112.【番外】それは、学期末だったのです。
4年制の大学に進んだ同級生が、せっせと就職活動に勤しんだり苦しんだりしている中、6年制の大学を選んだ私はレポートと試験準備に苦しんでいたりするのです!
「えぇと、医薬品医療機器等法の解析ノートは金曜提出なので、ちょっと後回しにするとしても、医薬品安全性学Ⅰは次回で漆原先生担当分が終わりなのでテストをすると言っていたはずなのです。そっちを優先させて……、あぁっ、臨床薬物動態学もテストが近かったはずなのです、いつでしたっけ!」
ノートをひっくり返し、アミノグリコシド系抗生物質、グリコペプチド系抗生物質などなど呪文のようなカタカナが踊る中、試験日程のメモを確認すると、一週ずれていることが分かってほっと一息つきました。
「そろそろ、頭の中をきっちり整理しないと、わやくちゃなのです」
「アンタ、こういうところ手際悪ぃよな」
「んひょっ……!」
いつの間にか私の部屋に侵入していたトキくんが、座卓に広げたあれやこれやの講義ノートを眺めていました。
「トキくん、何度も言うようですが、ノックは……」
「した。アンタが気づかなかっただけだろ。ちゃんと返事ぐらいしろよ」
「……えぇと、本当に、ですか?」
「ずっとぶつぶつ呟いてて、全然反応ねぇなぁ、と思ってたが、アンタ、危機管理意識薄いよな」
「家の中ぐらい、ちょっと薄めてもよいと思うのですよ」
「ふぅん?」
「んぎゃっ!」
どうして首筋を舐めるのですか!
「えぇと、トキくん、何か用事でも? あ、お茶とかコーヒーですか?」
夕食の時に食後のお茶もしっかり飲んだはずなのですが、うぅん、足りなかったのでしょうか?
「いや? アニマルセラピー……と思ったが、忙しそうだから別にいい」
「……それはありがたいのですけれど、トキくんの大学も、そろそろ試験週間ではないのですか?」
「別に、そんな難しいもんじゃねぇし」
一つ屋根の下に暮らしているのですから、この頭の良さとか感染してくれないでしょうか。あ、素材が違うから無理ですか? そうですか……。
「料理とかに関しちゃ、あれだけ要領いいのにな」
「余計なお世話なのです。それに、あれは中学時代からの積み重ねですから」
料理をしているときは、どれだけマルチタスクで動いても大丈夫ですが、こういう勉強とかになると、私の頭は残念なのでシングルタスクオンリーになるのです。CPUとかメモリとか積んだらもっと動けるのでしょうか。……開発が待たれます。
「で? どれやるんだ?」
「とりあえず、これですけど……」
医薬品安全性学と書かれた教科書と、そのノートを残して、他を座卓の端に重ねると、その中の薬事関連法規をひょいっと手に取ったトキくんは、そのままラグにごろりと寝そべりました。
「……読んでて面白いのですか?」
「それなりに」
高校時代に住んでいたアパートから引き取った、私の愛用せんべい座布団を二つ折りにすると、我が物顔で枕にします。えぇ、私はトキくんからもらったファンシーなクッションにお尻を乗せてますので、構わないのですけど――――ここ、私の部屋なのですよ?
苦情をぐっと飲み込んで、私は改めてノートに向き直りました。講義中にまとめたノートを読み返しながら、忘れていた部分に付箋を張り付けたり、曖昧な部分を教科書で確認しなおしてノートに追記していきます。
那珂さんはノートをまとめ直して勉強するタイプと言っていましたが、私はノートにひたすら書き込みをするタイプです。大学まで来ると、それぞれに勉強のやり方が確立されているので、面白いとも思います。竹水さんのように教科書を読み直す、という人もいますし。
しばらくは、ペンがノートを滑る音、教科書をめくる音だけが僅かにあるだけの静かな時間が過ぎました。
気づいたのは、ノートに追記するスペースがなくなった私が、大きめの付箋をカバンから取り出そうとしたときです。
「……トキくん?」
「ん……」
かろうじて返事はしてくれますが、これ、本人は意識してないアレです。寝ているときに声をかけると「ん」と自動応答する仕組みになっているらしいのですよ。羅刹の自動応答、と考えたところで、私は笑い声を飲み込みました。
私はすっくと立ちあがり、ベッドに引っ掛けてあったブランケットを手に取ると、トキくんに近寄ります。
「トキくん、毛布かけますねー」
「……ん」
人間は学習する生き物なのです。
起こしてはいけないからと、足音を忍ばせて動いてしまえば、トキくんの自動迎撃モードの餌食になってしまうのです。突然、押し倒されるという怖い経験を何度もした結果、足音を忍ばせない&何をするか声をかけるということを学びました。
押し倒すって、その、男女の意味ではないのですよ?
どちらかというと、制圧される、とかそんな感じなのです。後ろ手に捻られて顔を床に押し付けられたときは、本気で震えましたとも!
「さて、続き、続き……」
薬の吸収・分布に伴う有害反応やら、排泄・代謝に伴う有害反応やら、とにかくもう一度整理し直すのです。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
「トキくーん、そろそろ起きて欲しいのですよ。そろそろ日付が変わってしまうのですよ?」
集中していると時間はあっという間に過ぎてしまうもので、気付けばあと15分で日付が変わってしまいそうな時間なのです。
ごろりと横になった羅刹の腕を、ぺしぺし、と叩けばギロリ、と睨み上げられました。緊急時には一瞬で起きるくせに、こういう時の寝起きが悪いってどういうことなのですか。
「あぁ?」
「そろそろお風呂に入って寝たいので、トキくんも起きてください」
「……あー、今何時?」
「23時45分なのです」
「おー……、ちょい寝過ぎたな」
頭をがしがしと掻いていますが、まだまだ眠そうなのです。うーん、お風呂はトキくんに先に入ってもらった方がよいでしょうか? 私はその後でゆっくり入ることにしましょう。
「とりあえず、早くお風呂に入っちゃってください。私は後で構いませんので……んみょっ?」
あれ、何故か小脇に抱えられました。たしたしと腕を叩いても、解放してくれないみたいなのです。
「トキくん?」
「一緒に入れば時間短縮になるだろ」
「ふぎゅっ!?」
一緒? 一緒って何なのです? いや、確かにお互いの裸を見た関係ではありますけれど! ちょこちょことベッドにお誘いされている関係ではありますけれど!
それはハードルが高いのです!!!
「と、トキくんが先に入ってください。私は後で構いませんので!」
「あ? 別にいいじゃねぇか、減るもんじゃねぇし」
「減ります! 私の精神的な何かがかき氷みたくガリガリ削られて減ってしまうのです!」
「別に何もしねぇよ」
「そういう問題ではないのです! ちょ、離してくださいっ」
私を手荷物のようにひょいひょい運ぶトキくんの筋肉がうらめしいのです……。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
「え? 付き合うことになったのですか?」
「そう。何か、意気投合しちゃって」
大学に行ってみれば、那珂さんからまさかのお付き合い報告がされていました。
「うん、ミオのおかげかな。そもそも知り合うきっかけがミオだったし」
「えぇと、おかげ、と言われるほどのことはしていないのですけれど……」
趣味がシルバーアクセサリー作りというアッキーさんと、いつの間にか交友を深めていたらしいのです。全然気づきませんでした。
「ほら、あっちは四年制じゃない? 就職先も決まったらしくて、その報告と一緒に……えぇと、ね?」
「ナカっち、顔赤いよ?」
「うわぁ、やめてやめて! ちょっ、思ったよりも恥ずかしいねこういうの!」
どちらかというとお茶目な竹水さんにブレーキをかけることの多い那珂さんですが、さすがに自分のことになると、上手くいかないみたいで、竹水さんの指摘に両手で頬を押さえてしまいました。珍しく可愛い仕草なのです。
「やっぱみんな学生のうちにベターハーフ見つけちゃうんだねー」
「そういう竹水さんだって、彼氏さんがいるではないですか」
「まぁ、アレは腐れ縁の産物だから。ミオっちだって人のこと言えないでしょ?」
「うーん……、私は出来心の産物としか言えないのです」
「出来心! 出来心であんなイイ男捕まえられるもんなの!?」
驚愕でくわっと目を見開いた竹水さんに詰め寄られてしまいました。でも、トキくんとの出会いは、まぁ、クラスメイトというだけのものでしたし、仲良くなるきっかけは……うぅん、どっちなのでしょう? 隣の席のクラスメイトに対するささやかな親切か、それとも通りすがりの人助けか……。
「そういえば、彼氏と付き合い始めたきっかけって何だった?」
「あ、それ知りたい!」
「え、えぇと、講義がそろそろ始まるのですよ」
「それもそうね。だったら、近々、部屋飲みしよう! あたしの部屋でいい?」
「賛成! テスト期間の打ち上げも兼ねてやろう」
「……えぇと、はい」
参加しない、とは言いにくいのです。あとでトキくんに日程の相談をしておくことにしましょう。
「そういえば、ミオのトキくんは、就職決まったの?」
「あ、えぇと、もう決まっているのです」
「そうなんだ? やっぱり就活は大変そうだった?」
「あー、えぇと、結構早い段階から、その、インターン?でしたっけ、あんな感じで」
インターンというか、もう大学入学前から働いちゃっていますけど、さすがにそれは言えません。しかも、平社員ではなく、役職もついているらしいのです。
「そっかー、やっぱりインターンって大事なのかな。何か、まだ全然他人事なのよねー」
うまく流してくれた竹水さんに感謝しながら、次の講義のある大教室へと移動します。一足先に社会へと出る彼氏を持つのも不安だと愚痴をこぼす那珂さんの言葉に、いったいどう返したらいいのかと考えながら。




