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30 迷う必要はない

「っくしょん!」


 さすがに浅瀬とはいえ腰まで水に浸かっていたので体が冷えてしまったらしい。立ち上がればスカートの裾からぽたぽたと水がしたたり落ちる。

 見上げてみても深い枝葉で遮られ空は見えず、どれほどの時間が経過したのかもわからない。腹時計の具合から昼を超えているとは思えず、何時間もここで寝ていたわけではないと考えて間違いないはずだ。


 放置されていたのは浅瀬とはいえ泉の中心。外に出るためには一度泉の深い部分を通り抜ける必要がある。幸い深い部分でも腰よりわずかに上程度の水深しかなかったのでざぶざぶと歩いて外に出ることはできた。

 クルト先生が魔法は使わない方がいいと言っていたので、制服の裾をぎゅっと絞る程度で乾かすことは諦め辺りを見回す。目に留まったのは泉の脇の柔らかい地面に残る馬の足跡。ここに私を放置してそのままリーゼを連れ去ったのか、その跡からは一度この場で停止して再び進んだことが窺えた。

 しかし人の足跡や引きずった跡などは見当たらず、私は馬の上から泉に放り投げられたらしい。投げられた場所が浅瀬だったのは偶然なのか投げた人間のほんの僅かな慈悲なのかはわからないが、水と柔らかい地面のおかげで酷いけがはせずに済んだのだろう。投げられた場所に固いものがなかったことと、顔が水に浸からず窒息せずに済んだのは幸いだった。

 足跡は森を少し進んだところで途切れ、日の光が届かないこともあってこれ以上その痕跡を探すことは難しい。


「リーゼ……」


 ぽつり、と言葉が零れ落ちる。もちろん返事があるはずはない。

 馬で進めそうな方向は今いる場所よりもさらに暗く、深い闇に包まれている。こんな場所で精霊と契約できるのか疑問だが、その気配は強く感じた。この森には他よりも私たちの魔力とは違う精霊の魔力が強く、闇の先からはより強い力を感じる。

 十中八九リーゼがいるのはこの奥。精霊の姫と呼ばれ精霊に好かれていたリーゼロッテはまさに精霊ホイホイで、常にその周りには精霊が集まっていた。

 精霊が特に好んでいたのがリーゼロッテの魔力であり、その生まれ変わりで同じ魔力を持つリーゼの周りにも当然集まっている。それは私が学校に入学してから精霊酔いを多く起こしている要因の一つだといっても間違いではない。



 暗い森の中を全力で駆け抜ける。

 節約の為に月明かりのない夜さえ明かりをつけず真っ暗という孤児院で育ったので暗闇には慣れていた。夜目は利く方だし、シスターの教えのおかげで足場が不安定な場所でも問題なく走ることができる。

 ヴィルのように探査魔法が得意ではないし、マリウスのように落ち着いて物事を一歩引いて見ることも得意ではない。そんな私一人でリーゼの元に向かうのは得策ではないのかもしれないが、待っていれば状況が好転するとも限らないのだから一刻も早くリーゼの元に向かうべきだと足を動かし続けた。


 途中、何か薄い膜を抜けるような感覚があり、その直後辺りの景色が一変した。

 暗い森の中に浮かぶ無数の淡く小さな光が森を幻想的に照らし出す。光に触れてみればほんのりと暖かかった。先にはとても立派な大樹があり、その大樹から複数の強い力を感じる。大樹の根元には大きな洞があり、手を差し伸べてみると見えない何かに弾かれた。ペタペタと触れてみれば洞の入り口全体に目には見えない壁のような、精霊によって施された結界があるらしい。


「リーゼ、そこにいるの?」


 一応声をかけてみるが、やはり返答はない。声すら見えない壁に阻まれて中には届いていないようだ。

 感じる魔力の質からこれは精霊の力に間違いはないだろう。しかもかなり上級の精霊によって施されたものであると思われる。手近な漂う光を手に取り洞の中に入れてみると、光はすんなりと通り抜け、そして消えた。

 精霊や精霊の力は問題なく通過できるらしい。光が消えたことから考えてこの洞はどこか別の場所へ通じているのだろう。もし私が中に入れたとしてもその場所へ行けるかはわからないが、この壁が消えたとしても中に影響はないだろう。

 人の魔力は遮断されるので中にリーゼがいるかどうかは確認できないが、他に手掛かりがないのだからどうにかしてこの先に進むしかない。


 進むべき道に障害があるのなら取り除くだけ。


 まずは思い切りきり見えない壁に蹴りをいれてみるがやはりびくともしない。ならば魔法を使うしかないのだが、先生の言っていた魔法を使うなというのはこの森に精霊の力が溢れているからだろう。精霊の力をかりる精霊魔法の類が暴発しやすくなるのだと思う。

 実際私たちが学校で使ったことのある魔法はほとんどが精霊魔法。精霊の力を借りずに術者自身で魔力を変換し発現させる黒魔法よりも制御しやすく発動も早いので扱う人間は多い。黒魔法や神聖魔法と違い、マリウスのように相性が最悪でも扱うことができるため一般的に魔法というと精霊魔法を指すことが多いのだ。

 精霊の力に左右されない黒魔法か神聖魔法であれば暴発の危険は低いと踏んで得意な神聖魔法で破壊を試みることにした。


 放った魔法は地響きを上げ、粉じんを巻き起こす。

 念のためそれなりに高火力だがいざという時にでも対処ができる程度の魔法をぶつけてみたのだが、壁は何ら変わりのない状態でそこにあった。その程度でどうにかなるとは思ってはいなかったとはいえ驚きだ。暴発する様子はなかったが、全力でもこの壁を壊せるかどうかは怪しい。


「――最終手段、しかないか」


 自嘲気味に笑みがこぼれる。

 リーゼが精霊に保護されている状態ならともかく、誘拐犯が一緒である可能性の方が高いのだ。そのそもあの男、不思議な気配をまとっていた。人でありながら精霊のようなよくわからない気配。あの男ならこのような精霊による結界もたやすく超えられるかもしれない。


 迷ってる暇はない。迷う必要もない。

 自分の平穏の為に大切な友人を見捨てるなんて選択肢は初めから存在しない。


 もしリーゼやマリウスに知らたならまずは昔のことを謝ろう。どうするかなんてそれから考えればいい。クルト先生はシスターの名前を出して脅せばどうにかなる……かもしれないから。


 力の片鱗がでてしまったことはあるけれど、本当の意味であの力を解放するのは初めてだ。 幾重にも箱に入れ厳重に鍵をかけるイメージで奥底で隠してある力。イメージは重要で解放するにもイメージに沿って順番に箱を開け力を外にだすのだが、以前のヴィルに力を引きずり出された時は箱を貫通してヴィルの手が突っ込まれた。もちろんその手はイメージであり魔力で形成されたものなのだが、さすが前世魔王様にそういった小細工は通用しないらしい。


 再び生れ落ちてからは初めての感覚。

 じわじわと暖かい力が体中に、毛先にまでまんべんなく行き渡っていく。

 今までとは比較にならないその力を拳に込めて、目の前の見えない壁を思い切りなぐりつけた。

 ――フィーネの頃はその力を剣など何かの形に具現化していたのだが、今の私は拳に乗せる方がしっくりくる。やはりすべてがあの頃と一緒というわけではないようだ。


 手ごたえはばっちり。ガラガラと音がして壁が崩れたことがわかるが、やはりその残骸も見えなかった。念のため確認してみると、やはり先ほどまで行く手を阻んでいた壁はなくすんなりと洞の中に手を差し伸べることができる。

 辺りを窺いながら洞の中にゆっくりと足を踏み入れるが、その洞は思ったより狭く人が一人入ればいっぱいといった大きさで、私の体全体が中に入っても何の変化もなかった。やはり私をリーゼたちがいる場まで招く気はないらしい。

 さすがに結界を破壊されたのだから奥にいる誰かに気づかれていないことはないだろうと思い切り息を吸い込んで叫ぶ。


「リーゼを返してもらいにきたわ! 拒否するようならあなたたちごとこの森浄化するわよ。精霊が存在できない程度に」


 浄化と言えば聞こえはいいが、清すぎる場所には精霊すら存在できない。神気溢れる場所に力に敏感な精霊は長く留まることができないからだ。


『ちっ、しかたねーな!』


 洞の中に少年のような声が響いたかと思うと、少しの浮遊感と共にどこかへ転移させられる気配を感じた。変な場所に飛ばされてもすぐに戻れるようにと小さく呪文を唱える。

 転移させられたのは先ほどの森と違い光が差し込む明るい森の中。そこにぽっかりと開けた場所の真ん中に私は立っていた。


「お前、何者だ?」


 足元から声が聞こえ、視線だけをそちらに向けるとそこには小さな少年が立っていた。

 真っ赤な髪に同色の強気な瞳のその少年は腰に手を当ててふんぞり返りながら私を見上げている。特徴的なのは、その頭には髪と同色の大きな耳、服の裾からは大きくふさふさとした尻尾。耳はピクピクと、尻尾はゆらゆらと揺れていることからそれらが本物であるらしいとわかる。


「馬鹿だな、ファイロ。本当にわからないの?」


 ころころと笑う声に振り返るとそこには足元の少年と同じぐらいの少年がいた。髪はきらきらと空色に輝き、深い海を思わせる大きな瞳が面白そうにこちらを見つめている。そしてその少年には大きな渦を巻く角が生えていた。


「うるさい! アクヴォは黙ってろ!」

「えー、でも君の目ってフシアナだし?」

「なっ!?」


 角のある少年は目を細めてくすくすと笑い、足元の少年はふるふると怒りに震えている。これでは話が進まないのでどつくべきかどうか悩んでいると、さらに別の方向から声が聞こえた。


「いい加減にしなさい、バカ共」

「そうだよー。聖女サマが本気で怒ったら君たち消されちゃうよ?」


 後方から聞こえたその声に振り返ると、そこにいたのはやはり耳が生えた少年二人。一人は金色の髪と同色の猫耳のようなもの、もう一人は緑の髪と同色の兎のような長い耳が生えていてやはりピクピクと動いている。そしてその二人の向こう側、花で彩られた一段高くなっている場所にリーゼが横たえられその傍らには誘拐犯が佇んでいた。

 リーゼの服に乱れもなく微かに胸が上下しているので眠ってはいるが、特に危害を加えられたわけではなさそうだ。


「ちょっとそこの誘拐犯! リーゼを返しなさい!」

「――誘拐ではありません。私たちは姫を助けただけです」


 びしりと誘拐犯に向かって指を突き付けて叫ぶと、猫耳のようなものを生やした少年が腕を組み不服そうに口をへの字に曲げた。その隣では兎耳の少年がくすくすと笑っている。

 彼らに見覚えはないが、私を聖女だと呼ぶこととその名前、そしてリーゼを姫と呼ぶことからその正体に検討がつく。だがリーゼの隣に佇む誘拐犯の正体はわからず、リーゼに危害を加える気がないと確信できたわけではない。

 様子を窺いつつじりじりと距離を縮める私を、誘拐犯は無表情で眺めている。


「その名前、聞き覚えがあるわ。私の予想が正しければ……そっちがヴェントであなたがテーロね?」

「何で俺たちの名前を知ってるんだ?」

「馬鹿だね、ファイロは。ヴェントが言ったじゃないか、彼女は聖女様なんだって」


 疑問の声は先ほどまで私の足元にいたファイロ。ファイロを小馬鹿にして鼻で笑ったのは角のある少年、アクヴォ。猫耳がテーロで兎耳がヴェントだ。


「聖女なのはわかるが、俺たちを知ってる理由にはならないだろ」

「黙りなさい。彼女は私たちを知っているあの聖女様ですよ。姫が今この姿でこの場にいるように」

「……フィーネはもっとお淑やかだったぞ。結界を殴って壊すなんて野蛮な真似は――」


 ちょっぴりイラっとしたのでファイロにそこそこの浄化の力をぶつけておいた。ファイロがやっと静かになったので、これで話をすすめられるだろう。

 前世の記憶にある彼らの姿は基本的に人型ではなく獣。人型をとることもあったが、今目の前にいるような子供の姿ではなく成人の男性だった。力のある上位精霊なのだから姿が変えられるとしても不思議ではないが、何故それが耳付きの人型という姿なのか疑問だ。


 ――何故、リーゼロッテの契約精霊の多くがこの森にいるのか。

 何故リーゼを彼ら曰く”助けた”のか。

 そしてあの誘拐犯は何者なのか。

 考え出したらきりがないほどに疑問は尽きない。


「なぁ、真剣に悩んでるところで悪いんだが――外にまた客が来てるぞ」


 いつの間にか復活し、再び私の足元に来ていたファイロが鼻をひくつかせ呟いた。

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