成長への道程は長く険しく
五時限目の授業、理科が終わり、皆が揚々に席を立つ中で、義彦は大きく首を捻っていた。
「うー、むむむ。難しい」
考えているのは理科ではなく、あの気弱な少女のこと。
「何はともあれ、私は行ってくるね」
向こうもまた席を立ち、報告のつもりか、そう告げる沙月に義彦は頷きながら手を振った。
「生まれたての子鹿のような女の子なんだ。優しく扱ってやってくれ」
「バンビか。うん、そんな感じ」
「沙月は肉食動物って感じだから心配だぜ。小粋なジョークで場を和ませてやってくれよ」
「お前は偏食動物って感じだけどね」
ボソリと告げて、離れて行く沙月。
「待って! 偏食動物って何。何食ってるのさ! つーかそもそも、雑食動物以外って大体偏食じゃね?」
答えが返ってこなかったので、考えるべき命題が一つ増えてしまった。
「ぬおー!」
頭を抱え込みながらグルグルと回ってみるが考えは纏まらない。
「何回ってるの、えーっと清正義彦君って呼べば良いんだっけ? 呼びづらいわ」
日直でもないのに黒板を消してきたクラスの委員長が席に戻る途中、義彦の横に止まって声を掛けてきた。
「あ、クラス委員長だ」
「指差さないで欲しいんだけど……」
「委員長のことを委員長って呼ぶように。俺のことはヒーローって呼んでも良いぜ」
「余計呼びづらいけど」
「いやいや。これがまたどうして中々、呼んでみると癖になるかも知れない。はい、どーぞ」
「いや、どうぞって」
困惑し頼りなさげに周りを見渡す。幾人かの生徒達は義彦達の会話に興味を示しているらしかった。
「はい、カモン委員長」
「えーっと……ひ、ヒーロー、くん?」
「うむ。これからもそれでよろしく」
「なんだかな。ところでヒーロー君。雨美さんは何処に行ったの? 珍しいよね彼女が休み時間に出かけるって」
本題に入ったらしい。沙月が出ていった教室のドアを見つめながら委員長は言う。
「ああ、何か。バンビと戯れに行くとか何とか」
「バンビ? そんなあだ名の子いたっけ?」
「俺がさっき着けたあだ名だからな。まだ浸透していなくても仕方がないか」
「知ってろってほうが無理よ。それ」
呆れ顔の委員長を見上げながら義彦は少し考えてから、口を開いた。
「ところで委員長。俺からも一つ良いかな?」
「何?」
「喋らない女の子をお喋りにするにはどうすればいいかな?」
「ふーむ。中々難しい質問ね。ちょっと待って、シンキングタイムちょうだい」
「今五十秒だから、後十秒」
「短っ」
ちっちっちっ、と秒針に合わせて舌で刻む義彦に、彼女は律儀に付き合って、九回目の舌音で言った。
「やっぱり古典的だけど、趣味とか好きなものの話が良いんじゃないかしら。無趣味で好きなものも無いなんて人、中々いないし」
「……なるほど確かに。俺もコスプレーションの話になると割と舌が滑らかに動くものな」
「あれで割となんだ」
「いや、委員長。ナイスアイディアだ。委員長に相談属性を発見、追加。評価が上がりました」
「ありがとう……でいいのかな?」
首を傾げる委員長はそう言ってから、義彦の目を観察するように深く見つめ、続いて言葉を重ねた。
「でも何でそんな質問を? 仲良くなりたい大人しい女子でもいるのかな?」
「俺がじゃないな。どっちかって言うと人助けって感じ」
義彦の言葉に彼女は、人助けか。と考えるように呟いてから、うん。と大きく首を下ろして納得の意を表明した。
「まあ、ヒーロー君が言うなら大丈夫かな。信用出来るし」
「凄く信用されてんのな俺。いつの間にか評価が鰻登りだ。因みになんでウナギが登ると評価が上がるんだろうな」
素朴な疑問に委員長は良い笑顔を浮かべたまま、首を横に振った。
「知らない。知りたければ辞書なりことわざ辞典なり引けば? 後で答え教えてね?」
「笑顔のまま辛辣なこと言われた。こう言う時、委員長ならスラスラーっと教えてくれるものじゃないの?」
「だって私、テストの順位も学年平均だし、委員長だって、ジャンケンに負けて決まっただけだし」
「そこは立候補だろ! ああもう。委員長にバカ属性と嫌々属性を追加。評価ドン引き」
机に突っ伏しながら、委員長を指差した。
委員長は困ったような声色でため息を吐いて見せた。
「平均だって言ってるでしょ。それに今は別に嫌々じゃないし。割と楽しいよ?」
「じゃあ、チョイ引き」
「なんだかなあ」
あきれ果てる委員長の向こう側から、聞き慣れた足音が義彦の耳を打った。
淀みのない歩きと言うよりは歩法と言った方が良い、武道を習っている彼女ならではのブレのない足音。
「ごきげんよう」
「何処のお姉様ですか。貴女は」
「委員長、バカに付き合うと変態が移るわ、気をつけてね」
「変態……私もコスプレ好きになったりするのかしら」
「何だと! と言うことは、俺はいろんな女の子といちゃつくだけで、俺の趣味にあったコスプレ好き女が増えるというのか、なんて素晴らしい体質なんだ! そうと分かれば委員長。仲良くしよう。そして俺とコスプレ撮影会を……」
「え、遠慮しておく」
あはは。と分かりやすい作り笑顔を浮かべたまま、委員長はその場を離れていった。差し出した義彦の手が行き場を無くして空しく伸びている。
「乾いた笑顔で足早に離れていったわね。と言うかがっつき過ぎでしょ常識的に考えて」
「チッ。折角ナイスなチアガール衣装の似合う女の子だと思ったのに」
「チアガールが似合うの? あの子」
「髪が長いし、手足も長い。スタイルも悪くない。それに俺は彼女が体育の時柔軟で異様なほど足を開いているのを見ているしな、きっと頭まで足が上がるに違いない」
「私も上がるわ。スカートだからやらないけど、家に帰ったら見せてあげる」
「お前のはダンスじゃなくて、空手の前蹴りだろ」
「ネリチャギも出来る」
「いつの間にテコンドーまで始めたんだ」
数種類の格闘技を習っているのは知っているがテコンドーは初めて聞いた。それに対する彼女の返答に唇をニヤリと持ち上げ得意げに一言。
「通信教育」
「お前の習い事って大抵そうだな。通信教育マニアめ」
「次は何を習おうかな、そろそろ花嫁修業に華道とかでも良いかしら?」
距離が詰められる。肉食女は、こうして次の獲物を見付けたらしい。
次の獲物。
自分で考えて思い出した。
「そうだ。三奈穂は? 会ったんだろう?」
彼女に会いに沙月は教室を出て、それが元で委員長は義彦に声を掛けて来たのだった。
「会ったと言うか、いや、会ったは会ったわ。会っただけと言う気がしないでもないけれど。これと言った会話は無かったわね。彼女ずっと俯いてて、私はそれをジッと見ているだけだったから」
「その視線が原因で要因だ悪因だ」
「最初から話してなかったってば。ああでも、一番最初にどうも。っては言われたわね。どうもって返して、その後はずっと見つめてたけれど」
「確実に話そうと思ってたこと潰されたらしい。良い機会だから、お前もコミュニケーションって奴を学んだらどうだ?」
コミュニケーションが取れない女の子と高圧的にしか相手に接することが出来ない女。そのどちらも社会に適合しづらい人種だ。
そんな義彦の言葉を彼女は鼻で笑って否定した。
「何で私が? バカらしい。人との関わり合いなんて私には大して意味が……」
「花嫁修業。俺の嫁は社交的なんだ」
「頑張るわ」
両の拳を握り、胸の前で小さく引いてみせる沙月。その瞳は本気のようだ。冗談を本気で取るところも彼女らしい。それを見ていると冗談ですとは言い辛い、彼女はこうやって外堀から自分のことを埋めているのだ。と義彦は何となく気付いていたが今口にすることはないと黙っていることにした。
きっと明日からは積極的に沙月の方から声を掛けていくに違いない。けれどまだ、三奈穂を強くするには足りない気がした。それが何であるか、まだ、形にはなっていないのだけれど。
「フム」
取りあえずコミュニケーションの練習をと言うことなのだろう。唐突に近場の女子生徒に声を掛けて雑談を始めた沙月を見ながら、義彦は休み時間が始まった時と同じように、首を捻って考えを纏めることにした。
六時限目の授業、掃除、HRを終えた義彦は、体育館にいた。
バスケ部の男子と部活が始まるまでの間、バスケで勝負をしていたのだ。
その様子を隅の跳び箱の上に乗っかって見ている沙月とその後ろ、跳び箱に隠れるようにして様子を伺っている三奈穂の姿もあった。
それらを確認してから、義彦は自分のキープしているボールを取りに来る男子生徒をひらりと躱した。
「クソッ」
「ははは。遅い遅い。ヒーローからボールを奪うにゃ、まだまだ速度と修行が足りないぜ」
そう告げて、ドリブルのまま、ゴールに向って走り始める。
慌てて男子生徒が追うも、ドリブルをしている義彦の速度に追いつけず、その距離は開いていく。最後に一度マークを確認するのと同時に沙月たちの方を見た。ちゅんと此方を見ている。
「よそ見すんなよ」
ゴール下に移動していた別の男子生徒が後ろ向きになった義彦の進路を塞ぐように立ってボールに向って腕を伸ばしたが、義彦はそれも身体を回して避け、地面を蹴ると同じくその場にジャンプしたマークを躱すように身体を半回転させ、後ろ向きのまま、ゴールに向ってボールを叩き込んだ。
「うー、おっしゃー!」
ボールがゴールネットを揺らし、地面に落ちていく。その音を聞きながら義彦は片手でゴールに掴まったまま、沙月と三奈穂に向って手を振った。
「降りろこのバカ。猿かオメーは」
三人がかりで止められず、ダンクを決められた上、女子に向って手を振っている義彦を咎めるように言う男子生徒の言葉に仕方ないな、と義彦は手を離し、地面に着地した。
「それにしても、こうポンポンダンク決めて大丈夫なのかね、このゴール古い奴だし、途中で折れたりして」
「分かってるんなら掴まるなよ。壊したらバスケ部の部費からも引かれるんだからな」
コート上を転がっているボールを広い、少し荒く呼吸しながら言う男子生徒。
「けちくさい学校だな。そう言うのは学校の予算でどうにかしろよ」
「所詮公立校だしね。つーかお前、バスケ部は入れよ。即レギュラーだぜ」
「バイトが不定期だからな。遠慮しておく」
「チッ」
もう何度も同じ答えが返ってきているのだが、それでも義彦を誘う運動部員達は多い。
昨日野球部の四番を、百四五キロのストレートで三振させた時も同じことを言われた。けれど正義の味方として仕事をこなしている以上、普通に部活動に燃えるというのは難しい話だった。
「さてさて、そろそろ弓道部の着替えが始まったかなっと」
「それが目当てかよ。言っておくけど、着替えは更衣室だからここの窓からじゃ見えないぞ」
「良いんだよ。着替えが見たいんじゃなくて、弓道姿の女の子が見たいんだから」
「袴じゃん、露出少ないし、色気も何もあったもんじゃないよ」
そう言った男子を義彦はピッと指差した。
「お前は何も分かっちゃいねー。説明してやっても良いが、直接見た方が手っ取り早い、行くぞ」
そのまま腕を掴み、体育館の壁際、床に張り付くような低い位置に取り付けられた換気用の窓に近付いていく。そこからだと弓道場が目の前にあって、よく見える場所だった。
「おいおい。俺はとにかく露出が高ければ高いほど良いってタイプだぜ。つまり全裸最強説支持者だ。その俺の感性を変えるのは簡単じゃないと思うがね」
「おいおい。俺のことを知らないな? 俺の調教、もとい教育能力は並みじゃないぜ。俺の手に掛かれば一時間で宗教にどっぷり填っている奴を改宗させて、俺の信者にすることも容易いんだ」
「催眠術でも使えるのか。なら服脱がせ放題じゃん。スゲー羨ましい」
「バカ、服を脱がせるのも服を着せるのも、自分の意志でやるから良いんだ。そもそも俺は催眠術で人心を動かすんじゃない」
「だったら何だよ?」
コートに這い蹲って、視線を地面に這わせるようにして窓から弓道場を覗く義彦は、その問いかけにまだ立っている男子生徒を見上げ、しゃがむように促しながら、ニヤリと笑った。
「決まってる。俺の熱意とカリスマ性だ」
「……アホらしい」
顔に浮かんだ汗を服で拭いながら、男子生徒はしゃがみ込んで共に弓道場に視線を向けた。
丁度着替えを終えた生徒達が、並んでいるところだった。
「どうだ」
「いや、別に、ふーんって感じ」
何処までも余裕を保ち続ける男、これまで自分が信じてきたその主義が、簡単に変わるはずがないと信じ切っている男の目だ。そしてそれは義彦にとって、障害にすらならない信用だった。
「良いか、先ずはな」
弓道着について語り始める。この時既に義彦の頭からは、沙月のことも三奈穂のことも消えていた。ただ自分の信じているものをこの男にも伝えたい。
その気持ちは、三奈穂を救いたいと思った時の正義の味方としての気持ちと同じほど、純粋で純真なものだった。