彼岸花が咲く場所で
「やあ、これはこれは、こんなところに来るなんて、酔狂な人間もいたものだ」
着崩した甚平にハットを被るという、なんともチグハグな格好──後に彼は、「和洋折衷を体現してみたのだよ、良い取り組みだと思わないかい?」と口髭を弄った──。それを上回る異質さは、彼の足元にあった。
「……浮いてる」
「そりゃあ死んでいるからね。幽霊の特権というやつさ」
呆然とした心が口から漏れ出る。彼は、そんな私を見て、けらけらと笑った。
聞けば、彼は地縛霊とのことであった。
ピンクの花が咲き乱れ、春の麗らかな陽気が降り注ぐ中にずっといられるとは、なんとも贅沢な幽霊だ。そう伝えると、彼は、そうだろうそうだろう、とさもここが自分の土地だと言わんばかりに胸を張った。言ってしまえば、居候の身だというのに、なんだろう。居候の癖に「いやしかしね、この土地はそんな良いもんじゃないよ」と口にすることも問題である気がする。ふてぶてしい。
「冬になると、雪がすごくてね。僕も随分高くまでいかないと埋もれちまうのさ。まあ埋もれたところで、別に寒かないんだけどね。でもほら、親切な人が“救助”に来たりしたら大変だろう? 死なれて仲間が増えてもねえ、嬉しくないし。その点、浮いていたら幽霊だって気付いてもらえるから」
つらつらと喋り続ける彼は、とても“天に昇れぬ程の強烈な未練”を抱いているようには見えない。私は自分が知る話を、信じるべきか否か、大変困っている。
この土地は、祖父のそのまた祖父が手に入れた土地なのだという。そこからしばらく、なんとなくの管理を経て、こうして私のところまでころころと転がってきた。
譲り受けたのは、つい最近の出来事だ。実際に我が身に降りかかってから思う。“なんとなくの管理”──それは怠惰ではなく、単にそれ以外にどのようにしてこの自然溢れる広大な土地と向き合えばいいのかわからなかったのだ。
──この山には、神様がいるんだよ。
まだ私が幼い頃、祖父は内緒話をするように、口元に緩やかな弧を描かせ、囁いた。
手を引かれて見た花々が咲き誇る光景に、なるほど神様の一人や二人、いてもおかしくはないだろうと感じた。
この幽霊は、まさか神ではあるまいな。
私は疑いの眼で見やる。しかし何度見ても、地縛霊という名が持つおどろおどろしい印象を受けることも、神に相応しい神々しさを感じ入ることも無かった。果たして、どちらか。しばらく悩んでいたが、「それより貴方はどうしてここに来たのかな」という問い掛けに、答え合わせのできぬ問題は見送りすることとなった。
「祖父の遺品を整理していたら、ある地図と手紙を見つけました。ここに貴方が──正確には、物思いにふける幽霊がいるのだと」
物思い。心のうちで繰り返す。物思いにふける性格に、見えなくもない。しかし物思いといっても、あまり深い悩みではなく、取り留めもない日常を憂いているような印象だ。
しかし祖父の手紙には、『彼には死んでも死に切れぬ熱情があるのだ』とも書かれていた。
『私には叶えることはできなんだ。決めることができなんだ。我が友人が救われる日がくるよう、願うことしかできなんだ』
その締めくくりからは、祖父の想いがじわじわと伝わってきた。まだまだ親孝行、ならぬ爺孝行が足らぬ頃、祖父は天に召された──この幽霊のことが、自らの死を否定する程の心残りになっていなければ、真っ直ぐに天国へ向かってくれたはずである──。
なにか、もっと明確な恩返しができれば良かったのに。
そう思っていた私にとって、これは大きなチャンスであった。
もし祖父の友人であるという幽霊がまだそこにいるのだとしたら、それを救うことが、祖父への手向けになるのではないか、と。
随分と身勝手な理由ではあるが、下手な親切心よりは真剣で、強い意志があった。
しかしながら、と目の前をまた見やる。
「物思い──ああ、そうだともそうだとも。僕は物思いにふける幽霊なのだよ。願わくば、紅茶など飲みながらそうしたいところなのだが」
やれやれこの身は飲食せずとも消えずに済む代わりにその代償も大きいのだよ、と嘆く幽霊は、やはりとてもではないが『強過ぎる熱情によって天に昇れない』ような幽霊には見えない。どちらかといえば、『あちらにはさぞ美味しいものがあるのだろうね! さてどのような味かしら』と能天気に考えながら、ふわふわとノンビリ昇っていくタイプに見える。
彼とは当然、初対面であるのだが、初見で私は彼をその分類に入れた。あながち間違ってはいないように思う。
だがそれでも引けなかったのは、祖父の存在ゆえであった。祖父は、人を想う人間であった。ユーモアを持ち、人を笑わせ、心の底から温かい言葉を贈る人であった。ならばこそ、この幽霊の“底”を覗けたのではないか──私には足を踏み入れられぬ、その領分を。
「しかし、僕を知っているということは、きみ……ふむ、顔の形からして、××の血縁かな」
「ええ、××は祖父です。祖父は生前より、貴方が幽霊、それも地縛霊であることを、大変気に掛けていたようで、こうしてこの度、私が参上した次第です」
「はあ、まあ、彼はよく気がつく人間だったからねえ」
しかし彼も死んでまで孫を寄越すとはねえ、と少々呆れ気味の幽霊に、うちの祖父は幽霊までも呆れさせる能力を持っていたのか、と可笑しくなる。それはなんとも、祖父らしい。
「で、どうしたら貴方は成仏するのですか」
「やあ、彼の孫にしては、情緒もへったくれもない言葉だなあ」
幽霊は、大袈裟に両手を挙げた。和洋折衷とは本人の談だが、なるほど、性格や仕草すらも和洋折衷なのか。情緒を重んじる割に、その仕草は決して和に準じているとは呼べない、オーバーリアクションだ。
「ではどうしろと言うのです」
私がムッと顔を顰めながら文句を言えば、しかしその矛先にいる幽霊は、なんとも人を食ったような笑いを浮かべた。
「たとえばだね、僕はこう思うのだよ」ひとつ、指を立てる。「大事なことを話す相手は、大概、親しく、信頼している人物と決まっている。無論、その“信頼”と“警戒”の境界線をどこに引くかは個々人に任されるところではあるが──では、そのラインを越えるにはどうするか。僕は、ある程度の時間と会話数、それからフィーリングが大切である、と考える」
無意味に横文字を使う彼に、私は空を仰ぐ。とてもじゃないが、感性が合うとは思えなかった。
「時間と会話数が、と仰いますが、会ってすぐに仲良くなる人もおりましょう」
「それはつまり、フィーリングが一番重要な要素だということだね」
果たしてそうだろうか。生憎と私には、その考えの是非を決められる程の人生経験は無い。私の怪訝そうな顔など一切気にも留めずに彼はまるで楽しげに踊るように語る。
「一目惚れなるものが存在することを考慮すると、やはりこのフィーリングというのは、非常に大切で、逆に言うと非常に厄介なのだろうね。良く働くということは、悪くも働くということだ。仮に初回での印象が悪かった場合、それを覆すのはなかなかに難しく──」放置しておくと、この話はどこか止められない場所まで転がっていきそうだ。私は「ええ、ええ、お話の意図は分かりました」と彼のフィーリング熱に冷水を浴びせた。焼け石に水だったかもしれないが。
「残念ながら、私は貴方にフィーリングなるものはさっぱり感じられません。けれど成仏はして欲しいと思っています──あくまでそれは“私のため”であって、貴方を慮ってのことではないのですが──。成仏への道を探すにあたり、相互理解が必要だと言うのならば、……何しろご本人の仰ることですから、正しいのでしょう。であれば、こうしようではありませんか」
私は彼の真似をして、両手を広げてみせた。
「私はこれから、定期的にここへ通いましょう。会話を重ね、想いをぶつけ、貴方が私に話しても良いと思える日が来たら、その時に、私は貴方の力になりましょう」
「なんとも勝手な話だ」
図々しいなあ、と肩を竦ませる彼に、人とは元来図々しいものではありませんか、と返せば、確かにそうかもしれない、と神妙な顔で頷かれた。
「それにしても、きみ」幽霊に、胡散臭げに見据えられる。「定期的に来るなんて、相当暇なのかい?」
失礼な輩だった。
やはり、こんな輩が殊勝にも“物思いにふける”など、何かの間違いではなかろうか。
私は思う。たとえ時と会話を重ねても、フィーリングなるものが重なることはあるまい、と。
果たしてその先に“未来”はあるのか。甚だ疑問が湧き上がり、もはや一生、私はこの幽霊を成仏させることなどできないのではないかと思ったが、しかし自ら宣言し進んだ道。後戻りなどしてなるものか。私は気合いを入れ直すべく、ぺちりと自分の頬を叩いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
とはいえ、流石に何度となく通っていれば互いにそれなりの情は湧き上がり、“知人”関係まではのし上がることができた──打算で始まったこの関係を“友人”という定義で括るのは、いささか違和感が残る──。
問題はここからである。肝心なことは一切口にしない頑固な幽霊を、いったいどう対処したらいいのやら。
祖父の言う“心配”も、わかってきた今日この頃である。
春が夏になり、夏が秋になる。その過程で、彼は春先にふうわりと咲く花に目を細め、暑い陽射しの中で人を癒す木陰に口元を緩め、──秋を鮮やかに彩る彼岸花を見つめ、悲しげに瞳を揺らした。
彼の感情を揺らすものは、季節そのものではなく、どこか、それを通して見る別のものにあるような気がした。
その頃には、その正体こそが、彼がこの世に残る“未練”なのだろうと気が付いていたが、かといって決定的に踏み込むこともできず、私は決まって沈黙した。やがて彼の意識がこちら側へ戻ってくると、訳もなく安堵する。
しかし忘れてはいけない。あくまで私は、彼を成仏させる目的でここにいるのだ。
祖父の想いを引き継ぎ、──彼の視線の先にいる“人”の、代わりに。
気を取り直してヨシと胸をムンと膨らませると、軽いジョブを入れる気持ちで口を開く。
「ここは誰かが手を加えているのではないかと思うくらい、綺麗ですね」
黄や白の彼岸花を見渡す。言葉に嘘は無い。
「赤い彼岸花が無いというのも、また珍しい」
一般的に彼岸花というと、赤色のイメージがある。実際、道端で見掛ける彼岸花の大半は赤色だ。
「なにしろ幽霊が棲みついているものだからね。普段と違うことが起こるのだろうよ。知っているかい、彼岸花は“幽霊花”という別名もあるのだよ」
「はあ。それはまさに貴方にぴったりですね」
「おまけに、“地獄花”とも言うそうじゃないか。なおのことお誂え向きだろう?」
自虐的に述べながら、しかし彼は少しも堪えていない飄々っぷりで笑う。私はそのような彼に多少たじろぎ、結果、言葉を紡ぐことができなかった。しばらく視線を彷徨わせてから、ようやっと「そこまではさすがに思いませんが」となんともならないことを口にする。気の利いた言葉、あるいは彼の卑屈を打ち崩す台詞がさっぱり思いつかなかったのだ。彼がわざわざ自分を蔑むような発言をすることもこれまでになく、余計に狼狽える。
裏を返せばそれは、私に少しだけ心を開こうとしてくれたのではないか、と後になって思った。つまり結局私は、あれだけ見栄を張っておきながら、何もできなかったのである。
私が狼狽しながら辛うじて言ったことといえば、「なるほど、貴方のイメージフラワーは彼岸花なのですね」という、何がナルホドなのか、そもイメージフラワーとはなんぞや、とツッコミ満載のコメントのみであった。お話にならない。
当の本人──横文字が大好物の彼は、えらくその言葉が気に入ったようであったが、私にとっては何の利もない。当然ながら。
しかしどうにも彼の表情が気になった私は、帰宅してから、ネットを漁り、彼岸花のことについて調べた。
順当なところから、花言葉。
『悲しい思い出』『また会う日を楽しみに』
『想うは貴方一人』『追想』『深い思いやり』
死の花と言われる割りに、なんとも健気だこと。小首を傾げる。
由来を調べ、ああ、と納得する。なんでも彼岸花には毒があるらしく、お墓の近くに埋めることで、墓荒し(人間以外を含む、というよりむしろ基本的に人間以外が対象)を防ぐ役割を担っていたらしい。
別に花に意思があるわけはなかろうが、動物避けの効果を求めて植えたくせに、不吉な花のように扱うというのは、なんとも勝手な話である。人間はそのような生き物であるので、仕方ないのかもしれないが。
それにしたって、あの光景は不思議である。
白と黄色だけの彼岸花。
白は、一心に相手を想う力の強さを表しているように感じる。対する黄は、悲しみだ。未来よりも過去の方が比重が大きい。そのようなイメージだ。
ならば赤は──。項目を見て、微かに目を見開く。
『情熱』『独立』、そして──『転生』。
果たしてこれはただの偶然か。それともあれらが本当に『幽霊花』だと言うのなら、それは彼の気持ちそのものなのか。つまり……転生などは、しない、と。違う命になったりせずに、ひたすらにただ一人を想い続ける、と。
人は、それを純愛と呼ぶのかもしれない。
しかし私は、それではまるで呪いではないかと思ってしまった。
幸福になれないことだけが分かっている。
それとも彼がその道しか歩けない程の罪を、負っているとでも? とても信じられない。
なにしろ、物思いにふけっていることすら疑わしい程だ。そのような深く重い罪など、持っていないのではなかろうか。だからつまり、彼がそこまで苦しみ続ける必要など、どこにも無いのではないか。──彼が見た目以上のことを考えていることを知りながらも、私は嘯く。
彼が背負う罪など無いのだ。背負っているとしたら、それは彼ではなく──。
何故だか私はいてもたってもいられなくなり、気が付けば真っ暗闇の中で、家を飛び出し、山に入っていた。
夜の山に入るなど、危険だ。
分かっているのに来てしまった。
月明かりが、白と黄を纏う彼岸花を照らす。月の光を受け止め淡く光っているようにも見えるそれらを前に、崩れるように膝をつく。
「珍しい、というよりも無謀じゃないかね、きみ」
揶揄するような声が聞こえた。幽霊の身には当然のように夜の山だって危険ではないに違いない。それが妙に──何故だか、とても悲しい、と。私は感じてしまった。
「何故です」彼の言葉を無視して、自分の心から零れ落ちた言葉が、口から漏れ出す。「貴方は何故、成仏なさらないのです」
「何故と言われてもねぇ……まあ、する理由も無いからだよ」
「嘘でしょう。そんなのは、嘘です」
私は、わざとなんでもない風を装って笑う幽霊を非難するように、目を尖らせた。強い口調で、貴方は大変な嘘吐きだ、と断言する。
「私が信用ならぬなら、話さなくてもよろしいのです。しかしですね、貴方はご自分のことを大事にしなくてはなりません」
「何を言っているのやら。僕は好きでここにいるのだよ。そりゃあ、全てが全て思い通りとはいかないけどね」その証拠にほら紅茶も無いし、と戯ける彼に「嘘です」とまた言葉を重ねる。
「嘘です、それは真っ赤な嘘でしょう」興奮した私はとうとう、言ってはならないことを口にした。これだけは、幽霊たる彼の口から語られぬ限りは、黙っておくできであったのに。私はそれを破ってしまった。「──貴方がここにいるのは、○○という女性のためなのでございましょう!」
ひくり、と。
初めて幽霊の彼が、口元を刹那、動かし、動揺を露わにした。
「純愛を貫くおつもりですか? でも、貴方を愛し、貴方が愛した○○は、貴方の死後、別の男性と恋に落ち、結婚し、子を産みました」
残酷なことを告げている自覚はあった。悪者になってもいいと思った。私も、そして○○も。加えるならば、祖父にも。それ以外の全ての親戚が、一様に、悪者になる義務があるのだ。
「その子孫が、」
「きみなのだろう? 知っているとも、勿論ね」
私がみなまで言う前に、幽霊は笑った。
「だって、きみの祖父である××も、それにきみも、彼女に目元がよく似ている」
今度は動揺したのは、私の番であった。てっきり知らないと思っていたのだ。彼は一切、気付いてなどいないのだと。
写真で見た“ご先祖様”は、私の潰れたような顔とは似ても似つかない程、麗しい。これがこうなるのか、と絶望感を抱いた程だ。どこで妙な血が混じったのかと、落胆したものである。
だからこそ、気付かれない自信はあったのに。
彼は妙に真っ直ぐに、私を見やる。
「知っているとも。知らないはずがない。僕が命を落としたこの山を、彼女は嫁ぎ先で稼いだお金を注ぎ込んで、購入した。そうして毎年毎年ここへ訪れた。ここを訪れ、彼岸花を植えたのだよ」和服の裾に手を突っ込みながら、彼は続ける。「しかし不思議なことにね、赤い彼岸花は一向に咲かなくてね。どれだけその種類のものを植えても駄目だった」
きっと縁が無いのだろうよ、と彼は笑う。
笑うな、と思った。そんなに飄々と、なんでもないように、諦めてくれるな。
「きみはきみの出生を恥じる必要はない。きみがそれを罪として捉え、ここに来ているのだとしたら、それは必要の無いことだよ」
「ご先祖を、……○○を恨んではいないと?」
「僕が彼女を? どうして恨む必要があろうか。いったい誰が、彼女に対して、永遠に死んだ人間を愛せと言えるのだい。魅力的な彼女を放っておくなどと、永遠に孤独に生きろなどと。僕ならできないね。塞ぎ込む彼女の手を引き、彼女の幸せを望むよ」
いっそ恨んでいてくれたら良かったのに。愛する人を裏切ったのだと、お前はその末裔だと罵ってくれたら、楽であったのに。許すことと恨むことは、いったいどちらが辛いのだろう。
『彼には死んでも死に切れぬ熱情があるのだ』
『私には叶えることはできなんだ。決めることができなんだ。我が友人が救われる日がくるよう、願うことしかできなんだ』
──ああ、我が祖父よ。
私も貴方と同じかもしれない。
幽霊たる彼は、それこそまるで白き彼岸花の如く、一途で、そして真実、彼女を愛していた。おそらく、今だって。
彼の時だけが、この場所で取り残されている。
「安心したまえよ。彼女はしっかり、夫を愛していたさ。僕に対する未練など無かったよ。恨みも無かった。たとえ彼女の心の中に、僕の存在があろうとも、──こうして花を手向けてくれようとも、……それはね、仕方がないことなのだよ。でも浮気などではない。彼女の夫への愛が崩れるわけでもない。安心したまえ。きみが愛を受け継いできた子であることに変わりはないのだから」
違うのだ、と叫びたかった。
そうではない、そうではない!
確かに私には、浅ましくも、許してもらおうという気持ちがあったのだろう。先祖の罪に苛まれ、その元凶を取り除こう、と。
けれど今は、それだけではないのだ。決して。
初めに自分で引いた線引きが、自分の首を絞める。貴方のためではない、と。自分のためだ、と。
それは変わらない。
変わらないけれど、中身が変わった。
彼が苦しみから解放されないことが、私は、苦しい。
──私は、とても、とても、苦しいのだ。理由もなく、苦しい。
「さて、きみよ、そろそろ帰ったらどうかね。月が照らしているとはいえ、やはり暗いし、怖いね。生憎ときみに何かがあったとしても、僕には助けを呼ぶこともできやしない」
目の前で死に行かれるのをじっと見ている趣味は無いのだよ。微かに笑みを──偽りの笑みを含んだ、声。
「貴方は」私は唇を震わせる。「本当にそれで良いのですか」
何がだい、と訊ねられる前に、再び疑問に音を乗せる。
「何故、成仏なさらないのです」
──貴方の愛した彼女は、もうここにいないというのに。
“理由”を失ってなお、何故貴方は、ここにいるだ。“理由”とは、何だ。
何も解決していない。何もわかっていない。
この幽霊は、まだ何も語ってなどいない。
「きみはやっぱり、××と違って、情緒も何もあったものではないねぇ」
普通は距離を置かれたら、踏み込み過ぎだと悟り、そのまま引き下がるものではないかね。
小馬鹿にするような発言のくせに、剣呑さが足りない穏やかな目を、あらん限りの力を持って睨み付ける。
「ここで引き下がれば、さぞ“美しい”、ひたむきな愛を持つ幽霊の“美談”が残るのでございましょう。しかし私は、──貴方が救われぬ美談など、クソ食らえ、です」
鼻息荒く、幽霊に詰め寄る。
「そう思う程度には、私は貴方のことを、大切な友人だと思っているのです。それとも、会話と時間が、まだ足りませんか。確かに私は、貴方との間にフィーリングが合うなどは一切感じません。だけども、感じなければ、友人だと思ってはいけませんか。他の誰でもなく、我がご先祖でもなく、貴方の幸せを、まずもって真っ先に、願う人間であってはいけませんか!」
私の剣幕に押されたように、彼は身を引く。
月明かりの下、足元が薄ら分かる程度のそこで、力強く一歩を踏み出す。
「貴方が寂しさを抱えたままで良いとしても、私が良くないのです!」
彼はしばし黙り込んでから、「なんとも勝手で……図々しいものだ」と言う。人とは元来図々しいものではありませんか、と湧き上がる悔しさを堪えながら返せば、確かにそうかもしれない、と苦笑される。
そうかもしれないと言うのなら、図々しくなればいいのだ。紳士の皮など被っているから、身動きができなくなるのだ。
片手でハットを押さえ付けた彼は、そのままゆっくりと目を瞑る。やがて、いろいろな想いを放出するように、あるいは宥めるように、長く息を吐いた。
「本当は」彼はそれまでの戯けた調子が嘘のように静かに、言葉を選ぶ。「僕がね、彼女を幸せにしたかったのだよ。他の誰でもなく」
でもそれは叶わないことだ。どうしたって叶わないことだ。どれだけ願おうとも、彼女が泣いている時に、抱き締めてやることすらできない。傷付けるだけだ。そうして痛感するのだ、無力さを。
「彼女は僕へ未練は無かった。でも僕は、彼女に未練があったのだよ。……僕が、幸せにしたかったんだ」
叶わないならばせめて、彼女の幸せを祈る男になりたかった。何があっても、彼女の幸せを見守る男になりたかった。
「ですがもう彼女はおりません」
「彼女はいないけど、彼女の遺した物がある。この彼岸花もそうだし、きみたちもそうだ」
「ですが──」
私は眉を寄せる。
「そこに、貴方の幸せは無いのでしょう。見守ることが、貴方の幸せではないのなら、○○がそのようなこと、喜ぶはずがありましょうか」
ザ、と風が吹く。
それは私の言葉を肯定するようでもあり、否定するようでもあった。
「本当に、彼女を幸せにしたいのであれば、」
しかし仮にその風の音が、否定の意味を持っていても構わないと思った。
世界の誰もを平等と見る意見では、目の前の人は救えまい。我儘で、極端で、偏りがなければなるまい。
平等の重要性を知りながら、歪であることを認める。そうでなければ、人は人を、真の意味では愛せないのではなかろうか。
「──貴方が貴方自身を、幸せにしなければ」
少なくとも、と続ける。
「祖父も、○○も、貴方が幸福であることを、貴方の来世に幸福が満ちていることを、祈ったはずです。だから、祖父は手紙を私に残しました、○○は、この花を……貴方への想いを、ここに残したのでしょう。──私も、その一人です。貴方の幸せを願う一人です」
「……狡い言い方をするものだね」
幽霊は、眉尻を下げた。
僕がどうでも良いとは跳ね除けられない人をわざわざ話に引っ張り出して、そのために自分の幸福を探せ、などと。狡くて、卑怯で、残酷だ、と彼は言う。
……まったくその通りだ。
視線を落とす。しかしそれでも、彼をこのままにはしておけないと思った。
「最初から、私が狡いことくらい、貴方はお見通しだったでしょう。初志貫徹です」
むしろムンと胸を張れば、彼はぽかりと口を開けた。正確には、初志など貫徹できていないのであるが、その事実は伏せておく。
「私は私のために、貴方を成仏させたいのですから。さあ、だから、私のために、さっさと幸せになってください、今すぐに!」
「そんな無茶な」
「無茶ではありません」
「いや無茶だ。そもそも、ここには彼女の、」
「花は貴方がいなくても咲きます。我が一族もわざわざ見守ってもらわずとも結構。どの道有事に一介の幽霊にできることなどございません」
「そんな“事実”は分かっているけれど」
そういう問題ではないのだ、と幽霊は言った。
そんなことは知るものか、と私は返す。
もはや両者、“気持ち”論である。
「──記憶が消えるのが嫌ならば、輪廻の輪を潜る際に、意地で抱えていればよろしいでしょう!」
「無理だろう、そんなことは!」
「やってみなければわからないではありませんか!」
段々とヒートアップし、語調が荒くなっていたところに、幽霊は「無理だ!」と悲痛な叫びを上げた。あまりに切羽詰まった声であったので、思わず口を噤む。
「無理なんだ。抱え込もうにも、もう僕は、……彼女の顔だって、はっきりとは思い出せないのだから」
過ぎ去りし長き時の中で、それは当然とも言えた。曖昧な、ふありとした感情だけが、心に棲んでいるのだ。
「それなら」私は刹那のうち戸惑い、しかしすぐに切り返した。もはやこちらも意地であった。「私のことを憶えていてくださればいいのですよ!」
は、と口をあんぐりと開ける幽霊に、更に言い募る。
「私のことを憶えていてください。会いに来てください。私が貴方に語りましょう。貴方がいかに愚直に人を愛したか、この場所がどれ程美しくあったか。必要とあらば、ここまでの案内だっていたします。──貴方が忘れるというのなら、私が憶えておりましょう。だから貴方は、私のことだけ憶えていればよろしい」
言いましたよね、と告げる。初めに言いましたよね、私は貴方の力になる、と。今がその時だと私は確信した。
呆然としていた幽霊は、急に憑き物が落ちたように先程までの勢いも憂いもなくし、肩の力を抜いた。抜け殻のようだ。少々心配になり、「あのう?」と声を掛ける。
一、二拍遅れて彼は反応を示し、泣きそうに笑った。
「きみは存外、無茶を言うなあ」
何故だかそれは褒め讃えるような響きを持っていて、私は急に自分のしたことが恥ずかしく思えた。
「人は他人のことであれば、割と無茶を言えるのです」
「おや、ようやくやる気になったというのに、それを崩すようなことを言わなくて良いじゃないか」
ぱちり、と目を瞬く。
「きみのことを憶えていればいいのだろう。それだけなら、なんとかなる気がするよ。なにしろね、僕はきみほど情緒を無視して迫ってくる人を知らない」
貶されているようにも聞こえる言葉は、けれどひどく真摯なものであった。こちらを揶揄するような物言いに、彼本来の気質を感じる。私はそこでようやく、彼が本気であることに気付く。
やる気にさせたのは自分だというのに、それを望んだのも自分だというのに、何故か寂しさも募る。私はそれに必死に蓋をして、「でしたら忘れることはありませんね」と笑った。
「そうと決まれば、今すぐに行ってください」
善は急げと申しますし、この期に及んで気が変わったなどと言われては堪ったものではありません。
口にしながら、気が変わりそうなのは自分なのではないか、と危惧する。だからこそ、急かす。
「わかった、わかった。そう急かさずとも、逃げたりしないさ」
彼は口髭を弄りながら、もう片手でハットの位置を調整する。しばらく動かし、納得のいくところに落ち着いたのだろう、「さて、では行こうかな」とまるで近所に遊びに行くような口調で私に背を向ける。かと思えば、不意にこちらを振り返った。
「しかしきみ、僕がここを去ると、きみは一人、この夜の山に取り残されるわけだけど、それは危険じゃなかろうか」
「どうせ幽霊が一人いたところで、助けが呼べるわけでもないのでしょう?」初めに彼自身が口にしたことを繰り返す。「ご安心ください。こう見えて、運は良い方です」
それなら良かった、と彼はまた私に背を向けると、ゆっくり歩き始めた。
彼の歩く先に、彼岸花が咲いている。
赤い彼岸花だ。あ、と口を開ける。
まるで彼を先導するように、彼岸花が揺れている。
それは、なんとも幻想的な──夢ではないかと思うほどに幻想的な光景だった。
この山には、神様がいるのだ。その言葉を思い出す。ならばこれは、山の神様が起こしたことだ。
現実味の無い現象であったが、私は、これが夢ではないことを知っている。
私が憶えておかなければならないことだと知っている。
目を凝らし、細部までこの光景を記憶に焼き付けようと努力した。やがて幽霊が空気に溶け込むように消えると、後には、赤と白、黄色の彼岸花が月明かりに照らされる場所だけが残った。
元々存在しなかったものが、正しくいなくなっただけだというのに、急にその場所は、空虚だと感ぜられた。
私は、誰もいない場所で、ほんの少しだけ泣いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「──今年もめでたく満開のようで」
喉が渇いた、と鞄から飲み物を取り出し、口に含む。涼やかな風を受けながら、ちらほらと咲く三色の彼岸花に目を細める。
私が憶えておかずとも、この場所の光景だけは、なんとか守れそうである。
──彼が再び、生を受け、自我が芽生え、自分のことを首尾よく思い出したとして。
それはいったい、何十年先のことになるのだろうか。
生まれ変わりというものが、申請制なのだとしたら、おそらく長蛇の列になっているはずだ。となると、彼に順番が回ってくるのは、かなり先の話である。
どうにか私が生きている間に、会いに来てくれれば良いのだが。
もし来なかった時は──自分の子に受け継ごうか。あるいは孫に。私の祖父がそうしたように。繋いでいこうではないか。
私は腰を下ろし、彼岸花が咲く光景を眺める。ああ、いけない。天気が良くて、風が心地よくて、微睡みそうになる。
いくら昼寝日和だからといって、外で寝るのはいかがなものか。
とはいえ、睡魔というものは、私の理性を越えた場所で根を張り拡散していくものであるわけで。かくん、と頭が傾いた。ああ、これは本当にいけない。
「──やあやあ、夜に一人出歩くことも感心しないけれど、昼寝も危ないのではないかな」
弾かれたように、顔を上げた。眠気が吹き飛ぶ。
見れば、シャツにジャケットを羽織り、今時の流行りとは関係なさそうなハットを被った青年が、こちらを見て可笑しそうに笑っている。
いくつかの疑問が頭を駆け巡った後、ようやく口から出たのは、「和洋折衷は止めたのですか」と一番どうでもいいことであった。
「友人に、センスが悪いと言われたのだよ」
ぶすりと不貞腐れたような顔に、彼が本当に“生きて”ここにいるのだと、実感する。
「ところで、きみ、僕は“あの後”、衝撃的なことに気付いたんだ。多分きみは気付いていなかったろう」
「なにをです」
にやり、と幽霊、否、もう幽霊ではなくなった青年が弧を描く。
「きみ、名前すら教えてくれなかっただろう? お陰でこっちは、きみのことを思い出しても、会いに行く術が無いってもんだ。結果的に、この場所を自力で見つけ出さねばどうにもならなかったわけだよ」
あ、と声を上げる。確かにそうであった。それは申し訳がないことをした、と肩を竦める。
「お陰で、見つけ出すのに数十年を費やすはめになった」
「……私が貴方と会ったのは、昨年の春なのですが」
時系列が合わない。私が、ぐぐ、と眉を寄せると、彼はふふんと胸を張った。
「そこは企業秘密というやつだよ。僕が優秀であったことに感謝したまえよ」
秘密にされた内容を、どう感謝しろと言うのか。相変わらず言うことがメチャクチャだ。目を半眼にして、睨む。
「ここを見つけたということは、○○のことも思い出したということでしょうか」
「さて、どうかな。元々曖昧であったからね」
ならばどうやら、私は完全にお役目御免というわけではないらしい。胸を撫で下ろし、「では語りましょう」と早速口を開く。待ちたまえよ、と彼が慌てて止めた。
「相変わらず、情緒がわかってないな!」
ムッと顔を顰める。人がせっかく語ろうかというのに、言うに事欠いて、それとは。失礼な輩だ。
「今語らなければ、次に口を開くのはきっと一年後ですよ」脅すように声を低くする。「理解したら、黙って聞いてください」
「きみこそもう少し理解をするべきじゃあないかな」
やれやれ、と彼はハットを片手で持ち上げると、手の中でくるくると回す。器用なものである。
「僕はね」首を傾けながら、彼は眉尻を下げた。「きみに、彼女の話を聞きに来たわけではないのだよ」
「では、何をしにいらしたのです」
予想外の発言に、目をまんまるく見開く。まさか輪廻に押し込んだことを恨めしく思っているのか。
「少しは期待していたのだがねぇ」
彼は何故だか、唖然とした顔をしていた。それから、ふ、と笑う。
「人と人が親しくなるために大事なことを知っているかい?」
「ある程度の時間と会話数、それからフィーリング。──でしたっけ?」
口にしながら、過去、彼に向かって「親しい友人だと思っている!」と叫んだ自分を思い出し、恥ずかしくなる。やれやれ、人間、ぷつりと切れると何をしでかすかわからない。
視線をうろつかせる私のことは気にせず、彼は満足げに、「そうそう」と頷いている。
「実は僕は、一目見た時から、きみとはフィーリングが合うと思っていたんだよ」
「まさか!」
「……きみは一切、感じていなかったようだけど」
あんぐりと口を開く私に、青年は苦笑した。
「だから仕方ない。親しくなるためには、過ごす時間と会話を増やす他ないだろう?」
「……もうある程度、親しい間柄になったと思っていたのですが」
「そうではなくてね」
彼はがくりと肩を落とす。しかし気を取り直したように胸を張ると、私の手を取った。
「──どうか僕と、未来の話をしませんか、お嬢さん。麓の店でお茶でもしながら」
「…………はい?」
惚けた声を返事と受け取ったのか、私の身体はグンと引っ張られた。
ひとまずはそのことについて文句を言おうと思ったが、彼の笑い声がしたので、ついつい言葉を押さえてしまった。
幸せそうな彼を見るのは、悪くない。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「△△くん、お出掛けしましょうか」
「おでかけー」
今年で小学生に入る小さな手を取り、よっこいせ、と立ち上がる。一緒に行くよ、と奥から掛かる声に、心配しなくても一人で行けますから、と返す。
手を繋いで、二人で歩く。
涼やかな風が吹いている。秋の香りがする。
山道は、近頃少々錆び付いてきた足腰には少し辛いかもしれない、と含み笑い。祖父も同じことを考えていたのかもしれないと、そんなことへ想いを馳せる。
「なにをみにいくのー?」
ぽてぽてと、少し危うげだが、自分と比べると随分と元気に動き回る足で、子どもが訊ねる。
「素敵なものを見に行くのですよ」
「すてきー? きらきらしてる?」
「そうですね、キラキラしているかもしれません」
果たしてこの子の目には、どう映るだろうか。それが楽しみで仕方がない。
やがて開けた場所に出る。奥には、色とりどりの彼岸花が咲いていた。
わあ、と歓声が上がった。
「おばあちゃん、あれ、みちみたい!」
「そうねえ」素敵な表現だ、と目を細める。「きっとあの道は、大切な人のところへ続いているのよ」
ふうん、とわかったような、わかっていないような声。それでも構わない。私だってわかっていなかったのだから。
しかし、いずれこの子も、興味を持つだろう。おそらく、途方もなく巨大な土地を手にしてしまった頃に。
だから私は囁く。悪戯っぽく。
「この場所にはね、小粋な山の神様と、それから──物思いにふけるお馬鹿さんな幽霊がいたのです」
Fin.
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