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気が付くと、俺は今までいた病室とは全く違う場所に立っていた。
「…ここ、どこだよ…」
何だか視界全部がぐにゃぐにゃしている。
薄暗いそこに、黒猫はちょこんと座っていた。
「おい、何なんだよここ!どうやって俺を連れてきたんだ!?」
「落ち着いて下さいな。何よりまず、お身体の方は問題ありませんか?」
「え?」
言われて初めて、俺は自分の身体にあったはずの傷が全部消えていることに気付いた。
ああ、右目を除いて、だけど。
「…治ってる。」
「少し、細工をさせて頂きましたから。違和感など、ありませんか?」
「な、無いけど…こ、こんなこと出来るんなら目だって治せるんじゃないのか?」
俺の問いに、猫はゆっくり頭を横に振った。
「目だけは無理なのでございます。いくら私でも、無いものを作ることは致しかねます。」
「無いもの、って…」
さっきコイツは俺の目が【目狩り屋】に奪われたと言った。
じゃあ俺の目は本当に無くなってしまったと言うんだろうか?
俺は何が何だかさっぱり分からなくなって、頭を抱え込んでしゃがんでしまった。
「おや、如何なされました。まだ痛む箇所がおありで?」
「うーん…精神的に頭が痛ぇ…」
「それはそれは…まあ無理もございません、このような突拍子もない話を信じろと言うんですからねぇ。」
ですが、と猫は小さく付け足した。
「ですが、ここに来たからにはもう後戻りなど出来ますまい。貴方様の目を奪った者からそれを取り返し、五体満足でご家族の元へ帰ろうではありませんか!」
そう言われたことで、俺の脳内に家族の顔が思い浮かぶ。
母さんの泣き顔、
父さんの困り顔、
茜の、痛々しい笑顔。
「…取り返せるってんなら、取り返しに行くか。お前、案内してくれるんだな?」
立ち上がって決心した俺を見上げて、猫は満足そうに目を細めた。
「ええ、勿論ですとも。命の恩人へのご恩返し、私精一杯させて頂きます。」
こうして、猫と俺はこの訳の分からない世界へと足を踏み出した。
道しるべも無く、ただただ歪んだ世界。
そこを、猫は何のためらいもなく歩いていく。
「…そういえば、まだ貴方様のお名前を拝聴しておりませんでした。」
ピタリと足を止め、猫は振り返る。
「あ、ああ…そういやそうか。…葵。葵って言うんだ。」
「葵、様…ふむ、良い名でございますね。」
「様はやめろよ、何かこそばい。呼び捨てには出来ないのか?」
正直堅苦しい喋り方をされるのもあまり嬉しくはなかったが、どうやらこの猫は堅苦しい言葉を話すのが当たり前のようだ。
俺の言葉に首を捻って小さく唸る猫に、俺は溜め息をついた。
「…まあ、無理はしなくて良いけど。」
「では葵様とお呼び致します。」
間髪入れず答える猫を、俺はじろりと睨む。
「…申し訳ありません、どうにも慣れないもので。」
「…良いけど、さ。ところで、お前の名前は?」
「私ですか?私、野良なもので特には名前らしい名前もございません。」
サラリとそう言われて、俺は少しだけ面食らう。
すっかり忘れていたが、この猫の風貌は確かに野良猫の姿だった。
喋り方はやけに上品なくせに、薄汚れた毛並みに痩せた体。
今更ながら違和感を感じながら、俺は困ってしまった。
「えー…じゃあ、何て呼べば良い?」
「お好きなように。」
「お好きなって…んな事言われてもなぁ、お前誰かに呼ばれたことないのか?」
「誰かに、でございますか?ええと、まあこの世界では…」
「おぉい、死猫じゃないかぁ!!」
「ああ、そうでした。私、よく死猫と呼ばれております。」
遠くから酷く不吉な名前で呼ばれた猫は、今やっと思い出したようにそう答えた。
目の前の猫が「死猫」なんて不吉な名前で呼ばれている事にも俺は驚いたが、
それ以上に目の前に今新たに現れた変な生き物に驚いている。
「やぁやぁ、久々だなぁ!どうしたんだい、こんな所に来てさぁ!」
猫…えっと、死猫と呼ぶのは抵抗があるのでしばらくは猫と呼ぼう。
猫の傍らで嬉しそうに飛び跳ねているのは兎だった。
とは言え俺が昔こどもどうぶつえんで見た兎とはかなり違った風貌ではある。
頭にはバンダナのような布を巻いて(耳はきちんと布にある切れ目から飛び出している)、
体には、俗にいう甚平のような服を身にまとっている。
これで中身が人間なら、何かの職人のような雰囲気だが…兎だから職兎だろうか。
とにかくその変な兎は猫と旧知の仲だったらしく、親しげに言葉を交わしている。
「そんで?どうしたんだい、此処に来たってことは何か用事があるんだろう?それに何だい、そこのお兄さんはさ。」
お兄さん、というのは俺のことだろう。
兎は俺を見上げて人懐っこそうに笑ってみせた。
「大した男前だけどねぇ、普通の人じゃあないか!死猫のお眼鏡にかなうようなもんじゃないだろうさ。」
「別にどうこうしようと思って連れている訳ではございませんので。…路兎、【目狩り屋】への道は分かりますか?」
猫の問い掛けに、兎…どうやら路兎というらしい。
兎はピョコンと飛び上がった。
「分かりますか?分かりますかだって!?分からなかったら商売上がったりじゃないか!」
兎の言葉に猫は満足そうに頷いた。
「では教えて頂きましょう。報酬は如何致しましょうか?」
「そうさねぇ…そこのお兄さんの足跡を貰おうか。」
「ふむ、まあ良いでしょう。」
「おおおい、待て待て待て!勝手に話を進めるな!」
足跡を取ると言うことがどういうことかはさっぱりだが、勝手にやるやらないを決められてはたまらない。
俺の不安が通じたのか、兎はなだめるように俺の足をポンポン叩く。
「すまんすまん、そう怯えるんでないよ。足跡を貰うってぇのはお兄さんの足の型を取らせてもらうのさ。」
「あ、足の型?」
「路兎はその名の通り、道を司る兎なのでございます。彼は様々な物の足型を取ることでその足が今まで歩いた道を覚えるのですよ。」
「そういうことさねぇ。あたしがアンタの足型を取った所でアンタの体には何の影響も無いし、アンタが今まで歩いた道にも何の影響も無い。ただあたしがそれを覚えて、いつか誰かに道を示す助けにするだけさぁ。」
「は、はぁ…」
あまり理解は出来なかったが、まあ酷いことにはならなさそうだ。
曖昧に頷いた俺に、兎は嬉しそうに跳ねた。
「ありがとう、人間の世界の足跡を貰う機会なんてそうそう無いから嬉しいねぇ!」
「そ、そうなんすか…」
「さ、路兎。我々はあまり時間が無いのです、お早くお願い致しますよ。」
「あいよ…お兄さん、ちょっとくすぐったいが我慢しておくれよ。」
兎は俺の足元にしゃがみ込んで、そのふわふわした手で俺の足の甲に触れた。
一瞬ざわりと何かが足裏を撫で、兎が立ち上がる。
「はい、おしまい。ありがとねぇ、なかなか良い足だった。」
「へ…え、終わり?」
足裏に墨でも塗ってペタリと型取りするのかと思っていた俺は、余りに呆気ない終わり方に拍子抜けしてしまった。
「それじゃ、【目狩り屋】への道だったね?えーと…ほれ、これを持ってお行きよ。」
兎は甚平の袖から小さな鈴を取り出して、赤い紐で猫の首へと取り付けた。
「ありがとうございます。それでは我々、これにて失礼致します。」
「ああ、気を付けてお行き。お兄さんも頑張ってなぁ、目が戻ると良いねぇ。」
「あ、は、はい、それじゃ…」
あれ、俺…目を取り返しに行くって兎に言っただろうか。
「…【目狩り屋】に会いに行くものは、目を取り返しに行く以外の用事など持たないものです。」
俺の疑問に気付いたのか、猫は小さく呟いた。
いつの間にか兎の姿は消え、歪んだ世界を再び歩き出した。