29.それは、挨拶だったのです。
すー、はー。
私は大きく深呼吸をしました。
だって、緊張するのです。失敗したら大変なことになりますから。
まさか、本当にお母さんのダーリンさんとマイエンジェルちゃんのお宅訪問をするとは思っていなかったのです!
「おい、そろそろ入れよ」
「うぅ、はい……」
同行者はいつも通り佐多くんです。
いえ、ちゃんと一人で行こうとしたんですよ? でも、どうしても付いて行くって聞かなかったんです。一人で行かせるぐらいなら、マンションから出さないって言うんです。仕方ないじゃないですか。私としてもアウェーに一人で行くのが心細かったんですよ。
そんなわけで、何故か車まで出してもらっちゃって、お母さんの住んでいるマンションの前です。なう。
入り口の所で、もう一度大きく息を吐いた私は、四桁の部屋番号をポチポチと押します。
『はーい』
「あ、お母さんですか? ミオです」
『着いたのねぇ、いらっしゃぁい』
自動で玄関のドアが開きました。
こちらを心配そうに窺っていた守衛さん……じゃなくてコンシェルジュさんの顔が、ほっと緩みました。何だか慣れないのですけど、まぁ、良いのです。良いということにしてしまいましょう。
何が慣れないのか、ですか?
私の住んでいたアパートは一体何だったのかと思うぐらいの設備の整いっぷりですよ。えぇ、佐多くんのマンションと同じかそれ以上の場所なのではないでしょうか。
部屋番号も四桁です。上2桁が部屋の階数を表している、と言えばいいですかね。つまりはそれだけ位置エネルギーも高いのです! きっとお家賃も高いに違いありません……って、何だか似たような話をしたことがありましたね。そもそも賃貸かどうかも不明なのですけれど。
ドキドキしながらエレベーターに乗った私を、何故か背後の佐多くんが後ろから包み込むように腕を回して来ました。
「大丈夫か?」
「な、何がなのです?」
「いつになく挙動不審になってる」
「……貧乏性なものですから」
ついでに、この抱え込み姿勢も落ち着かないのでやめてください。いや、ソファで散々されているので、ある意味慣れた感覚なのですよ? でも慣れたとは思いたくないのです。
エレベーターから数歩の所に、玄関のドアはありました。
お隣さんのドアは……やっぱり見えません。ここらへんも、なんか既視感ありまくりですね。
「ミオちゃぁん、いらっしゃ~い!」
「ひゃぁっ」
突然、玄関が開いたかと思ったら、胸を鷲掴みされました。
犯人は、いつだって自分の持っていない豊かな胸を狙っていたのです。今回は油断した私の負けですね。とは言っても、許す気はありませんよ?
え、犯人ですか? もちろん……認めたくありませんが血を分けた母親です。
「お母さん、人の胸を揉まないでくださいとあれほど……」
「だってぇ、さわり心地がいいんだもん~」
「もんじゃありません!」
まったく、手土産のケーキを佐多くんに取り上げられていて良かったのです。でなければ、うっかりお母さんに炸裂して残念な有様になってしまうところでした。
「佐多くんも、お墓参り以来ねぇ。元気だったぁ?」
「……どうも」
佐多くんもお母さんのテンションについていけないみたいです。苦手なタイプというやつでしょうか。
血飛沫が似合う羅刹と、お花畑に住んでいる妖精さんみたいな母。合うわけがありませんよね。
え? 母の年齢で「お花畑」はおかしいですか? いいのですよ、頭の中は年中お花畑なのですから。
「ささ、上がって、上がって~」
母に促されるままにリビングへと足を進めれば、そこには、眩しいばかりの金髪美青年と、その隣にちょこんと座る天使が……!
ポロシャツにジーンズというラフな格好の好青年(もちろん、年齢は青年ではないと思いますが)は、町を歩いていたら八割ぐらいの女性が振り向くのではないかという美形オーラを出しています。戸籍上、既に自分の父親だという事実に、正直ドン引きですね。
もちろん、戸籍上、私の弟になっている天使はウェルカムです。小学生になったばかりと聞いていましたが、何と愛らしいことでしょう。クラス中、どころではなく学年中、いいえ、学校中の女子生徒の視線を釘付けですね。こんな可愛い弟なら大歓迎なのです。
「時間を作ってくれてありがとう」
「こんにちは」
いったい、ダーリンさんはおいくつなのでしょうか。エンジェルちゃんの年齢を考えるとそれなり……なんでしょうけど、全く検討がつきません。
「お久しぶりです。えぇと、ドゥームさん?」
「遠慮なく『パパ』って呼んでくれてもいいのに」
直接、目の前の人とは関係もないのに、『パパ』という単語にあの蛇を思い出して、ぞわり、と鳥肌が立ってしまいました。
そんな私の様子に気付いたのでしょうか。佐多くんがさりげなく背中をさすってくれます。予想外ですが、細やかな気遣いをありがとうございます。
「ほとんど初対面なので、それはハードルが高いです。すみません」
ぺこりと謝ると、困ったような笑みで返されてしまいました。
本当に申し訳ないです。でも、『パパ』という単語は、どうしてもイヤなものと直結してしまうのですよ。
「ミオおねえちゃん?」
「はい、こんにちは。レイくん」
座っていたソファから歩いて来た天使(!)が私の方へと近づいて来ます。トテトテと音がしそうなほど可愛いです!
私はその場にしゃがみこんで天使に視線を合わせました。くりっとした青い瞳がまっすぐにこちらを見てくれています。
「佐多くんも、どうぞ座って?」
「……はい」
何か言いたげな佐多くんでしたが、お母さんの勧めに従って、先にソファへと身体を預けました。
私はレイくんの差し出された手に自分の手を重ねると、引かれるままに同じくソファへと腰を落ち着けました、……が!
「よっこいしょ、と」
どうして、このエンジェルは私の膝の上に座るのですかーっ!
ふわっふわの金髪の後頭部が、つむじが、愛らしすぎます! まるでアニマルセラピー!
「おや、レイがこんなに早く懐くなんて珍しいね」
「ミオおねえちゃん、ママといっしょ。似てるの」
なるほど、既にママ認定されたお母さんと雰囲気が似てると言いたいんですね。不本意極まりないですが、まぁ、子どもの言うことに真っ向から否定するほど大人げなくはないので、曖昧に微笑んでおきます。
……ところで。
さきほどから、隣に座る佐多くんのオーラがヤバい色をしているのですが。
ダメですよー。そんな黒いサクリア放出したら無限地獄に落ちてしまいますからねー。というか、この天使が脅えたらどうするんですか。
「トキトくん、君の気持ちも分かるけれど、少し抑えてもらえないかな」
「……ドゥームさん」
「うーん、そんな顔をすると、やっぱりお父さんにそっくりだね。何だかサタをいじめている気分になるよ」
ん?
ダーリンさんが佐多くんを諌めてくれるのは良いのですが、これって……?
「あの、二人は、お知り合いなのですか?」
「オッサンのさらに上の人だ」
えぇと、佐多くんが「オッサン」というのは、確か佐多くんのお父さんのことですから、……ってあれれ?
「もしかして、あの蛇、じゃなかった宮地さんにとっても上司にあたるんですか?」
「そうなのよぉ。ダーリンってば、本当に優秀なんだからっ♪」
お母さん、そんなに身をくねらせないでください。どれだけブリっ子しているのですか。
まぁ、それなら佐多くんが頑なに同行しようとした理由も分かる気がします。義理の父親になったとはいっても、あの蛇男その1、その2の上司になる人間と会わせるなんて、……ねぇ?
「ミオちゃん。ワタシは君に謝らないといけないんだ。君のお母さん、リコと一緒に暮らし始めたことで、知らなかったとは言え、君を経済的に困窮させてしまったこと、本当にすまないと思っているよ」
「あの、気にしないでください。バイトで何とかなってますし……」
「君が自分で払ってくれた授業料も含めて、これまで無理させてきた食費の分をまとめて君の口座に振り込んだから」
「はい、確認しています。ありがとうございます」
「もちろん、今後もお小遣いとか渡していくし、生活費もワタシが持つから心配しないで」
「えっと―――」
ちらり、とダーリンさんの隣に座るお母さんを見れば、ニコニコと、どういう意味にも取れる笑みを浮かべていました。
どうしましょう。
金銭的に余裕ができるのは嬉しいです。でも、そこまでお世話になってしまってもいいのでしょうか。
隣の佐多くんを見上げれば、不機嫌そうな表情ながら、声を出すのを堪えている様子です。
つまり、アドバイスも主張も何もない状況です。
「ファミリーが離れて暮らすのは良くないし、ここで一緒に住もう。リコもその方がいいよね?」
目の前のダーリンさんが告げる、至極真っ当な意見に、私は何故か、鳥肌を立ててしまいました。
膝の上から心配そうに見上げてくる天使の視線も、何だか不思議とドキドキしてしまいます。その、決して良い意味ではなく。
背中を押してくれたのは、それまでニコニコと微笑んで流れを見守っていたお母さんでした。
「ミオちゃん。ママは無理強いしないわよ? 成人してないと言っても、もう結婚は出来る年齢なんだから、自分で考えて決めた意見を尊重するわ」
その言葉は、私の中で芽生えていた違和感を確固たるものにしてくれました。
私は、膝の上の天使の頭を優しく撫でて、その反対側の手で、こっそりと隣に座る佐多くんの服の端に触れました。
「すみません。一緒に住もうという申し出は、本当に、本当にありがたいのですけれど、やっぱりドゥームさんは、その、父親、というよりは、どうしてもお母さんの新しい旦那さん、というふうにしか見れませんし、レイくんも、弟、ではなく親戚の子というか、そんな感じなのです」
そこまで言って、ふっと息をつきました。口にする内容は簡単なことなのに、何故だかすごく緊張しています。
「だから、我侭で申し訳ないのですが、今まで通りでも良いでしょうか?」
今だけは、お母さんを見習って、なるべく無垢に見えるように小首を傾げました。
「やぁ、リコの言った通りになっちゃったね」
「でしょぉ?」
困ったような表情のダーリンさんと、満面の笑みを浮かべるお母さんが顔を見合わせています。
「若い女子高生と一緒に住もうなんて不埒なことを考えるからよ♪」
「そんなつもりじゃないんだけどな。ワタシにはリコしかいないのに」
えぇと、娘と息子の目の前で、そんなにラブラブしないでください。いたたまれません。
「ミオ、おねえちゃん。ボクといっしょは、いや?」
ふわぁぁぁ! 天使が、天使が、瞳を潤ませて……っ!
「ご、ごめんなさい、レイくん。レイくんと一緒がイヤとかではないのですよ。その、私にも、これまでの暮らしの積み重ねとか……」
うぅ、この心情を小学生に理解してもらうのも難しいのでしょうか。家族という括りで一緒に暮らすのは良いのですけど、そこはどうしたって、他人です。変な遠慮とかが出てしまって、どうしても気を遣ってしまうのですよ。
「あ、そうだ。レイくん。私、おやつにってケーキを持って来たんです。一緒に食べましょう」
「ケーキ」
「そうです。しっとりふわふわなパウンドケーキです」
大人のズルイ手段ですが、レイくんの興味を上手くケーキの方へ持っていけたようです。
……というか、いくら父親の上司だからと言って、佐多くんが大人し過ぎるのが気になるのですけど?




