81.それは、籠の鳥だったのです。
えぇと、(おそらく)こんばんは。
今は(体感時間では)例のパーティの次の日の夜なのです。
ミオさんは、(それなりに)元気でやっています。
なんて、声に出して呟いてみたいのですけれど、迂闊な一言さえ拾われてしまいそうなので、ひたすらに黙っています。
とりあえず、心の中で叫んでいいでしょうか。
(お腹が空きましたーっっ!)
ベッドの横で毛布にくるまって体育座りをしながら、心の中で大絶叫なのです。えぇ、お腹が空きました。
―――今の状況を整理してみましょうか。
パーティの日、私は予定通りに宮地さんの手によって誘拐されました。
目が覚めたら、既にこの部屋にいました。時計やネックレス、髪ピンなどは全て取り上げられた状態で、かろうじて衣服はそのままでした。私が意識を失っている間に着替えさせるという選択肢もあったと思うのですが、どんな事情があったのか、そこまではされませんでした。
部屋は1Kのユニットバス付です。ただし、キッチンはあってもガスコンロや冷蔵庫はありません。窓は天井近くの高い位置に、高さ20センチ程度でしょうか、横長な形をしているのですが、角度と縦幅のせいで、かろうじて空が見えるだけです。
「ようやく起きたみたいですね、ミオ。気分はどうですか?」
私が起きたという知らせでも行ったのか、程なく宮地さんが姿を現しました。
「最悪なのですよ」
「おや、それはいけませんね。薬が合わなかったのでしょうか」
「家に帰してもらえれば、すぐに気分が良くなりますので、是非、そうしてください」
「あぁ、申し訳ない。ミオの家は今作っている最中ですから、まだ動かせないんですよ」
一瞬、何を言われているのか分かりませんでした。私の家、と言いましたか? 空耳ですよね?
「君とレイくんとリコ、それぞれ個人の部屋と、家族が団欒できる家を建てているところですよ? あぁ、今なら壁紙の変更もできますから、希望はありますか?」
「……希望もありませんし、そもそも宮地さんの建てた家に行きません」
「おやおや、親に対して随分と反抗的ではないですか」
「何度言ったか分かりませんが、あなたは親でも何でもない、赤の他人ですよ」
本当に、日本語が通じない人なのです! 以前よりももっとひどくなっていませんか?
「遅めの反抗期でしょうかね。まぁ、リコやレイくんが来れば、少しは治まるでしょう。着替えと食事を持って来させますから、今はゆっくりくつろいでいていいですよ?」
「これ、外してください」
「おや、何のことを言っているんですか?」
口調ひとつ乱さない様子に腹が立ちます。えぇ、分かっているくせに、分かっていないフリをしているのですよね!
「この悪趣味な鎖のことを言っているのです!」
だん、と足を踏み鳴らすと、ちゃり、と軽い金属音が響きます。別にアンクレットをしているわけではありません。えぇ。アンクレットなんて可愛いものではありませんとも!
「だめですよ、ミオ。反抗的な子には、必要なものなんですから」
「どこの世界の話か知りませんが、法治国家でこんなものを付けるのは、監禁か虐待をする変態ぐらいなのですよ」
「それなら、法治国家以外の場所にでも行ってみましょうか?」
その言葉は、とんでもなく優しい微笑みと共に落とされました。その意味するところを理解して、ぞくり、と私の肌が粟立ちます。
「それでは、きちんと食事と着替えをしてくださいね。あまり反抗的な態度を取られると、こちらもそれ相応の対応をしなければなりませんので―――あまり手間をかけさせないでください」
最後通告に硬直してしまった私を一瞥すると、宮地さんは部屋を出ていきました。
残された私は、足首に絡まる鎖を持て余しながら、力なくしゃがみこむしかなかったのです。
その後、宮地さんの部下である滝水さんが着替え一式と食事の乗ったトレイを運んできました。しかも、着替えない場合は、着替えを手伝うよう申し付かっているとの伝言付で。滝水さんは男の人です。それなのに、強制的に手伝うとか、ありえないのです。
滝水さんが出て行く気配がないので、ユニットバスに閉じこもって、すぐさま着替えたのです……。鎖が細かったおかげで、何とかドアをきっちり閉めることができました。ドアに挟んで千切れないかとも思ったのですが、さすがにそこまで華奢ではないようです。舌打ちしそうになりましたとも。
ストレッチ素材のワンピースは誰の趣味なんでしょうね。夏に強制的に着せられた服に比べて緩いのは、もしかして部屋着だからという扱いでしょうか。……ブラのサイズがぴったりだったり、パンツが紐パンだったりしたことには、あまり言及したくありません。
もちろん、ミオさんだって、一方的にあれこれ強制されるだけではないのです。
元々身につけていたブラのワイヤー部分から特殊素材だというペラッペラの細いノコギリと、同じくペラッペラのナイフを取り出したり、とある精密機械が取り付けられているリングガーターを脱がなかったり、できることはやりました! もし、ユニットバスに監視カメラなんかが付けられていて、これらの存在が明らかになったとしたら、人のトイレやお風呂を覗く変態だと断罪してやるのです! そう割り切らないと、着替えもできませんからね!
私の着ていた服を受け取った滝水さんは、食事の乗ったトレイを台所のシンクに置いて、部屋を出て行きました。
残念なことに、テーブルなんていう家具はありません。あるのは、シンプルなベッドだけ。逃走防止なのでしょうか。
ひどく疲れた私は、ユニットバスに戻ると、備え付けられていた拭うタイプのメイク落としをスルーして、お湯で顔を洗うことにしました。
本当はよくないのですけど、……信用ができないのです。さすがに水道には手を加えられないと思うので、そこだけは信用することにしますが、元より運ばれた食事も手をつける予定はありません。極力、部屋に備え付けのものを使わないよう気をつけます。
ここまで慎重なのには、もちろん理由があります。
まだ、私が小学校低学年の頃のことなのです。宮地さんを嫌ってはいても、それほど危険視していなかった当時の私は、あの人からもらったお菓子を食べたことがありました。宮地さんは嫌いでも、お菓子に罪はないと思っていたのです。
結果、病院送りです。
後になってお母さんから聞きましたが、どうやらあのまま放置していたら、命の危険もあったとか。原因は、お菓子に仕込まれていた薬物が、子どもにとっては量が多かったことでした。薬は用法・用量を守って正しく使わなければならないのですよ。そもそも安全な薬だったのかどうかも分かりませんが。
その一件があって、私は幼いながらも、心に深く刻みつけたのです。
―――あの蛇からは何も受け取ってはいけない!
子どもの頃から、発信機だの盗聴器だの録音機器だの、睡眠薬だの麻痺薬だのよく分からない薬だの、今考えてみても法的にアウトな攻防戦だったのです。
思い出したら、恨みつらみが募って来ました。
私はベッドにあった羽毛布団をひっくり返し、毛布を引きずり出すと、5回か6回ほど、ばっさばっさと大きく振って、何も違和感がないことを確かめると、それにくるまってベッドの横に蹲って寝ることにしたのです。
とまぁ、ここまでが、(おそらく)昨夜の話です。
朝、昼、と滝水さんか内牧さんのどちらかが食事の乗ったトレイを持って来ました。私が手を付けていないことに、二言三言注意はしますが、あちらも私の思惑が分かっているのでしょう。すぐに諦めた様子でした。
あの二人も、宮地さんがやっていることに反対はしないのでしょうか。雇用主といっても、犯罪は止めるべきものなのですよね? ……よく考えたら、あの二人との付き合いも長いのです。小学校に上がる頃にはもう宮地さんとセットでいましたから。
話が逸れました。
とりあえず、脱水症状だけはよろしくないと、水道から直接水分補給をする以外は、何も口にしてはいません。
……お腹が空きました。
シンクには、先ほど内牧さんが置いて行った夕食が、まだ湯気を立ち昇らせていますが、視界に入らないようにしています。お腹は空きましたが、食べるわけにはいかないのです。武士は食わねど高楊枝なのです!
そんなことを考えていたら、突然、がちゃり、と外に通じる扉が開きました。足に付けられた鎖の長さによって、私には触れることもできない扉なのです。
「ミオ、やっぱり食べていないのですね」
顔も見たくないし、声も聞きたくない男がやってきたのです。
「食欲がありませんから」
「やせ我慢はいけませんね。お腹がすいているでしょう?」
「どうぞ、お気になさらず」
「心配せずとも、何も入れていませんよ?」
「どうぞ、お気になさらず」
ワンピースの上に毛布をかぶったままで、私はすっくと立ち上がりました。
正直、この部屋に居ても、この蛇男が帰るまでは腹立たしくて仕方がないのです。ここはとっととユニットバスに篭もるのが正しい選択肢だと思うのです。
「ミオ」
もう、返事すら面倒です。
スタスタとユニットバスに通じる扉へ向かいます。ちゃりちゃりと軽い鎖の音がするのでさえ、癇に障ります。
「ミオ!」
突然、つかつかと近づいて来た宮地さんが、私の手首をぐいっと引っ張りました。そして、そのままユニットバスに通じるドアに、ドンと押し付けられてしまいます。
認識したくはありませんが、これも壁ドンなのです。
トキくんに壁ドンされた時より、首はつらくありません。トキくんよりは背が低いですから、当たり前です。
まぁ、浮かべている憤怒の表情も、トキくんに比べたら怖くはないのですよ。悪寒は走りますけどね。
「……何でしょう?」
「このまま、餓死でもするつもりですか?」
「さぁ? でも、もし、そんなことになったら、それこそお母さんはあなたを許さないでしょうね」
「随分と小憎たらしい口を利くようになったものですね。……実の父親に対する礼儀というものを、教える必要がありそうです」
「実の父親? 妄想を口にするのもいい加減にして欲しいのです」
あぁ、本当にこの蛇には付き合っていられません、押さえつけられた左手首は痛いですが、ここは―――
「おや、もうすぐ科学的に証明されますよ? 僕が君の父親だということは、ね」
「はい? 科学的になんて―――」
まさか、という言葉が口からこぼれました。その可能性に思い当たってしまったのです。
この宮地という人、金の力か何かは知りませんが、コネクションも多い人です。そのコネクションが警察組織に繋がっていたおかげで、以前は煮え湯を飲まされました。
もし、この蛇が、DNA鑑定すら捻じ曲げるコネクションを持っていたとしたら……?
うぅ、こういう時に法律に詳しくなっておけば良かったと思うのです。実の父親だと判明した場合、親権の扱いはどうなるのでしょう。こんな時、早く成人したいと考えるのですが、残念ながら、あと数年不足しているのです。
「やはり頭の回転は悪くないですね、ミオ?」
ねっとりと毒を流し込むように、ゆっくりと私の名前を呼んできやがります。悪寒が嫌悪感に変わり、さらに吐き気を催してきました。
「今から、パパと呼ぶ練習をしてもいいですよ?」
自由なままの右手が小刻みに震えます。混乱か怒りか、はたまた全く別の感情からか、残念ながら私には分かりません。
「私と、リコと、リコと私の血を引くミオ。ようやくみんな一緒に暮らせるんですから、涙を流して喜ぶところですよね?」
私の顔を覗き込むようにして少し屈んだ宮地さんに、私の堪忍袋の緒がとうとうプチンと音を立てて切れました。
こんなことを考えたことはありませんか?
少女マンガなどで、憧れのシチュエーションと言われる「壁ドン」の体勢ですが、どうしてヒロインは無防備にぷるぷると震えるだけなのだろうか、と。
それならば、私が新しい流れを作って見せましょう。それは、壁ドンからの―――
「とりあえず、その妄想垂れ流しの口を閉じてくださいっ!」
私の右手が拳を作り、それは吸い込まれるように宮地さんの鳩尾にめり込みました。ぐふぅ、とかいう声が聞こえた気もしますがスルーです。
お腹を押さえて後ろに2歩ほど下がった隙に、私はユニットバスの中に逃げ込むと、素早く鍵をかけて、ドアにもたれかかるようにずるずると座り込みました。
ドアを叩いて何か喚いているようですが、もうスルーです。理解したくもありません。明確過ぎる反抗をすることで、自分を余計に追い込んでしまったような気もしますが、いい加減に我慢の限界だったのです。
え、新しい流れの話ですか?
トキくんに壁ドンされた時に思ったのですけれど、相手のお腹ってガラ空きですよね? だから、壁ドンを不快に感じたら、壁ドンからの腹パンをお見舞いすればよいのです。
ただ、トキくんにやっても、きっと効果はないのです。お仕事で鍛えられまくっている腹筋にガードされてしまいそうですし、何より鳩尾にきれいに決まっても、さっきの宮地さんのように退くとは思えません。羅刹は羅刹ですから。
しばらく喚いていた宮地さんが出て行った物音が聞こえたので、私はゆっくりと立ち上がりました。
バスルームの鏡に、ちょっと青褪めた私の顔が映ります。そこにピアスを見つけてそっと撫でました。特殊な工具でないと外せないこのピアスだけは、没収されずに済んでいます。けれど、一日経っても助けが来ないことを考えると、この発信機は何かの理由で無効化されてしまっているのかもしれません。発信機や通信機は無線通信なので、妨害電波に弱いという説明も事前にされていましたから、もしかしたら宮地さんの方でも色々と手を打っているのかもしれません。
そぉ、と扉を開けると、想像通り、そこに蛇男の姿はありませんでした。おそらく腹を立てて帰って行ったのでしょう。次に会うときが怖いですが、そもそもあの人と会うのに、恐怖を感じなかった時はありません。
天井を見上げれば、狭い窓の向こうにぽっかりとお月様が浮かんでいるのが見えました。今日は半分よりも少し太った月のようです。
「……月が、きれいなのですよ、トキくん」
うっかり声に出してしまうと、妙に部屋に反響して、余計に物悲しくなってしまいます。
いけません。弱気になるのだけはダメなのです。
でも、それにつけても。
……お腹が、空きました。
お月様を食べようとするカメレオンの歌がありましたよね。舌を伸ばしたら、何とか届かないかと奮闘して、金色になってしまうカメレオン。確かに、空腹を抱えて見る月は、とても美味しそうなのです。
この状況が続くと、さすがのミオさんも命の危険を感じます。どこかで出された食事に手をつけることも考えないと、です。
でも、薬物を混入しにくい料理って、どんなものでしょう?
うぅ、考えるのに頭を使うと、余計にお腹が空いてきてしまいそうです。
トキくん、お腹が空きました。
私は鳴らなくなったお腹を抱えて、小さくため息をついたのでした。
 




