二話 『死を告げられた者』
十年続いた戦争がもたらした代償は何か。
飢饉、疫病、不和、恐慌。
戦争の道具の材料になる木々が丸ごと切り出された山は禿げあがり、土砂崩れを散発させた。
若い衆が徴兵された村は働き手がなくなり、果てには飢饉に苦しむことになった。
野晒にされた近郊の死体は放置され、それを媒介して新たな流行病が世界を席巻した。
長く続いた戦争は、経済を活性化させるどころか、各国との繋がりを途絶えさせ、むしろ停滞させた。
そしてここに一人また、戦争の余波によりその尊い命の灯が消えそうになっている少女がいた。
……
リンヤは月明かりを隠す分厚い雲に溜め息をつく。もう五日はずっと曇ったままだ。
月が恋しいなぁ、と思いつつ、もう一度溜め息を吐いた。
リンヤがこの世界に生まれ落ちて、早二十年。
あれから彼が目的を見つけられたのかと言うと――そうではなかった。
あれから少し余裕が出るだろうと思っていた日々も、どころか更に戦乱に明け暮れる日々となってしまっていた。
近郊の村人か町人ぐらいしか、それも滅多にしか来なかったのに、五年ほど前、死神の身体を手に入れた辺りから急に人が増え始めた。
今では、リンヤが生まれ落ちた頃に較べ、墓地の面積は倍ほどになっただろうか。
(戦争か、何かでもあるのかな? ……まぁ、関係ないか)
この十年で、大分擦れた性格になってしまったものだと、自分でも辟易する。まあ、精神が肉体に引きずられるという説を信じればそれもまた、仕方がないことなのだろう。なんせ死体なのだから。
(せめて、ガイドでもつけてくれてれば、もっと積極的だったろうけど)
今の自分に慢心して墓地周辺の外に出て、自分より強い何かと戦闘になってはい終了、というわけにはいかないのだから。今は前とは違って、少しだけ生きる気力があるのだから(死んでいるが)。
と言っても、こんな身なりでは人がいる場所には行けないだろうが。
リンヤは今日も今日とて、魔力で浮遊した身体で墓地をふらふらと彷徨う。二十年前に較べれば、まあ堂々と散策出来るようになったものだと、少しだけしみじみしたりもした。
今であれば日の光の下もそれなりに活動できるようになったが、この不死族の本能なのか、精神が徐々に溶けていく感じがするので、精神的に遠慮している。
現在時刻は、おそらく午前零時前後。そろそろ鬼火達が最も活動し始める時間帯だ。一日に一回は、その鬼火達の乱舞を干渉するのが、リンヤの擦れた習慣にもなっていたりもした。
そんな美しくも退廃的な墓地の日常に、今日はどうやら珍客が来ている。
(あれは……首無騎士と死告霊?)
首無騎士は名の通り、騎士の甲冑の首が無い見た目をしている。
死告霊は、みすぼらしい黒衣を纏った女性の姿をしている。
どちらも、死が近づいた人間の前に現れ、死を宣告することで有名な魔物だ。両者とも、危害を加えなければ害は無い。
リンヤは一度、森で遭難している人を見つけた時、そこで首無騎士と死告霊がその人間に何かを呟いているのを聞いたことがある。助けようか、と近づいた時、人間に全速力で逃げられたのは苦い思い出だ。
しかし、ここには既に死んでいる者しかいないので、来ることなど早々ないはず。
それとも、また行き倒れか何かがこの墓地に迷い込んだかと、リンヤは首無騎士と死告霊の後をそっと着ける。
二体の死の宣告者が進んだのは、最近出来た墓地の方だった。ゆっくりと歩を進めるその姿に少しだけぞっとする。
もし自分の目の前にあんなものが現れて、自らの死を宣告されたら、発狂して生きる希望を失うだろうこと請け合いだ。
そんなことを考えていると、二体はとある墓の前で足を止める。そして死告霊が一歩踏み出し、その場に片膝をつき、墓に何かを呟く。
(あれは……人?)
よくよく目を凝らして見れば、墓碑の前に布にくるまった子供がいることに気が付く。
しばらくすると、二体はその場を後にした。
ぽつぽつと雨が降り始めた。
水滴が骨にしみるのを感じて、呆然としていたリンヤはゆっくりと墓碑を背にしている子供に近づく。
いつからここにいるのかは分からないが、とにかくみすぼらしかった。
黒い髪の艶は失われ、肌は垢塗れ、頬はこけて性別すら曖昧だ。年のころは、七から八歳と言ったところだろう。
(戦災孤児ってやつかな?)
ここ十年続く争いが戦争だと知ったのは、三年ほど前だったか。すぐ近くで違う勢力同士の衝突があったのだ。何か轟々叫びながら剣で斬り合っていたがよく分からなかった。それが戦争的なものであるということが分かったのは、その両軍が掲げていた旗の違いを見つけたからだ。
この子供が戦争で親を亡くしたのか、それとも口減らしに捨てられたかは分からないが、とにかく彼女はもうすぐ死ぬ定めにあるのだろう。二体の宣告者から見ても、言わずもがなである。
子供の顔を覗き込むと、眠っているのかと思ったら起きていた。
黒い瞳が縦に裂け、まるで猫の瞳のようだ。目蓋を三白眼気味に開き、必死に眠気を飛ばそうとしているのか、ぎゅっと唇を噛んでいる。
可哀想に思うが、しかし助かりそうにない。
ガチガチと歯の根を打ち合わせる音と、もごもごと口の中で呟いている姿がが何とも痛ましかった。
(残念だけど……)
リンヤはその子供の命を諦め、その場を立ち去ろうとした。
しかし――纏っている黒衣を引かれる。
何だ? と思い振り返ると、子供が骨と皮ばかりの腕を伸ばし、その小さな手でリンヤの黒衣を弱々しく握りしめていたのだ。
がちがちぶつぶつ。
何を言っているのかは聞き取れない。そもそも、この世界の言語が分からないのだ。
しかし、何となくは掴める。
不死族になり、曖昧だが思念のようなものも読み取れるようになったのだ。特に、こういう死にかけの生物の思念は、ひしひしと伝わってくる。
――死にたクナい。シにタくなイ。しニたくナい。しにたくない。シニタクナイ。死死死シニタくナイイイ。死にタクナナナナナナナ――死にたく、ない。生きて、いたい。
鬼火や幽鬼などの比ではない、強い渇望がリンヤに伝わった。
「……カタ、カタカタ」
「……?」
カタカタと骨を鳴らすリンヤに、目の前の子供はギンギンに開いた目を少しだけこちらに向けた。
喉があれば声を発していると分かっただろうが、どうせ言葉は通じない。
リンヤはぱっと黒衣を掴んでいた小さな手を振り払うと、そのまま何処かへとゆらゆら言ってしまった。
少女はその背中を、ただじっと見つめ続けた。
……
物心がついたころには、父親と呼べる人と母親と呼べる人の仲は最悪だった。
ある日、いつものように酒を飲んで酔った父に言われた。
――お前は俺の子供じゃねぇんだよ。どっかに行っちまえ。
数日に一回罵倒のようなものを浴びせられる以外会話という会話がなかったけれど、その日は多分、一番多く話した日だ。
父親が言うには、自分は、敵国に村が襲われた時、母親が敵兵に犯されて孕まされた子供であるらしい。
母親が言うには、それは間違いだが、犯されたことを負い目に感じ、言い返せないでいるらしい。
とにかく、二人は自分に関しては、負の産物だと思っているのは間違いなかった。
その時の歳は、七歳。そこから一年間、自分を養ったのはどうしてかは分からない。
ただ、一年後、今から言えば十日前、自分は捨てられた。
三日分の食糧をいっぱいに詰めた袋を渡され、にこやかに笑いながら、何処へでも好きなところに行って良いぞ、と言われて。
辿りついたのは、不死族の巣窟として悪名高い、ヴラヌス墓地だった。昼間は大人しいものだけれど、夜間は鬼火を始め凄まじい数の不死族が這い出てくる。
此処に来るのに三日かかり、既に食糧は尽きていた。ただ、途中で魔物に襲われなかったのは運が良かったとしか言わざるを得ない。
着いた日の夜、死人の躯から布をはぎ取ってそれを纏うと、死霊たちは自分に気付かなかった。
ただ、それからが地獄だった。
夜になれば死霊に脅え、昼になれば食べ物を探すけれど結局泥水しか啜れず。
この一週間したことと言えば、家から持ってきた分厚い本を読んだことぐらいだった。内容は、どこにでもありそうな英雄譚だ。多分、誰でも知っている内容だ。
だけど、それももう二日前に読み終えてしまった。
何度も読み、読み聞かされた本だから読み慣れてしまったのもあるかもしれない。
それから五日。
ただただ、じっとここにいた。
曇りの日が続くと、昼間でも不死族が姿を見せるので、身動きが取れなかった。
しかし、もういいかと、そう思い始めてもいた。
三日ぐらい前に感じ始めていた。もう、生きることを諦めてもいいんじゃないかと。何であんなに生に執着していたのか、分からなくなっていた。
空腹で目が回る自分の前に、首が無い騎士と血色の悪い女性が現れ、死を宣告していった。
それがきっかけだった。
全身が震えて、震えて震えて震えて、歯の根が勝手に打ち合わされる。
がちがち。
気が付けば口からは呪文のように言葉が呟かれていた。
――死にたくない。生きていたい。
そんな私の前に、黒衣を纏った骸骨が現れる。見たことがない不死族だ。それは噂に聞く、死神のようにも見える。
殺される、と思ったがしかし、それは自分の顔をしばらく覗きこむと、諦めたかのように――もう助からないと言わんばかりに、その場を後にしようとした。
咄嗟に手を伸ばして、黒衣の端を掴んで、必死に呟き続けた。
――死にたクナい。シにタくなイ。しニたくナい。しにたくない。シニタクナイ。死死死シニタくナイイイ。死にタクナナナナナナナ――死にたく、ない。生きて、いたい。
死神はしばらくこちらを見ると、カタカタと骨を鳴らし、掴んでいた手を振り払うと何処かへ行ってしまった。
絶望と悔恨が過ぎると、笑いすら出てくるようだ。
既に死んでいる存在にすら縋り、既に死んでいる存在にすら生を見放された。
このまま死を待つしかないらしい。
空腹に、意識が揺らぐ。恐らく、このまま寝てしまえば、安らかに死ねることだろう。
いつの間にか、頭がこっくりこっくりと船を漕ぎ始めている。駄目だと思い必死に首を振って眠気を飛ばそうとしたが、どうやらもう無理らしい。
だけど、自分だけは自分の命を諦めたくない。
何時までそうしていただろうか。何時しか雨も止んでいた。
ふと、いつのまにか閉じていた目蓋を開けると、大量の鬼火や幽鬼が周囲に群がっていた。
ああ、そろそろ仲間入りか。
恐怖で、空腹すらも吹き飛んだ。
最後に思い出すのは、貧しくもささやかな、あの家での生活。
一瞬後に来るであろう死霊の殺到に、目を瞑った。
……何も、起こらない。
不思議に思い目蓋を開けると――あの死神が目の前に立っていた。
手に持つ大鎌を鮮血で濡らしながら。
視線を動かすと、その骨の手に肉の塊が握られていることに気が付く。
死神はしゃがみこむと、そこら辺にある木の枝と葉を集め、適当な鬼火をひっ捕まえると、その火の粉で火を着け、鎌の刃を鉄板代わりに肉を焼き始めた。
しばらくぶりの肉の匂いに、自然に涎がぽかんと開いた口の端から垂れた。
脂の乗りが良いのか、肉汁が溢れだしている。
いい具合に焼けると、死神は肉汁が滴り落ちるそれを差し出した。
自分は夢中でそれを掴むと、いつの間にか頬張っていた。
思った以上にお腹が満たされると、急に眠気が襲ってくる。
死神の方を窺うと、雲間から顔を覗かせた月の光に妖しく照らされながら、こちらをじっと、見つめていた。
ただ、その視線がやけに落ち着いて。
久しぶりの充足を感じながら、意識は闇の底に落ちた。
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