10 歴史は繰り返す
喉が不自然に渇きを覚え、手先から痺れが広がり感覚が薄れていく。
耳に届く音も遠ざかり世界から切り離されていくような感じがした。
吹き抜ける風が乾いた土を舞い上げる。
空を見上げていた視線を戻せば、目の前には小さな微笑を浮かべた青年。
流れ落ちる赤。
失われていくぬくもり。
そして私の頬に添えられた彼の手がゆっくりと地面へ落ちる。
叫びは声にならず、何の音を発することもできなかった。
無知は罪。
守られることに慣れすぎて、悪意に気づけなかった私の罪。
――ねぇ、忘れるなんて許されると思っている?――
そう、彼の声が聞こえた気がした。
「エフィー! エフィーってば!」
激しく体を揺さぶられ、忘れていた感覚を思い出す。
やっと働きだした私の目には、心配そうにリーゼが私を覗き込む姿が映っていた。
「ごめん、ちょっとぼーっとしてた」
「ぼーっとって……そうは見えませんでしたわ」
「寝不足かな?」
「まったくもう。ほら、早く座りましょう」
「うん」
リーゼに促されて席につく。
座る直前彼が小さく微笑んだ気がしたが、私と同じように彼も座ったので他の生徒の陰に隠れてその姿は見えなくなってしまった。
その姿を視界に捉えたのは一瞬。けれど見間違えることなどありえない。
彼は今でも脳裏に焼きついている、二百年前に魔王と呼ばれていたその人の容姿と瓜二つだった。
わっと上がった歓声に考えを中断し、視線を戻す。
ジークが右手を空に掲げると無数の小さな火球が空へと飛び立ち、そして弾けた。
弾けた火球はきらきらと光を放ち、太陽の光の中に消えてく。もし今が夜であったら空に光の花が咲いたように鮮やかで、また違った美しさなのだろうと容易に想像がつく。
このジークの魔法を合図に、上級生たちの模範演技が始まった。
緩やかに音楽が流れ、それに合わせて色々な魔法が会場を彩る。
突如空中にいくつかの水球が現れそこに風が吹き込み水を霧状に吹き飛ばす。
水を含んだ風は会場の上空を円を描くように旋回し、霧状の水は太陽の光を反射してきらきらと輝く。
風と水が落ち着くとそこには小さな虹が現れ、どこからか飛んできた花びらが舞う。
目の前で繰り広げられる通常ではありえない幻想的な世界に新入生たちがため息を漏らすその中で。
自分の知っている魔法があったことに少々嬉しくなって、ついメガネをずらしてその景色を覗いてみたのだが……
――やめておけばよかった。
気になったのは花びらを出現させた魔法。自分の時とは違う花びらにどんな精霊なのか気になったのだ。
しかしメガネの隙間から覗いたその世界は。
上級生たちの精霊魔法に力を貸している精霊以外にも、質のよい魔力に惹かれ集まってきた精霊たち。
この広い会場に様々な精霊がうじゃうじゃと――恐ろしいほどの数の精霊が所狭しと蠢いていた。しかも精霊はその属性によって色々な色を持っているのでさらに見ていてキツイ。
飴玉に群がる蟻を想像してもらえばわかってもらえるだろうか。この会場が飴玉で精霊が蟻。
その光景はまるで飴玉に群がるカラービーンズのようにカラフルな蟻。
「あー……気持ち悪ー……」
「ちょっとエフィー!?」
……精霊に酔った。
胃がむかむかとして吐き気がする。
手で口を押さえてみたが、意識が朦朧としてぐらりと体が傾いた。リーゼが私の体を支えようとしてくれているようだが支えきれずにゆっくりと地面が近づいてくる。
まずい、とは思っても意識もはっきりとせず、体は言うことを聞かない。
ぐいと腕を引かれ、一転した視界に映ったのは明るい茶色と漆黒、そしてそれ以外を埋め尽くす鮮やかな色彩。どうやら今の衝撃でメガネを落としてしまったらしい。
「――っ! ジーク殿下!」
色彩の奔流に押し流されながら、どこか遠くでリーゼの叫ぶような声を聞いた。
ゆっくりと目を開くと、そこには見覚えのある天井が広がっていた。
「気がついたみたいだね。君は式典で魔力酔いを起こしたんだけど……覚えてる?」
「魔力酔い? ――あぁ、はい」
体を起こし、前回マリウスが座っていた椅子に座っているその人を見る。
……その声からもなんとなくそうじゃないかとは思っていたけれど。
「気分はどう?」
「もう大丈夫です。ありがとうございます、殿下」
「あれ、僕のこと知ってるんだね」
「リーゼに教えてもらいましたから」
「リーゼ……アンネかぁ。うん、それじゃあ僕はまだ仕事があるから失礼するね」
「はい、ありがとうございました」
去っていく後姿を見送りながら、あっさりとしたその態度からやっぱり似ているだけの別人なのだと実感する。
もし仮に彼がジークムントで私と同じように転生したのだとしても、今の彼に前世の記憶はなくジークベルトという別人でしかない。そしてそれはリーゼとマリウスにも同じことが言える。
似ているけれど別人、それが目の前の現実。
それは少し寂しくもあり、ありがたくもある。
溜息をついてベッドから降りようとすると、すっかり聞きなれた声に止められた。
「まだ完全に酔いが治まっていないのでしょう?」
「……クルト先生」
「見えるのはわかってましたけど……まさか酔うほど見えているとは思いませんでした。
メガネは酔い防止だったんですね。はい、メガネ」
メガネを受け取り、先生の肩にちょこんと座っている精霊を見る。
緑のその精霊は風の精霊。その姿からかなり力の強い精霊であるとわかる。
「そういえば……先生の周りは精霊が少ないですよね」
「それはこの子がいるからでしょうね」
私の言葉に先生は肩に乗せたままの精霊の頭を撫でる。精霊は嬉しそうに目を細めていた。
「この子はこう見えて上位精霊ですから。むやみに下位精霊は近づけないんですよ」
「……その子ください」
「ダメです」
手っ取り早く虫除けならぬ精霊除けを手に入れたかったのだが、案の定断られてしまった。もちろん譲ってくれるなんて思ってはおらず、一応聞いてみただけだ。
「この子は僕の守護精霊ですからね。エフェメラ君も自分の精霊を探してください」
「……善処します」
「ふむ、ちょっと面白いことを思いつきました。
そうそう、今日はもう寮に戻って休んでもらって構いません。後ほど寮代表から連絡がいくと思いますから」
「……はい」
「それじゃ、お客さんが来てるみたいですから僕はこれで」
スキップしそうなほどご機嫌な様子で去っていくクルト先生を見送り、ばたんと扉が閉められたことを見届けて再び溜息をつく。
「調子はどう?」
「え?」
突然聞こえたその声に振り返ると、先ほど式典で見かけたあの青年が立っていた。
先ほどまではだれもいなかったはずで、唯一ここにいたクルト先生を見送ったばかり。扉が閉まるのも見届けて、誰かが入ってきたのを見落としたということはない。
それよりも、何故彼がここにいるのだろうか。
戸惑う私のすぐ隣に座り、彼はこちらを覗き込む。
「突然倒れたから心配した」
「ご心配おかけしました」
「大したことがなさそうでよかった、フィー」
小さく微笑んで、その手を私の頬に添えて名前を呼ぶ。
その姿が、ぴったりと記憶の中の彼と重なった。