月も目を瞑る。義彦の声は段々と眠気を帯びているようで、それに合わせるように、沙月もまた眠気を感じ始めた。
「まだ見つかりそうにないし、少し寝て良いか?」
「いいよ。少し寝ましょう」
言い合って沙月は手を頭から離そうとした。
その手を義彦は自分の手で包み込む。一度身体に力が入った沙月だったが、その力は直ぐに抜けて、そのまま彼女は手を握り替えし、目を閉じた。
音の無くなった車内で、二人はゆっくりと眠りに付いた。