50.それは、特攻だったのです。
「ちょ、ミオってば、まだこんなところにいる!」
「あれ? どうしたのですか、玉名さん」
私は図書室に向かおうとしていたところに引きとめられ、首を傾げたのです。文化祭も終わり、中間テストを控えた身としては、きちんと事前準備は必要ですよね?
「ミオんところの天使ちゃんが、校門に来てるんだってば!」
「天使ちゃん?」
天使ちゃんというと、レイくんのことでしょうか?
「ゼッタイ、ミオのことを待ってるんだと思うわ。早く行ってあげなさいよ。さっきハナがダッシュで向かったから」
「ハナ……って、津久見さんですか?」
そういえば、文化祭二日目の日に、レイくん見てちょっとハァハァしてましたっけ。
「そうよ。ハナってばカワイイもの大好きっ子だし、まぁ、ちょっと離れた場所からカメラ向けるぐらいで終わればいいけど―――ってミオ?」
「教えてくれてありがとうございます。すぐ出ますね」
私は鞄を抱えて教室を出ました。
別に津久見さんの性癖に罪はないのですが、それをレイくんに向けられるのであれば、静観はできないのです!
先生に見とがめられない程度に早足で正門へと向かえば、そこには確かに津久見さんの後ろ姿……ではなく、紛れもなくレイくんの姿が!
「レイくん!」
私の声に振り向いたレイくんの瞳にはこぼれそうなほど涙がたまっていました。帰宅する生徒から好奇の目で見られて怖かったのでしょう。いったいどれぐらいの時間、ここに立っていたのですか。
「ミオ、おねえちゃん!」
レイくんはこちらに駆け寄って、私の腰のあたりに、ひしっとしがみついてきます。
「どうしたのですか? 何か、困ったことでも……」
「おねえちゃん~……」
あらら、えぐえぐと泣いてしまいました。うーん、事情を聞けるでしょうか?
「ひとりで来たのですか?」
レイくんは、しゃくりあげながら、こくりと頷きます。私はポケットから取り出したハンカチで、レイくんの顔を拭いました。
「お母さんはおうちにいないのですか?」
これまた、こくり。
おかしいですね。ダーリンさんとマイエンジェルちゃん命のお母さんが、家を空けるなんて、何かあったのでしょうか。
「ママ、今日、かえり、おそいの」
「お出かけしているのですか?」
私をくりくりと見つめる目が充血してしまっています。うぅ、こんな顔でも可愛いなんて、反則なのですよ、レイくん。
「パパと、おでかけ」
「レイくん一人、残してですか?」
なんということでしょう。これはお母さんに一発説教をかます必要があるのです!
「ちがうの、ミオおねえちゃん。ボクが大丈夫って、言ったの」
「レイくんが?」
「パパね、ママと二人っきりで出掛けたいって。ボクね、留守番できるよって」
ようやく納得がいきました。全てはドゥームさんがいけないのですね。実の息子より、妻を優先するなんて、父親失格なのですよ!
「でもね、あのね、やっぱり、怖いんだ。おうちがすっごく静かでね」
「あー、分かります。私もよく留守番していましたから。突然、冷蔵庫がブーン、て言ったりするのですよね」
「そうなの!」
あれ、分かってくれる存在を見つけたからか、レイくんの瞳が涙からではなく、きらっきらしてきました。ようやく涙も引っ込んでくれました。……けど、どうしましょう。
「レイくん。二人は何時頃に戻って来るのですか?」
「七時までには、帰って来るって」
小学校低学年にさせる留守番としては妥当なのでしょうか。それとも難易度高めなのでしょうか。ちょっと見当がつきません。
まぁ、今日はカフェのバイトはありませんし、ちょっと手助けするぐらいなら何とか……うーん、あのマンションにまた行くのは気が重いですけど、何と言っても蛇の巣ですし。でも、他ならぬレイくんのためです。頑張りましょう。
「分かりました。それなら二人が帰ってくるまで、私がお付き合いします」
「おねえちゃん、ほんと? ありがとうっ」
ぎゅむっと抱きつかれてしまいました。視界の端で津久見さんが「いいなー」という顔で見ている姿があるような、……気にしないことにしましょう。
「せっかくですから、夕飯の準備をして二人を驚かせてみましょうか」
「うん! ボクもお手伝いする!」
レイくんと二人、手を繋いで学校を背に歩き出しました。
それにしても、一人でお留守番が怖かったからと、電車に乗ってまでうちの高校に来るレイくん。とんでもない行動力なのです。
私は嬉しそうに手をぎゅっと握ってくるレイくんの手を握りしめながら、スマホをいじってメールを打ちました。
「おねえちゃん?」
「あ、すみません。ちょっと連絡を」
怒られそうな気はしますが、連絡をしないともっと怒られそうなのです。
私は、仕事で欠席だったトキくんに簡潔に事情だけを打ったメールを送信すると、鞄にスマホをしまいました。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
「おじゃまします」
「ミオおねえちゃん、違うよ。『ただいま』だよ!」
レイくんが満面の笑顔で指摘してきます。あぁ、本当に淋しかったのですね。
「はい、ただいまなのです」
私は最寄の駅前スーパーで買って来た食材を片手に、玄関に上がります。一瞬、ぞくり、としたのは……考え過ぎ、ですよね?
「おねえちゃん?」
「あ、なんでもないのです。ちょっと台所失礼しますね」
母親が使っている台所なので、だいたい道具の配置なんかは分かると思うのですが。
「うわ、改めて確認するとすごいですね、このキッチン!」
台所と呼ぶにはちょっと申し訳ないので、キッチン様とでも呼ばせてもらいたいぐらいです。今、住まわせてもらっているマンションのキッチンもそうなのですが、どうしてこう、色々と収納があるのでしょう。
だんだん面白くなって引き出しや棚をパタパタと開けてみます。おぉ、作り付けの食洗機まであるではないですか。お母さんてば楽のし過ぎなのです。
今度は、食材を入れるついでに冷蔵庫も確認です。さすが家族向けサイズ、大きいのです。でも、ちょっと奥まったところに詰まれたタッパーが……。お母さん、あれほどタッパーに何かを入れるときは日付を書くようにと言ったのに、すっかり忘れていますね。ちゃんと管理できているのでしょうか。
「おねえちゃん、どうしたの?」
「うーん、ちょっとお母さんに話さないといけないな、と思いまして?」
「おはなし?」
「はい、約束は守らないといけないってお話です」
すると、何故かレイくんが、ちょっと脅えたような表情を浮かべました。
「約束、やぶったら、……おしおきされるの?」
「あれ? もしかしてレイくん、誰かとの約束を破ってしまったのですか?」
「―――うん」
しょぼん、と肩を落としてしまったレイくんの頭を、私はそっと撫でました。
「いけないと知っていて、破ってしまったのですね?」
「そうなの……」
「どうしても、破らないといけない状況だったのですか?」
こちらを見上げるレイくんの目に、じわり、と涙が滲むのが見えました。
「だってね、ボク、どうしても我慢できなかったの。それにね、どうしてその約束しなくちゃいけないのか、わからなかったの」
「? 理由がわからないのに、約束したのですか?」
「だって、パパ、それが悪いことだって言うから……」
あー、あのお父さんと約束したのですか。ドゥームさんのことだから、何かしら理由があるのでしょうけど、納得させることはできなかったのですね。ときに子供の「なんで?」「どうして?」は鋭いところを突いてきますから、ドゥームさんも勝てなかったのでしょう。
「それならレイくん。ちゃんと謝りましょう? その上で、もう一度、理由を聞いてみるのがいいと思います」
約束を破ってしまったのは確かに悪いことなんだと言い聞かせれば、レイくんは涙目のまま頷いてくれました。
この年頃の子は、本当に素直でかわいいのです。それが天使な外見のレイくんならなおさらです。
私は、お母さんのエプロンを借りると「ここは私に任せて、レイくんは学校の宿題でもやってきてください」と声をかけました。……なんだか、絶望したような表情を向けられてしまいました。え、なんですか、この罪悪感。
「ボクも手伝えるよ?」
そのまっすぐでひたむきな瞳に、私は頭の中で手順を組み立て直しました。さすがに包丁を持たせるのはちょっと……ということで、まずは玉ねぎの皮むきを。
「茶色い皮だけ向いて、こっちのざるに入れてください」
「? 捨てるんじゃないの? ママは捨ててるよ?」
「材料はできるだけ無駄にはしないのですよ。お母さんとは違うのですよ」
レイくん、ちゃんと手伝ってもらうので、覚悟してくださいね?と念を押すと、おもいっきり笑顔で「うん!」と頷かれました。この家に不慣れなミオさんですから、この際、レイくんを使ってしまいますよ。
その後もピーラーを少し危なっかしい手で扱うレイくんにハラハラしながら人参の皮むきをお願いした私は、玉ねぎを切ったり、玉ねぎの茶色い皮を洗ったりとアレコレ準備を進めます。久しぶりの料理が、とても楽しいのです。しかも、材料費にも光熱費にもそれほど気を遣わなくて構わないとか、天国なのですよ!
「ミオおねえちゃん。次はどうするの?」
「次は、……そうですね。箱を探して欲しいのです」
「箱?」
「この片手鍋が全部入るぐらいの、……ダンボール箱でもいいです。本当はクーラーボックスとかがあればベストなのですけど」
「あるよ! キャンプで使う箱だよね?」
「そうです。探してきてもらえますか?」
「分かった―!」
お手伝いを任されたことが嬉しいのか、終始笑顔のレイくんが弾むような足取りで台所を出て行きました。
本当に可愛いのです。これなら同居しても良かったかも……いいえ、ダメです。ドゥームさんがいる限り、同居なんて考えられません。事実、玄関のドアをくぐった時だって、言いようのない悪寒が走ったではありませんか。
非常に後ろ髪を引かれる状況ですけど、ミオさんは遅くならにうちにドロンしなければならないのです。レイくんには本当に申し訳ないのですが。
そんなことを考えながらも、作業に慣れた手は自然と動き、気づけば鍋にはシチューの具材がコトコトと踊っています。母のことだから、てっきり圧力鍋がどこかにあると思ったのですが、保温調理器なのですね。
あれ、何か嫌な推測が。
まさか、「圧力鍋は危険だから」とか言う理由でこっちにするよう説得したとかはないですよね、ドゥームさん? もちろん、誤った使い方をすると危険でしょうけど、ずっと圧力鍋のお世話になっていたお母さんが今さらそんなミスをするとは考えにくいですし。レイくんがいきなりグレて圧力鍋爆弾を作るとも考えられませんよね?
―――やめましょう。これ以上考えても、ろくな考えにならないと思います。下手な考え休むに似たりとも言いますし、無心で料理を続けましょう。
「おねえちゃん、これでいい?」
「あ、ありがとうございます。それで十分過ぎるほど十分なのです。あとは、古新聞があれば」
「どうするの?」
「2、3枚、大き目に破って、こうくしゃくしゃっとさせてください」
「? うん、分かったー」
本当にクーラーボックスがあるとは思わなかったのです。しかもそれほど大きくないサイズのもの、なんて。アウトドアを楽しむ人には見えませんし、使う機会はあるのでしょうか?
首を傾げながら、鍋を保温容器に入れて蓋を閉めた私は、お茶を入れて一息つこうかとお湯を沸かし始めました。そういえば、レイ君はお茶は何が好きなのでしょうか。
古新聞を片手に戻って来たレイ君に声を掛け、ちらりと新聞の日付を確認しながら尋ねてみると、なんでも大丈夫、というある意味主婦殺しな答えが返ってきました。
まぁ、相手はまだまだ子供なので、甘い香りのお茶にすることにしましょう。
レイ君に丸めてもらった新聞紙の敷き詰められたクーラーボックスに、私は野菜くずを煮ていた鍋をそぉっと入れます。上にもう少し新聞紙をかぶせて、蓋を閉めれば、こちらも簡易ですが保温調理器の完成なのです。こちらは今日は使わず、後でお母さんに使い方だけレクチャーする予定です。
「さて、お茶にしましょうか。その後で、私、学校の宿題をやりたいので、レイくん、付き合ってもらえませんか?」
「うん!」
今度はレイくんも元気よく頷いてくれました。
というか、頷いたということは、学校の宿題があったんですね。これは後でちゃんと確認しないといけません。小さい頃から宿題のサボり癖ができてしまうのも問題ですからね。




