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母さんの名前は由紀、父さんの名前は俊之。兄さんの名前は一樹、それにペットのミミ。
昨日の晩御飯は肉じゃがだった。母さんが親戚の農家からじゃがいもを貰ったとか言っていて、じゃがいもが八割を占めていた。
一昨日、親友の山村蒼汰が好きな子に告白して玉砕した。元気付けようとボクのおごりで飲み明かした。
四日前はコンビニで百円多くお釣りが返ってきた。気づいていながらもそのままネコババしてしまった。
覚えているんだ。過去の出来事は鮮明に覚えている。
なのに何故――何故ボクの名前だけが出てこない!?
嫌な汗が頬を伝う。
『ひょっとして……分からないのか?』
頷きたくない。ボクの名前、ボクだけの名前。
忘れる訳がないんだ。自分の名前だぞ、記憶喪失になったってそれだけは覚えているものだろう!
そう、覚えているはず。もう一度よく考えろ。
ボクの名前は何だ? ボクの名前、ボクの……名前。ボク……の……
『もういい、落ち着け
分からねぇならそれでいい。
無理に思い出そうとするな。
いいか、忘れたことを思い出すコツは思い出そうとしないことだ』
頭をどつかれ、我に返る。
名前――認めたくはないが、思い出せない。
だが忘れたことを必死に思い出そうとしても、その時思い出せた経験は少ない。逆に全く関係ない時に思い出すことのほうがずっと多い。
ここはウィルクの言うとおり、無理に思い出そうとしないほうがいいのだろう。
『よし、落ち着いたか。
それじゃ、これからのことだが』
これからのこと。
最終的には元の身体に戻って元の世界に帰りたいが、目下優先すべき事柄は言語の問題。今はウィルク以外に会話の出来る人はいない。会話と言ってもウィルクの一方通行だが。
ウィルクがいるうちに言葉の勉強をしないと。
『明日にでもお前を孤児院に預けることにした』
と思った途端に見捨てられたっ!?
「どういうことですかぁー!」
『わっ、待て待て、そんなに服を揺さぶるな!
悪いとは思うが、今の仕事は給料が安くてな。
腹一杯食わしてやることは難しいんだ』
「ぐ、むぅ……」
考えてみると得体の知れない子供を拾って育てます、なんて確かに無茶苦茶な話だ。
ここまで面倒を見てくれた人に対して感謝されこそすれ、怒りを覚えるのは筋違いと言うものだろう。
いや待て、この会話が出来る人はウィルク一人というわけではないはずだ。同じことが出来る人のいる孤児院に入れてくれるんじゃないだろうか。
『不安なのは分かるが安心しろ。
聞いて驚け、なんと三食昼寝付きだ』
一瞬ほんとに安心しかけた自分を殴りたい。
三食昼寝付きかどうかはどうでも――よくないけど! 結構重要だけど!
ボクが言いたいのはそういうことじゃなくて!
『すまん、探しちゃみたんだが心声魔法が使える職員のいる孤児院は見つからなかった。
その代わりなるべくいい孤児院に話をつけてきたからよ』
全く、分かってるんじゃないか。見つからなかったのは残念だけど探してはくれたんだ。
ウィルクはとても察しがいい。ウィルク以外の人だと例え心声魔法があってもコミュニケーションにもっと苦労したことだろう。
ってこの頭の中に響く声、心声魔法って言うのか。薄々感づいてはいたが、やはりこの世界には魔法があるんだ。
……ん? 魔法――それだ!
「ウィルク、魔法を教えて下さい!」
『おお!? ど、どうした。
魔法でも教えてもらいたくなったか?』
ボクはコクコクと頷く。
やはりウィルクは察しがいい。
せっかく魔法がある世界に来たんだ、覚えないという選択肢なんてない。
魔法さえ覚えれば言語問題は全て解決――いや、この身体のこともどうにか出来るかもしれない。
『教えるっても時間ねぇし、初歩の初歩くらいしか教えられねぇぞ?
とてもじゃないが心声魔法なんて習得は出来ねぇと思うが……』
ボクは頷く。
異世界トリップしてきたボクはあっという間に魔法をマスターしてチートな強さを手に入れるのだ!
……というのは期待が大きすぎるかもしれないが、魔法は男の子の永遠の憧れ。例え下手くそだとしても扱ってみたい!
『はぁ、分かった。
少しだけなら教えてやるよ』
ウィルク大好き!!
さあ、伝説の魔法でもなんでもどんと来い!
『それじゃ早速やるぞ。
初歩の初歩、誰もが一番最初に通るステップだ。
これからお前の体に俺が魔力を流し込む。
まずはそれを感じて、魔力というものを理解しろ』
一転して真面目な表情で話しだすウィルク。
ふむふむ。
魔力がどういうものか全く分からないからなぁ。楽しみだ。
『感じるだけでいいから難しいことは何もない。
ここで躓く人は滅多にいないしな。
さ、いくぞ』
ドキドキ。ボクはこれから魔法使いの道を歩み始めるのだ!
………………
あれ?
『魔力を流しているんだが……分かるか?
何か身体がビリビリするような感じがあるはずだが……』
か、感じない……。目を閉じて身体の感覚に集中してみる。
魔力を感じていないことを察したのか、ウィルクの声が硬くなる。
『もうちょっと魔力を強く流してみるぞ。
痛いかもしれないが我慢してくれ』
………………
ボクの感覚は全くもって正常、正常すぎて困るくらいだ。
ウィルクも困った表情を浮かべている。
『普通ならかなり痛いくらいの魔力を流しているんだが……。
これで何も感じないのなら、残念だが才能がないとしか言えねぇ』
うっ、才能ナシ……。
ま、まだだ。才能が無くても最終的に成り上がるような創作物だっていくつも知ってる。諦めずに頑張ればいつかは……
『言いづらいんだが、これを感じられないのなら人体構造上魔法を扱うのは無理だ。
だからこの先魔法を扱えるようになることはない。
諦めてくれ』
現状を認識する。
ボクはこれから先ずっと、魔法を使うことが出来ない。
現実と向き合うしか、ない。
気づくと、勝手に涙が溢れだしていた。
「うっ……ひっく……」
『お、おい、泣くなよ。
魔法なんか使えなくたって普通に生きていけるからよ』
ウィルクがボクを慰めてはくれるが、それでもボクの涙は止まらない。
正直、才能がないかもと覚悟はしていた。それでも期待を捨てきれなかったのだ。
心の中では平穏そうに見えるかもしれないが、かなり悔しい。こうして客観的に観察していないと号泣してしまいかねない程度には。
主人公最強。チート性能。そんなものはなかった。
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異世界トリップしてからその翌日。
あの出来事は全てが夢で、目覚めるといつものボクの部屋――なんてことにはならず。
ボクはウィルクの部屋で目覚める。昨日はまた泣き疲れてそのまま眠ってしまったようだ。
魔法が使えない、というのはショックな出来事だったが一晩寝れば頭も切り替わる。いつかいい方法が見つかるかもしれない、とポジティブに考えることにした。
「うー、気持ち悪い」
身体がなんだかベトベトするような。
昨日はお風呂にも入ってないし、歯も磨いていない。
そもそもこの世界にお風呂や歯磨きが存在するかは謎だが、せめて濡れタオルで身体を拭くくらいはしたい。
身体を起こし、周りを見渡す。
ウィルクは椅子にもたれかかるようにして眠っていた。
そうか、ボクがベッドを占領しているせいで寝るところがなかったのか。
申し訳ない気持ちが湧き上がる。せめて起こさないようにと音を立てずにその横を通った。
身体を洗える場所を探さねば。