108.【番外】それは、青い鳥だったのです。
「なるほど。話は分かった。―――それで、その代わりに君は何をしてくれるのかな、ミオさん? 私の再婚相手にでもなってくれるのかな?」
「ざけんな、オッサン」
私は、隣に座ったトキくんの腕を引っ張りました。トキくんが頼りなのですから、挑発に乗らないで欲しいのですよ。
目の前にはトキくんのお父さんが、にっこりと微笑んで悠然と座っているのです。怖いのです。
「ここ数日の、ドゥームさんの仕事ぶりはいかがですか?」
「とても勤勉なようすで助かっているよ。あまりに勤勉過ぎて家にも帰っていないと聞いているけれど」
そうなのです。
お母さんが家出してから4日、レイくんはひとりぼっちの夜を迎えているのです。それこそ、一緒に実家へ引っ張ってくればよかったと後悔するぐらいに!
「佐多さん。いつまでも、この状態が続くと思っていますか?」
「いや、いつかは限界を迎えるだろうね。でも、それは私には関係のないことだから」
「上司であっても、ですか?」
「彼一人が潰れたところで、仕事は回るよ」
「潰れるだけなら、ですよね。先ほど申し上げた通り、母は家を出たままなのです。……自棄を起こしたドゥームさんが、周囲を巻き込む惨事を引き起こすとは考えられませんか?」
残念ながら、蛇であるところの佐多さんに私から対価として差し出せるものなんてありません。自暴自棄になったドゥームさんがカタストロフィを巻き起こす可能性、これだけを手札に協力を要請するしかないのです。
「……彼が、それほど愚かな人には見えないけれど?」
「宮地さんのことも知っていますよね? 恋は盲目なのです!」
ぶふぉっ、と吹き出したのは、佐多さんとの話し合いをセッティングしてくれた徳益さんでした。睨みつけたくなるのを、ぐっと堪えます。目の前の蛇の反応を見落とすわけにはいかないのですから!
「その言葉を鵜呑みにすると、君の母親は随分と魔性の女性だね」
ましょう。……魔性?
ほややんとした口調で、娘のおっぱいを揉もうとするあの人が? いえ、仕事のときは口がよく回る人だとは知っていますが、魔性というのは、もっとこう、ボンキュッボンのナイスバディで、男の人を手練手管でメロメロメロリーヌにしてしまう人のことを言うのではないでしょうか?
「すると、トキトを籠絡した君も、その血を受け継いでいるということなのかな?」
まるで私を貶めようとするセリフに、私は隣に座るトキくんの腕をぎゅっと掴みます。だめなのです。これは挑発なのです。蛇の挑発行為なんて、あの人で散々慣れているのですよ。長年宮地さんと渡り合った(というか逃げ回っただけなのですが)ミオさんを嘗めないでいただきたいのです! なめ猫のように嘗められたら無効なのですよ!
「佐多さん、論点がズレてしまっているのですよ。最初にお話させていただいたように、ドゥームさんの暴走を防ぐために、ドゥームさんを強制的に帰宅させるか、盗聴の心配のない場所をセッティングしていただきたいのです。協力できないのであれば、できないとハッキリ言ってください。そうすれば、私は時間を無駄にすることなく次の手段に移るだけなのですから」
「次の手段とは?」
「協力してくれない人に話すことではないのです」
もちろん、嘘なのです。
次の手段なんて考えていないのです。私は策士タイプではないのですよ? 断られたら、そのときに次の手段を考えるしかないのです。
「あぁ、本当に君はトキトにはもったいない人材だね。どうだろう。大学を卒業したら、うちに来ないかな?」
「お断りします」
薬剤師の資格を取ったら、私は普通の薬局とかに就職するのです。無駄に刺激的な仕事なんて求めていないのですよ。
「それは残念だな。……それで、親子の話し合いの場をとったところで、君は今の状況をどうにかできるのかな? どうしようもなく拗れているようにも見えるけど?」
「当然なのです」
断言した私を、佐多さんは珍しいものでも見るようにじっくりと見つめてきました。
「それは、是非その手段を聞いてみたいね。あの人を動かす方法なんて、あるとは思わないんだが」
「……佐多さんは知らないのですか?」
「何を?」
「昔から言うではないですか、『子はかすがい』なのです」
私の回答をお気に召したのかどうなのか、たっぷり3秒ほど目を丸くして絶句していた佐多さんは、その後、大爆笑をかましてくれたのです。
そんな佐多さんに逆に驚きを見せたのはトキくんと徳益さんでした。後で尋ねてみたところ、あんな笑い方をする人ではないのだとか。
「本当におもしろいね、ミオさんは。いいだろう。久しぶりに本気で笑わせてくれたお礼だ。明日の午後3時に、ドゥーム氏を帰宅させるよ。――――その後の手腕を楽しみにしているよ」
なんだか、暗に「失敗することは許さない」と言われた気もしますが、何も気が付かないふりをして「ありがとうございます」と頭を下げておきました。とりあえず、セッティングはこれでOKなのです。
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
「ミオお姉ちゃん?」
「大丈夫なのです。……いえ、大丈夫にするのですよ」
私はレイくんと一緒にドゥームさんのマンションで待機していました。トキくんのお父さんがうまくやってくれているとしたら、もうすぐ帰ってくるはずなのです。
あ、あくまで家族の話なので、トキくんには遠慮してもらってます。家族会議なので、と言ったらちょっと不機嫌になりましたけど、なぜか実家の方へ行ってしまったのです。まぁ、トキくんの考えることは何となく分かりますが。
私はソファに座り、不安そうに隣で座っているレイくんの肩を抱き寄せて、じっと耳を澄ませていました。ぽん、ぽんとレイくんの肩を緩いリズムで叩いているのは、レイくんを安心させるためというより、自分の心を落ち着かせるためなのです。
じりじりとしながら、どれぐらい待ったのでしょう。ピピッと玄関の扉が開錠される音に反応したのは、レイくんの方が先でした。あ、玄関も無駄にハイテクなカードキーなので、鍵を差し込む音なんてしません。
「お帰り、パパ!」
「ただいま、レイ……と、ミオちゃん?」
「お帰りなさい」
私の姿を見つけたドゥームさんは、リビングをぐるっと見回しました。もしかしたら、もう一人いるかもしれない、なんて思っているのでしょうか。
「お疲れさまなのです。帰ってきたばかりの所、非常に申し訳ないのですが、出かける準備をしてもらってもよいですか?」
「……どこに、かな?」
「それを、聞きますか?」
じっと私を見下ろしたドゥームさんは、珍しく乱暴な仕草でどかっと向かいに腰を下ろしました。ネクタイに指を差し入れ、軽く緩める仕草は、なんというか様になっているのですが、残念ながら蛇なので私にとっては「相手が戦闘態勢に入ったぞー!」的な警報にしかなりません。
「ミオちゃん。悪いけど、ワタシは行かないよ」
「どうしてですか?」
「出て行ったのはリコの方だ。ワタシが何を言っても聞かないと思うよ」
「どうしてそう思うのですか?」
「リコの逆鱗に触れたからね。リコが許してくれるとはとても思えない。ワタシに無駄足を踏ませるのかい?」
「それなら、いつまでこのままでいるつもりなのですか?」
あ、踏み込み過ぎたのです。後悔してももう遅いのですよね。それまで比較的平穏だったドゥームさんの周囲の空気が変わったのが分かりました。
それでも、隣のレイくんから伝わる体温が、私を鼓舞してくれている限り、踏ん張るのです。お姉ちゃんなミオさんは頑張るのですよ!
「ミオちゃん、あまり口が過ぎると……」
「今口出しをせずに、いつ口を出すのですか。リサちゃんを産むかどうかというときに、お母さんも言っていましたよね? 『子はかすがい』なのです。離れないようにつなぎ止めるのがお仕事なのですよ」
「……その言葉は、どうせ形ばかりのものだろう?」
「そう疑問に思うのなら、直接尋ねてみればよいのですよ。何を逃げているのですか」
「逃げてはいないよ」
「そう言うのなら、とっととお母さんに謝りに行ってください。悪いことしたのなら、ちゃんと謝る。これは基本なのですよ?」
「リコに許す気はないだろう?」
あー、もう! 蛇だ蛇だと思っていましたが、面倒くさい蛇に格下げなのです! これはプライドの問題なのですか? それとも頭が回る人と言うのは、頭が回り過ぎてろくでもないことしか考えないのですか?
いえいえ、落ち着くのです。私までヒートアップしてしまえば、何も変わりませんし動きません。クールダウンなのですよ。
「ドゥームさん。それなら、いくつか考える材料をお渡しします」
私はぴっ、と人差し指を立てました。
「1つ目。お母さんの左薬指には、まだ指輪が付けられています」
「……」
はいはい、無反応ですか。ドゥームさんだって、指輪を外していないではないですか。
まぁ、よいのです。まだ材料はありますから。
「2つ目。できるだけリサちゃんを連れての外出は控えているのです。ドゥームさん自身も、ご自分に敵が多いのは分かっているのですよね?」
そうなのです。家出初日を除いて、お母さんはリサちゃんを家の外に出すことを避けているのです。このマンションではなく、セキュリティが甘々な昔ながらの日本家屋では、用心してもし過ぎることはありません。もちろん、ドゥームさんだって何か警護の手を打っているかもしれませんが、それはこちらには分からないことですからね。
「3つ目。お母さんが本気で怒っていて、ドゥームさんのことを許す気がないのだとしたら、私はとっくの昔にメッセンジャーとして離婚届を持参してこちらへ来ているのですよ?」
お母さんを甘く見ないでください。あの人はこうと決めたら色々なものを切り捨てて突き進むタイプなのです。
「ドゥームさんだって、お母さんと別れるつもりがあるのなら、とっくにクレジットカードをストップさせたりしていたのではないのですか?」
3本の指を立てた私の向かいで、ドゥームさんが虚ろな目をしてこちらを見ています。ちょっと、いえ、かなり怖いのです。でも、ここで退くわけにはいかないのです。
「……リコは」
青い目を伏せて、ドゥームさんが呟きを落としました。いつものドゥームさんからとても考えられないほどに、弱々しい声だったのです。
「リコは、許してくれると思うかい?」
「分かりません。でも、私がここへ来ることも止めませんでしたよ? それに、まず悪いことをしたら謝らなければ、許すも許さないもありませんよね?」
私の答えがドゥームさんに浸透するまで、たっぷり3秒はあったと思います。瞑目していたドゥームさんが次に瞼を上げたときには、もういつもの眼光が戻っていました。えぇ、蛇の眼光ですとも。
「分かった。車を出そう。途中、リコの好きな焼き菓子を買いに寄って行く。……それでいいかな?」
「お詫びのお菓子は既に準備しているのです」
私の言葉に、レイくんが大きく頷きました。
ドゥームさんは僅かに目を丸くして「かなわないな、ワタシの『かすがい』たちには」と呟くと立ち上がったのです。
――――ドゥームさんの運転で実家へ到着した頃には、時計の短針は数字の5の側まできていました。
「ドゥームさん?」
「……」
インターホンを押す直前で指を止めてしまったドゥームさんに、私は小さくため息をつきました。ちらりとレイくんと視線を交わすと、よいしょ、とレイくんを両手で抱え上げました。私のやりたいことをちゃんと分かってくれたレイくんは、その細い指で緑のボタンを勢いよく押してくれます。
ビーッ、と内側に響いた音に、ドゥームさんがビクッと肩を震わせました。
奥からパタパタと近づいて来る足音は、きっとお母さんなのです。玄関の擦りガラスに映った人影は、そのまま鍵を外しました。でも、玄関の引き戸を開けてくれることはなく、そのまま背を向けてしまいます。
何でしたっけ、こういうの。えぇと、ゾンダーリングで教わった言葉があったような……そう、ツンデレなのです!
再びレイくんとアイコンタクトを交わした私は、そいや、と玄関の引き戸を開けます。
「あら、ミオちゃん。……それに、レイも」
「昨日ぶりなのです。リサちゃんの今日のご機嫌はどうですか?」
「上々よ。ようやくこっちに慣れてきたみたいね」
あぁ、お母さんの口調から、ほややんとした間延び要素が消えています。えぇ、ちゃんともう一人も見えていますよね。わざと名前を呼ばなかったのですよね。
「……で、そこの人は、どうするの?」
お母さんが視線を向けた先には、もちろんドゥームさんがいます。……というか、お母さん、言葉が厳しすぎて当事者でない私の方が泣きそうなのです。
「リコ」
緊張して強ばったドゥームさんは、じっとお母さんを見つめます。
「ミオちゃん、レイ、中に入ってなさい」
「でも……」
「リサがぐずっているから、あやしてあげて。お父さんだけだと心許ないから」
「……分かりました。レイくん、行きましょう」
「でも」
「レイくん」
こうなってしまったら、お母さんに反論なんて聞かないのです。
私はドゥームさんと一緒に留まろうとするレイくんの手を引っ張って居間へ向かいました。きっと、私たちがいると、ドゥームさんが謝りにくいのでしょう。
居間では、私の行動を予測していたらしいおじいちゃんが、リサちゃんを抱いて待っていました。
「よく来たな、二人とも」
窓の開けられた縁側からは、小兵衛さんと平蔵がしっぽを振って顔を覗かせています。うぅ、癒されるのです。
「ミオおねえちゃん……」
「大丈夫なのですよ。ドゥームさんの手腕を信じましょう。レイくんの自慢のパパさんなのでしょう?」
「うん……」
癒し系ワンコたちの方へレイくんの背を押して、私はリサちゃんをおじいちゃんから受け取りました。ちょっと眠そうなリサちゃんを、揺らしながら一定のリズムで体を叩いてあげます。
「心配の必要はないだろう。リコが選んだ男だ」
「そう、ですよね」
腕の中のリサちゃんの瞼がゆっくりと落ちていきます。大丈夫なのですよ。リサちゃんのお父さんとお母さんは、すぐに仲直りするのです。だからゆっくり寝て待ちましょうね……
「ワタシが悪かった! 約束やぶってゴメン! だから戻ってきて。リコのいないホームはいやなんだ!」
あ、リサちゃんのおめめがパッチリ開いてしまいました。えぇ、大声が響きましたもんね。仕方ないのですよね。
泣き出してしまったリサちゃんを慌ててあやしながら、私は隣のおじいちゃんを見ます。おじいちゃんは苦笑いをしていました。
「パパの声?」
「えぇ、ちゃんと『ごめんなさい』できたみたいなのです。レイくんも悪いことをしたら、謝るということをちゃんとしましょう。下手に時間をかければかけるほど、謝りにくくなるのですよ」
「うん。……リサ? 大丈夫だよ? 今のはパパの声だから」
レイくんは、私の腕の中で泣くリサちゃんに優しく声をかけてくれます。残念ながらお兄ちゃんの声では足りないのか、私の胸ぐらを掴んで泣き続けているのですけど。
「おじいちゃん、イス借りますね」
座椅子に腰を下ろした私は、私の服に両手でしがみついて泣くリサちゃんの背中を撫でました。玄関からは、まだ低いお母さんの声が聞こえてきますが、何を話しているかまでは分かりません。予想はつきますけどね。
「リコの荷物をまとめておくか」
「お願いします、おじいちゃん」
きっと、このまま車で帰るのでしょう。容易に予想がつくのです。私にできることと言えば、泣いているリサちゃんを少しでも宥めることぐらいなのですよ。
――――10分ほどして、ようやく居間へやってきたドゥームさんの手は、ちゃっかりお母さんの腰に回されていました。その様子にホッとした様子のレイくんを横目で眺めながら、私は全く別のことを考えていたのです。
ドゥームさんのスーツの膝に白っぽい砂汚れが付いていたり、額も少し赤くなっているのは、もしかしなくとも、玄関で土下座をしたのかなぁ、と。
「リコ、とりあえず荷物はまとめてそこに置いてあるから」
「お父さん。追い出す気満々なのぉ?」
「帰るんだろう?」
「もちろん、帰るけど、もっとほら、なぁい?」
「ないな。気にするなという方が無理だろう。むしろお前の選んだジェフリーくんはよく我慢した方だと思う。――――リコ、これを機にちゃんと話したらどうだ?」
「いやよぉ。ミオちゃんの父親はお星様。それで十分じゃなぁい?」
あ、おじいちゃんが深いため息をついてしまいました。
「ありがとうございます。お義父さん。でも、ミオちゃんの父親がどんな人であれ、ミオちゃんがいい子だということは間違いないので、大丈夫です」
「ふふん。そこはほらぁ、あたしの娘だしぃ?」
お母さんに対して「親はなくとも子は育つ」という言葉を贈りたくなりましたが、ぐっと我慢しましょう。
「それで、お母さんはドゥームさんと一緒に帰るのですよね?」
「そうよぉ? ……って、リサってば、ずいぶんとうらやましい寝方じゃない?」
もともと眠かったのもあって、泣き疲れたリサちゃんはぐっすりなのです。……私の胸を枕にしたまま。まさか胸にしがみつかれたまま寝るとは思わなかったので、さすがに困っているのです。
「まぁ、いいわ。ミオちゃんも一緒に帰るでしょ?」
「帰りませんよ?」
「ええー? だって、ここからトキくんのところに戻るより、うちから戻った方が早いじゃない? 遠慮しなくてもぉ」
「……お母さん、分かってて言っていますよね?」
「やっぱり?」
トキくんは自主的にこの近辺まで来ているのです。私を回収しようとしてくれているのか、お母さんとリサちゃんの身辺警護をしてくれているのか、目的までは確認していません。
「トキくんにも、何かお礼をしないとねぇ?」
「ミオにもらうからいい」
ふぇ?
今のは幻聴、なのです? まさにトキくんが答えても違和感のないセリフだったのですけれど。
そう思いたかったのですが、なぜかトキくんが庭の方からのっそりと入って来たのです。
「な、な、なななんで、トキくんがそこにいるのです……?」
「ずっといたが」
「トキくんは、今日は番犬役だったのよぉ? というか、お父さんが小兵衛さんと平蔵と同じ『番犬』だからって庭に放り出しちゃってぇ、ごめんねぇ?」
お母さんの話をそのまま鵜呑みにするなら、今日はずっと実家の庭でワンコと一緒に日向ぼっこ……ではなく、警護をしていたということなのですか? というか、おじいちゃん、さすがにひどいと思うのです。
「別に、外の方が警戒しやすいだろう」
おじいちゃん、それはきっと後付けの理由なのですよね? やっぱりトキくんのことを受け入れていないのですよね?
◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇ ~ ◆ ~ ◇
「本当に色々とご迷惑をおかけしました」
「いや、いい」
マンションに戻り、ホッと一息ついた私は、トキくんの前に正座して頭を下げました。
本当に今回は迷惑のかけ通しだったのです。何度も実家に足を運んでもらったり、佐多くんの大嫌いなお父さんと交渉するのに立ち会ってもらったり、実家の警備をしてもらったり、感謝の気持ちを何で表せばいいのか分かりません。
「やっぱり、お礼はちゃんと体で返さないとですね!」
「あぁ?」
「だって、色々と骨を折ってもらったのですから、私も一肌脱ぐのですよ! 今夜……はさすがに無理ですけど、明日以降、食べたいものがあったら遠慮せずバンバン言っちゃってください!」
「……あぁ」
あれ、なんだか不埒な空気なのです? 今、トキくん「一肌脱ぐんじゃなく、実際に脱いでくれれば」とか呟きませんでした?
……。
…………。
……えぇと、黙殺なのです!
「いや、本当に今回は単なるおせっかいだから構わねぇよ」
「……おせっかい、なのですか?」
それは、私に対しての? いえ、なんだか違う気もするのです。
床に正座したままで首を傾げた私を、トキくんは軽々と持ち上げました。抵抗する気はありません。もう慣れたものです。
私をソファに座らせ、背中から抱え込むいつものスタイルに落ち着いたトキくんは、私の頭の上でポツリと呟きました。
「ドゥームの気持ちも、分かるからな」
「? ドゥームさん、なのですか? おせっかいの相手が?」
意外なのです。トキくんはドゥームさんに対して恩を売れるなら売っておきたいとか思っていそうだったのですから。ほら、大嫌いなお父さんに対抗できる数少ない人材ですし。
「アンタも、アンタの母親も、家に帰ったときに『お帰り』と迎えてくれる人間がいることが、どれだけ幸せなことか分かってないだろ」
「えぇと……?」
なんだか、トキくんの口から「幸せ」なんて言葉が出てくると、お尻のあたりがもぞもぞするのです。
「オレはアンタにそれを教えられた。たぶん、ドゥームもアンタの母親に教えられたはずだ」
「でも、それは、普通のこと、ですよね?」
「その『普通』を知らなかったんだよ。そんな『普通』を一度知ってしまえば、失うのは怖い。だから、ドゥームもなかなか行動に移せなかったんだろう。取り戻す可能性がゼロになるのが怖くて、な」
普段であれば、人の二手も三手も先を読む人が、お母さんのことになると後手に回ってしまうのは、そういうことなのでしょうか。純粋に惚れた弱みというやつなのだと思っていたのですけど、そこにそんな想いがあるなんて考えもしなかったのです。
そういえば、他人に共感するのは、自分の中にも同じ感情がないとできないことだと読んだことがあります。私には分からなかったドゥームさんの心の内を、トキくんが推し量れたということは……それは、つまり。
「トキくんも、なのですか?」
「当たり前だろ。アンタがいないとき、オレがどれだけ寂しい思いしてると思ってんだ」
「寂しい、のですか?」
「あぁ。アンタをこのマンションから出したくないぐらいにな」
「それは無理なのです」
「アンタをオレのにしたい」
「自由意志のある人間の所有権を主張しないでください」
「……アンタがオレに大人しく飼われてくれるような女だったらな。いや、それは、もう、アンタじゃねぇのか」
「トキくん、発言が不穏過ぎるのです」
そういえば、似たやりとりをしたことがあったのです。ちょうど、トキくんに身元バレした頃でしょうか。あれがもう2年も前のことだなんて、信じられません。
そっと上を向くと、トキくんとばっちり視線が合いました。トキくんの太い腕が私をそっと横に倒します。ソファに横になった私に、ゆっくりとトキくんの顔が近づいてきて――――
「ミオ」
薄い唇が、私のまぶたに、頬に、そして唇に重ねられます。そのまま首筋をつたうように降りて、私の鎖骨の間に口づけられたと感じた瞬間、私は慌ててトキくんの肩をぐっと押しました。
「だめ、なのです。ごめんなさい、トキくん。まだ、だめなのですよ!」
「分かってる」
「わかってるなら、もう、……ひゃんっ!」
く、くくび、舐められ……!
「安心した」
上半身を起こしたトキくんは、にやりと笑みを浮かべていました。とんでもないストップをかけたというのに、不機嫌さは見えません。
「えと、安心、なのですか?」
「あぁ、アンタが『まだ』って言うなら、いつかはあるんだろ?」
「……ふぎゃ☆■×★△ぁぁ!!!」
自分のセリフを思い返して、慌てて逃げようとした私ですが、あっさり狼に捕獲されてしまったのです。
「逃げんな」
「ちょ、はな、離して欲しいのです……! 切実に!」
「もうちょい小動物堪能させろ」
「あああああ後で、後にして欲しいのです」
「断る」
「いやぁぁぁぁぁ!」
真っ赤になった私を、トキくんが離してくれたのは、それから30分以上経った後のことでした。くすん。
これにてお母さんの家出騒動はひと段落です。




