72 椅子とパン
ユディトは再び天族の姿になると慌ただしく帰って行った。
曰く、「夕食の準備があるのを忘れていた。すぐ戻らないといけないから話は次の機会にな」とのこと。
私が入学した後、ユディトをはじめとした年長組が交代でシスターを手伝い食事の準備をしているらしい。そして今日の夕食はユディトが手伝い当番なのだそうだ。
ユディトが飛び立ち姿が見えなくなる直前、空にキラキラと光の粒子が舞う。解除された魔法の残りカスのようなものらしいが、やはり私にとって馴染みすぎたその力は空気のようなもので、ただ綺麗だなとか不思議と心が落ち着くな、といった感想しか抱かなかった。
「逃げられたわね。――で、なんでユディトは天族の時は椅子とパンみたいな名前になってるの?」
「……イシュトバーン」
「あー、そうそう。イシュトだったわね、イシュト」
「……はぁ。ともかくあの名前は人から天族になった者が神の力を円滑に行使するためだ。ちなみに人であって神の力を問題なく扱えるのは聖女や聖人ぐらいだからな」
マティアスとしての記憶を取り戻したからなのか、マリウスは私だって力を使えるのにと言おうとする前にその答えを示す。
天族の時にイシュトの名で呼ばなければ問題があるということだが、一度名を与えられただけではダメだということか。
「ユディトと呼んだら力が上手く扱えなくなるの?」
「大体そんなところだ。天族の姿の時に違う名で呼ぶと神との繋がりが不安定になる恐れがあるらしい。イシュトでもいいが、出来るだけ名前を憶えてやれ」
「努力します」
つまり、名を与えられた時点で繋がりは出来るが、天族の姿の時にその名を否定するような事は神との繋がりが揺らいでよくないということだろか。
マリウスは大体と付け足していたので完全な正解というわけではないだろうが、恐らくこれも今日よく話に出てきた制約というものの一つだろう。
このことから人が天族となっても神の力、つまり浄化の力を使うことは容易ではないことがうかがえる。そして特に制限のようなものもなくその力を扱う聖女や聖人といった存在がどれだけ特殊な人間であるかがわかる。
「ところで、あの天族は何の用でここに来たんだろうね?」
私の思案を遮ったのは、顎に手を当てて真面目な顔でジークが発した感情を押し殺したような声だった。
しかしその肩は小刻みに震えていて笑いを堪えている。つまりあの真面目な顔は笑うのを堪えている結果だろう。色々と台無しである。
「……そういえばそうですわね」
「フィーが正体に気づいちゃったから用事忘れちゃったとか?」
「え、私のせいなの?」
「重要な用事であれば正気に戻ればまた来るだろう。気にすることはない」
リーゼが可愛らしく首を傾げ、ヴィルは私を見てくすくす笑う。
あの場でユディトかと問い詰めたのはまずかったのかと焦る私の肩に手を置いて、マリウスはゆっくりと首を左右に振った。
「僕はてっきりあの魔王で聖女な子の話だと思ったんだけど。違ったのかな?」
「殿下……」
珍しくかけられたマリウスの慰めの言葉をジークがばっさりと切り捨てる。
腕を組んで考えるそぶりをみせるジークのその表情に悪意は一切感じられないが、これが人に腹の内を探らせるのはよろしくないという王族の立場故のものだろう。ジークの前世であるジークベルトはもう少しわかりやすかったと思うのだけれど。
「そう、ね。天族からの話といえばそれぐらいしか思いつかないわね……。気づいたからって調子に乗ってちゃんと話を聞く前に問い詰めるような真似をした私が悪かったわ」
ジークの腹黒説はともかく、先に話を聞いてから確かめればよかったのは間違いないので素直に謝罪し反省する。
「まぁ元魔王のヴィルを消しに来た可能性もあるかな、とは思ったんだけどね」
「そのつもりはなかったとはいえ、確かに元魔王だね」
「だから聖女であるエフィーはともかく、従者如きの僕らは神に背き魔王に与する敵と見なされてその存在を消されてしまう恐れもあると心配したんだけど。さすがに考えすぎだったみたいだ」
「いや。その可能性がないとも言い切れない以上、用心するに越したことはないだろう」
「そもそも以前対峙した時にその様子はなかったから、その可能性は低いとは思ってたけれどね」
「そうだね。俺はあの時思い切り力を使っていたし。けれど俺は魔王にはならないから。それでフィーやジークたちが神や天族と敵対することにはならないよ」
何やら物騒な話に血の気が引く思いでリーゼを見れば、リーゼは少し困ったように眉を下げ、そっと私の頭に手を伸ばした。視線を落とせば爪先立ちになったリーゼの足元が見えて、慰めてくれようとするリーゼの心遣いとフルフルとふるえる足元に心が温かくなる。
リーゼロッテの時は考えたこともないけれど、今のリーゼの可愛さは半端ない。
「他にも旧知のマリウスに会いに来たとか、僕が考えもつかないような理由ということだってあり得るから。エフィーが彼の正体に気づいたというの大きな収穫だよ」
「その通りですわ。彼が姿を消した時、それはそれは心配して捜索はさせていましたけれど私たちも隙を見ては城から抜け出して行方を探したものです。結局何の手がかりも得られず、最後までそれが心残りの一つでした」
ジークが振り返ったのでびくりと体を震わせたが、ジークは口元に緩やかな弧を描いたまま表情を和らげた。ゆっくりとリーゼに視線を向ければ、リーゼは胸の前で手を組んで目を伏せる。
「けれど彼が無事であったことがわかり心残りの一つが解消されたのです。エフィーのおかげですわ」
視線を戻したリーゼの瞳は微かに愁い帯びていたが、浮かべる笑みにもその声にも偽りは感じられない。
情けなくへにゃりと下がった眉に気づかれないよう顔を逸らすと、今度はヴィルと目が合った。
慈愛に満ちた視線に耐えかねて再び視線を落とすと時刻を知らせる鐘が鳴り響く。
「もうすぐ午後の授業が始まる。そろそろ戻ったほうがいいんじゃないかな」
「そうだな」
苦笑しながらヴィルが言えば、マリウスが頷いてぽんとジークの肩に手を置いた。
「ではジーク、また夕食で」
「はぁ、僕もアンネと同じ学年ならよかったのに」
「そう言うなジーク。多少の障害があったほうが結果としてうまくいくと父が言っていた」
「君の父が、か。うん、それもそうだね。それじゃあまた後で」
この世の終わりといわんばかりの表情でジークがリーゼに手を伸ばすと、マリウスはそれは素晴らしい笑顔でその伸ばされた腕を掴んだ。
ジークは鋭い視線をマリウスに向けるが、すぐにマリウスの言葉に納得したように腕を下ろす。
その様子に首を傾げた私に、マリウスは「それも夕食の時にな」というとさっさと校舎に向かって歩き出したのだった。
「マリウスの両親は以前王立研究院に勤めていた時にちょっと面識があるんだ。職場恋愛で結婚したんだけど、ちょっとした有名人だったんだよ。ね、マリウス?」
「――そうらしいな」
さり気なくマリウスが私たちの周りに張り巡らせた中の声が外に届きにくく届いても記憶に残らないといった効果のある結界の中、優雅に口元を拭いてジークはマリウスに同意を求めるように首を傾げた。マリウスは眉間に深いシワを刻みつつも同意する。
「マリウスの両親があの有名な……? 確かにあの夫婦の姓はエックでしたわね。私としたことが失念しておりました」
「リーゼまで知ってるの? でもどうして今まで教えてくれなかったのよ」
「すでに引退して田舎に引き篭もっているからな。それに今の問題に親は無関係だ」
「それはそうだけど……」
有名という言葉で一瞬シスターの顔が脳裏をよぎったが、マリウスの両親が勤めていたのは研究院なのだから村にいる元錬金術師のフォン爺さんみたいな武勇伝があったりするのだろうか。
そういえばマリウスの実家には肉食のカボチャが生えているというのだからそういったトンデモ発明で有名なのかもしれない。
「俺の両親は、やっと俺の表情筋がやる気を出したって喜んでた普通の人間かな」
「意味がわからない」
「そう?」
そういうヴィルの表情はいつも通り柔らかく、表情筋はしっかりと仕事をしている。私が知っているヴィルはたまに怒るけれど、基本的にはいつも笑顔で表情がないヴィルは見たことがない。
もしかしたら、前世を思い出した時の衝撃や動揺でそういった時期があったのかもしれない。それなら私にも覚えがあるから。
「どうした、気味の悪い顔をして」
「美人だとは言わないけれど、乙女に向かって失礼よ」
私の顔を覗き込んだマリウスが眉をしかめる。
食事の席なので威嚇程度に繰り出した拳は、隣という至近距離にもかかわらず首を傾げるだけの小さな動作でマリウスにあっさりとかわされた。
ヴィルに慈しむ視線を向けただけだというのに酷い言われようである。




