清正義彦と言う転校生
清正義彦は転校生だった。
一月ほど前、他県から親の都合で、ではなく自分の都合で転校してきました。と言う謎の挨拶と共に教室に現れた男は、あっと言う間に学校中で名前を知らぬ者はいないと言われる男になった。
それには当然幾つかの理由がある。
先ず一つにして、最も大きな理由は、常に義彦の隣に佇んでいる少女の存在だ。
雨美沙月と言う名のその少女は、義彦と一緒に転校してきた転校生であり、尚かつその二人の転校生は同じ学校に同じ時期に偶然転校してきた訳ではなく、必然二人揃って転校してきたのだ。
姉弟でも親戚でも無い二人の男女が同時に転校してきた。
邪な想像をするのは難しくない。特に雨美沙月と言う少女が人目を引く美少女であり、義彦自身の顔立ちも整っていたのだから妙な噂が広がるのに時間はいらなかった。
二人は恋人同士で、駆け落ちしてきた。などと言う、よく考えれば出来るはずもない妄想が、二人に向けられる好奇な目を更に増やした。
だからこそ。
だからこそだ。多くの人の目に晒されていたからこそ、多くの人が義彦の特異性を知ることとなったのだ。
初めはバスケットボールの授業中だった。
転校生と言うこともあり、義彦はチーム分けの際、バスケ部や運動の出来る生徒達が集まったスターチームではなく、運動が苦手な者や、友達がおらずチームに入れなかった余り者男子達と一緒のチームに配属された。
美人の転校生沙月といつも一緒に行動している義彦はクラスの男子達から敵視されていた。
義彦のチームと一番先に対戦することになったのは、チームの内三人がバスケ部で、残り二人もサッカー部と言う、クラスの中で一番運動神経の高い者達が集まったチーム。
対する義彦のチームのメンバーは全て帰宅部で、その中でも更に運動が苦手な面子ばかり。
勝負にならないだろう。
そんなクラスの視線の中で義彦はボールを手にしたまま笑っていた。
楽しそうに、嬉しそうに。
せめてものハンデのつもりか義彦チームのボールからスタートしたその試合。十分間の試合の中で彼は、誰より早くコートの中を駆け抜け、バスケ部二人のマークを外し、たった一人で、敵陣まで突っ込むと、そのまま百七十センチ程度の高くもない身長で、コートを蹴って飛び上がると、ゴールに向ってダンクシュートを叩き込んで見せた。
その回数、七回。
相手ボールになっても全て奪い、或いはパスカットして自分のボールにしてダンクを決める。試合終了のホイッスルの後、義彦に向けられたのは、クラス中からの歓声だった。
それからも彼は野球、サッカー、陸上、あらゆる競技で、部活に属している本職よりも秀でた活躍を見せ続けた。
そして現在、彼は学校中の人気者になっていた。
「転校は成功した。と言えるだろう」
「その様ね。拍手して上げましょうか?」
放課後の屋上、部活動に精を出す学友達を見下ろしながら、清正義彦は後ろに立った雨美沙月と会話していた。
夕日が沈みかけた屋上から見る景色は、全てが赤く染まり、素晴らしいの一言だ。
「いらんよ。それより沙月はどうだ? 女子と仲良くやってるか?」
「お前と仲良くなりたい女子達から囲まれる毎日を送ってるわ。正直疲れる。ま、いつものことよ」
「何だそろそろ学校一の美人とかと仲良くなってるかと思ったのに。と言うか、この学校」
振り返らずに肩を竦め、持ち上げた手でそのまま金網を掴んだ義彦は顔を金網に近づけて校庭を走る女子陸上部員を凝視した。
白い体操服と、紺色のブルマ姿の女子に、義彦は思わず口元を緩めてしまう。
「ブルマ。最高じゃないか」
「……あれはセクハラ以外の何ものでもない。正直、女子からすれば苛立ちしか感じないわ」
「分かってない。分かって無いぞ。沙月、ブルマは古き良き日本の文化にして、廃れさせてはいけないものだ。だと言うのに、何故お前は短パンを履いている? 以前の学校の体操服を使用しているんだ!」
「熱く語らないで。今のお前、大変重く変態チックだ」
「煩い! お前は分かってない! 沙月みたいなボーイッシュな女にブルマは映えるんじゃないか。似合う度ナンバーワンじゃないがな。見てろよ。お前の誕生日はブルマに決まったからな、しかもワンサイズ小さい奴買ってやる」
振り返り、瞳に炎を宿したまま語る義彦に、沙月は小馬鹿にしたように首を左右に振る。
「好きにすればいい。着ないけど」
「着ろよ。着てよ。ブルマからはみ出たショーツを隠すために食い込みを直せよ!」
「残念ながら私の下着は基本Tバック。ハミパンは期待出来ないわ」
自分に向って突き出された義彦の人差し指を、煩わしそうに弾いて言った彼女の台詞に、義彦は斜めに逸れた指を戻すことも忘れて、短めのスカート上からショーツがあるべき場所を見つめた。
「股間に熱視線を送らないで……エッチ」
両手でスカートを押さえる沙月に、義彦はふふふ。と唇を手で覆って不敵な笑みを浮かべた。
「エッチって言葉の響きは、いいな!」
「責任を取る気があるのなら、その昂ぶりをぶつけても構わないよ?」
どうする? と流された瞳に、義彦はおっと。と言いながら彼女に向って差し出し掛けた手をもう片方の手で押さえつけながら、手元に戻した。
「おっと、俺としたことが。危うく親友を永久就職させるところだったぜ」
「あら。クールになってしまったか。頭も股間も」
「股間って言うな!」
頭、股間の順で指される沙月の指を防ぐように、両手で盾を造り股間をガードする義彦に、沙月もまた、ふふふ。と不敵に笑ってから、指を義彦から離し、天井に向けた。
「それよりお前、色々な部活動から誘われていると聞いてるけど、どうする気? 入るの?」
「まさか。俺にはお仕事があるんだぜ。部活なんか出来やしないよ」
「なら、私もと言うことになるわね。ここは珍しく弓道部がある学校だから少し気になっていたけれど、ま、些細なことね」
視線を逸らし、太陽を見ながら目を細める沙月に、義彦は盛大でわざとらしいため息を吐いて、金網に背中を預ける。
ギシリと揺れる金網に抱かれながら、義彦は腕を組む。
「何度も言うようだけど、お前は別にお仕事に付き合わなくても良いんだぞ? 幸せな学生生活をだな……」
「お前の指図は聞かない。ずっとそう言ってるだろうに」
「この頑固女め」
「失礼な。頑固美女めに言い換えなさい」
「頑固美女め」
言われるまま美女を付け足した義彦に、沙月は満足げな頷いた。
「頑固美女です」
学校から歩いて五分のマンションの一室が、義彦の住まいだった。
制服を脱いでネクタイを緩めながら、義彦は大きく伸びをした。
家の中にはまだ段ボールが重なり、その殆どは解かれていないが椅子とパソコンがあればそれで特に問題は無い。
制服を段ボールの上に脱ぎ置くと、上はシャツ、下は下着と言う極めてラフな格好のままで、パソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ。その間に冷蔵庫から水を取り出してキャップを開けながら戻ると、パソコンは起動していた。メールを開き、新しいメッセージが入っていないかを確認するが、新着メールは無かった。
「いい加減暇だ」
やってられないと椅子に身体を預け、そのまま背もたれを倒して大きく伸びをすると玄関の扉が勝手に開いた。
「いい加減暇なら、部屋を片付けたら良いのでは? こんな部屋で良く生活出来るものだ」
「構うなよ。俺の暇は時間の問題じゃなくてスリルの問題なんですー」
背もたれを限界まで倒し、首を後ろに向けて上下逆に写っている沙月に言う。
夕飯の材料らしい、スーパーの袋を持ったまま、沙月は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「スリルの為に仕事してるの? 一応命に関わる仕事なのだからもっと緊張感を持ちなさい」
「うっさい。お前は俺の母親ですかってんだ」
「親友よ。だからこれは親友としての忠告」
冷蔵庫に移動して、食材を詰めていく彼女の言葉は、呆れるほど軽い癖に、どこにも冗談の要素が存在せず、本気であることが伺える。
軽口で本気を語れるのが沙月の特技であり、嫌のところでもあった。
「今夜の食事は何?」
「今夜の食事はカレーです」
「シンプルにして最強の食べ物だな」
「男の子なら大好きでしょ?」
「ああ、俺も男の子だから大好きさ」
台所から何かが落ちる音がした。こぶし大サイズの大して重くも無いものがフローリングの床に転がった音、察するにジャガイモだろう。
「大好きって言葉を私に言われたと勘違いして動揺してしまった」
「沙月ちゃん大好きー」
沙月とは違い、軽口を軽口として語れる義彦の軽口に、台所からゴロンゴロンと多数の野菜が転がる音が聞こえた。
「動揺しすぎてしまった」
ばつ悪そうな声がする
「今夜のカレーは傷んでそうだ」
傷んでいるかと思われたカレーは、とても美味だった。
二人で段ボールに囲まれたリビングで、デーブル越しに向かい合って食事にありつく。沙月が義彦の夕飯を造りに来るのはいつものことで、そのまま彼女がこの部屋で風呂に入っていくのもいつものことだった。
それはいわゆる、そう言うこと。
ではなく。そう言うことをしても良いけれど、その場合は一生涯掛けて、私を愛し続けていくつもりがあるんでしょうね? と言う見えざる言葉が張った罠なのだ。
風呂上がり、これ見よがしにタオル一枚身体に撒いたまま、瓶入り牛乳を煽る彼女の柔肌に、義彦が指一本でも触れようものなら、その瞬間が自由の翼が沙月の愛の蜘蛛の巣に絡め取られることになる。
その後に待つのは哀れ、罠に掛かった獲物を女郎蜘蛛が捕食するだけ。なんて恐ろしい。
彼女が自分に愛情を向けているのは義彦自身良く分かっているのだが、実際その愛情は、友情との合挽きだと言うことも分かっていた。
ようするに、親友としての感情もあるが、自分が愛情を与えるとすれば、この人しかいないから、他の女に取られる前に自分のものにしておこう。と言う、ある種キープ扱いである。
そんな不純な愛を受け取る訳には行かないと、今日もまた義彦は沙月の求愛を袖にし続けるのだった。
「それでは、お先にお湯頂きます」
「どーぞごゆっくり、玉の肌でも造ってきなさいな」
「ええ。お前のためにも、ね」
「……」
罠に引っかかってたまるか。
笑顔に妖艶さを入り混ぜた表情を前に義彦は再度、自分に言って聞かせた。
シャワーの音が、途切れることなく聞こえるようになって二十分以上経つ。余程丹念に身体を磨いているのか、こちらの欲情を誘うための罠なのか。
どちらとも着かないが、確かめる術を取れるはずもなく、椅子に戻って漫画本に目を通しているとパソコンから、メールの着信を知らせる音と、新着を知らせるランプが点滅した。
こんな時間にパソコンにメール。
義彦の口元が持ち上がり、心臓がトン。と一つ音階を上げた。
舌が自然と伸びて、唇を湿らせるように動く。そうしてパソコンのメール画面を開き、まだ開いていないメールを選択し、クリック。
題名は『指令』ただそれだけ。
「よし……よし……よしよしよし、よしッ!」
興奮に釣られて背中から、熱気を感じる。
「ふむふむ」
集中していたせいで気づくのが遅れた。
声は沙月の物で。背中に感じた熱気は当然、湯上がりの沙月の身体から放たれる湯気であった。それに気付いた義彦は、反射の速度で後ろを振り返った。
そこにはコンマ数ミリの距離だけ離れたところに沙月の姿があった。
それも、その数ミリ。最も彼女と近しい部位は、義彦の唇であり、彼女の最も近しい部位もまた唇。つまり、義彦と沙月は現在、キス数ミリ手前。と言う状態だ。
湯上がりの美少女と見つめ合うこと数秒。ボディーソープの優しい香りが義彦の鼻腔を擽り、鼻がひくついた。
「風呂上がりで綺麗とはいえ、女性の匂いを鼻をひくつかせて香るのは如何な物か。と思う」
水分が吸収され、いつもよりも更にふっくらと膨らみ、艶と弾力を持った唇が動き、その奥の貝殻のような白い歯と、唾液のコーティングを受けた赤い舌が動いた。
「口の中からちょっとカレーの匂いがするぞ」
「なっ!」
通常状態よりも、赤い肌が更に赤まり特に頬がリンゴを摸したように赤く染まる。
「仕方ないでしょ。カレーの匂いは強く、歯も舌も磨いても、まだ匂いが取れないんだから……ヤダ。そんなこと言われたら、私……」
口を覆い、顔を離しながら、涙すら浮かべ必死に言い訳する美少女が、バスタオル一枚で立っている。なんて美味そうな獲物だ。そう思わせるには十分なのだが、その獲物は、実は罠を張ってこちらが近付いてくるのを待っているのだ。つまりはこちらが獲物なのだ。と自分に言い聞かせ、義彦もまた距離を取った。
「ああ! なんて罠だ。恐ろしい。俺は負けない! 自由の翼はお前にはやらん。やらんぞ。沙月ィ!」
「チッ。言っておきますけど、カレー臭ならお前の方が凄いからな。仕事の前に歯を磨いときなさい」
「やっぱり演技か、一気に乙女から男前になりやがって。これだから女は恐ろしい」
離れていく沙月の背中と、バスタオル越しに伺えるボディラインを見つめながら言う。
「……仕事に行く前に、ブレスケア買わせてね?」
不意に足を止めて振り返り、頬を赤められたまま半顔を覗かせる。
その可愛らしさは先程とは別の意味で心音が二つほど上がった。
女は本当に恐ろしい。