挿話 『白い空間にて』
お手元に味海苔、二窓で何か動画でも見ながら、斜め読みでもいいので見てくだされば幸いです。
その日は、いつも通り平凡で、しかし三日月が綺麗に映える夜空だった。
眼下には、車やネオン、ビルの窓から漏れる生活光が人々の営みが見て取れた。
しばらく呆然と眺めていると、吸い込まれるような錯覚を覚える。
今日は、飛べそうな気がする。
きっとそれは、甘い誘惑。
惹かれてしまえば、もう引き返すことは出来ない。
だけどもう、僕にはその誘惑に打ち克つだけの気力は、残っていなかった。
立ち上がり、直下を見下ろす。
悔いがないと言えば、嘘になる。
けれど――もう……。
「――さようなら」
誰に呟くでもなく、そして僕は間違いなく、飛んだ。
……
「ここは、どこだろう……?」
そこは白く、上下左右の概念すら曖昧で、立っているのか寝そべっているのか、それすらも分からないような、全てが白い世界だった。
酷く、気分が悪くなる。
僕の疑問に応えるように、声が響いた。
男なのか、女のか、若いのか、老いているのか。それすら掴ませないような、それとも全てを含んでいるかのような声だ。
「ここは、神域。次元宇宙が存在する世界とはずれながらも、重なっている世界」
「誰……ッ?」
振り向き、辺りを見回す。いや、見回すという感覚は当てはまらない。そう、既に僕の身体は無いのだから。
「自己紹介しよう。私は『――』、君がいる世界では神と呼ばれる存在だ」
僕は驚愕し、声の主を探すが、何も見当たらない。光源もなければ影もない。
無い無い尽くしの世界は逆に情報量が多いように感じた。
「姿を見せた方が気楽ならば、そうするが?」
「い、いえ……いや、やっぱりお願いします」
僕の声に反応するように、白い空間に一つの何かが生まれた。それはあっという間に人型を模り、純白の紳士服を着た男性になった。
まるで御伽噺だな、と内心思いながら、その光景を眺める。
「それでは、本題に入ろうか」
本題? と僕は神と名乗る存在の言葉に首を傾げた。首もないけれど。
神は三白眼気味の紅い瞳を優しげに丸めながら、手に持った白杖で床とも知れない白い空間をつつく。
「折り入って頼みがあるんだ、君にね」
「僕に?」
「本当は誰でもいいんだけれどね。しかし、物語というのはいつもそうだ。誰でもいい人間の中から何故か誰かが選出され、その誰かが物語を紡いでいく。同じ道筋を与えられたとしても、人によって辿る末路が違うようにね」
いきなり語りだす神に、僕は圧倒される。
誰でもいい。そう、神からすれば選ぶ人間なんて誰でもいいんだろう。誰を選んだって団栗の背比べだからだ。ただ、団栗を同じ傾斜の坂から転がしたら、その転がる道筋は全てずれる。
「そこから君を選んだ理由は他でもない。特にあたり障りのない、どこにでもいそうで、普遍的な少年だったからだ。何か異論は、……無いね?」
その言葉には有無を言わせぬ威圧感があった。
しかし、そんなに威圧しなくとも、僕に異論はまるでなかった。神が言うことがすべて当てはまるからだ。
神と名乗る存在は満足気に微笑む。
「私の頼みとは、異世界に行って欲しいんだよ。君にね」
「……異世界って、ドラゴンとかスライムとかが闊歩してて、剣と魔法が生活基盤のファンタジーな方ですか? それとも、未来的なSF世界ですか?」
「前者だね」
「よく分からないことがあるんですけど……。それって、あなたに何か得があるんですか?」
僕は得があるようには思えない。一人間を異世界に行かせて、神様に何の得がある? むしろ損だ。一人の人間を転位させるのには原子力爆弾が数億数兆もしくはそれ以上必要だと聞いたことがある。
しかし、神と名乗る存在は大仰に腕を広げて微笑む。
「エンターテインメントだよ。那由多の時を観察に費やしてきた私にとって、刺激とは変化そのものでね。当たり障りのない異世界、人同士が争いいつかは滅びゆく定めにある世界に君と言う異分子を入れることで、どういった変化が起こるか。それに興味があるんだ」
どうにも人間臭い神様な事だ。どうやらこれまでの神様像を百八十度ほど改めなければなさそうだ。
「ちなみに君に拒否権は無い。既に私が決定したことだからだ」
「そこら辺は、僕の思っている神様像と変わりがありませんね」
「さてね。神とは常に変化を尊ぶ。変わらぬ者には神罰を、変わる者には寵愛を授ける。ただそれだけだ」
ただ、その変わるも変わらないも神の裁定次第ってところが、神と人間の違いなのかもしれない。価値観の違いは時に決定的な亀裂を生みだす。
「どういう世界とかは」
「さっき君が言ったような世界とだけ言っておこう。あまり教えると面白味に欠けるのでね」
どうやらこれ以上の問答はする気が無いらしい。暖簾に腕押し、柳に風状態だ。
どうせ僕には及びもつかない考えでも持っているのだろう。考えるだけ無駄だ。
「さて、そろそろ行って貰うとするよ? 心残りは?」
「あると言えばあるんですけど、けど、どうせ言ったところでどうにもならないでしょうし、いいです」
「君が物分かりがよくて助かったよ。じゃあ、さようなら。
楽しい愉しい喜劇や悲しい哀しい悲劇を、心待ちにしているよ」
ゆっくりと消えていく自分の存在を感じながら――最後に見たのは、神と名乗る存在の、妖しげな微笑みだった。
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