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「危ない!」


俺はそう叫んで、車の前に飛び出した。


小さな温もりを両腕の中に感じた次の刹那、視界の全てが横に流れる。


酷い冷たさが体の右半分に走り、俺の意識は消えた。




その猫は、首輪もしていない野良だった。


やせ細り、薄汚れた野良猫。


学校への行き帰り、よく途中の路地でウロウロしているのを見かけていた。


俺は別に動物好きな訳でも博愛主義でもなかったから大した興味は持っていなかったんだけど。




ほんと、何で助けようと思ったりなんかしたんだろうな。






俺が目を覚ましたのは、あの衝撃を感じた瞬間から丸一日くらい経った時だった。


最初に目に飛び込んできたのは、ちょっとくすんだ白い天井とグシャグシャな顔で泣いてる母さん。


「あ、あぁ…あおい、葵…起きたのね、良かった…!」


母さんはそれだけ言葉を絞り出すと、またワァワァ泣き出してしまった。


俺はぼんやりとした意識の中、自分に起きた事を思い出そうと思考を凝らしていた。


(確か、学校帰りにいつもの道を歩いてて。そうだ、珍しくあの猫が大通りを歩いてたから何となく目で追いかけてたら…)


そこまで考えて、俺は全てを思い出した。


「…あぁ、俺車にひかれたんか。」


「…何のんきに言ってんの!もう…どれだけ母さんが心配したか…!」


俺の呟きに母さんが声を荒げる。


事故ったんだと認識した瞬間、体のあちこちが酷く痛んだ。


「あて、いてて…」


「あ、動いたらダメよ!い、今お医者さん呼んでくるからね、待ってなさい!」


母さんがバタバタと病室を出て行く。


(ナースコールの存在を知らんのか、あの人は。)


まだどうにもハッキリしない頭は、ただただ鈍い痛みを認識してばかりいる。


(あー、マジで痛ぇわ…)


身を捩ることも難しい中、俺はふと視界に感じる違和感に気付いた。


「…何か、右目やけに暗いな。」


皮膚に何かが当たる感触から、顔の右半分に包帯か何かが巻かれているのは解っていた。


だが、それにしても右目に感じる光が全く無いのはおかしい。


窓から入る光がベッドの周りを囲む白いカーテンを透かして入って来ていることから、今は昼間なんだろう。


現に左目はハッキリと明るさを感じているし、包帯やガーゼでこんなにも光は遮断されるものだろうか?


俺の中で嫌な予感がジワジワと広がって行った。


(…まさか、な。)


「いや良かった、思ったより早く意識が戻りましたね。」


母さんが伴って来たのは、眼鏡を掛けた初老の医者だった。


傍に控えた看護婦(ちょっと美人だ)が、俺の容態をチェックするための色々な器具を何やらゴチャゴチャやっている。


「キミは自動車にひかれて意識不明の重体だったんだけどね、覚えているかい?」


「あ、はい…多分。学校帰りで…」


俺の答えは合格点だったらしい、医者は微笑んで頷いた。


「記憶は確かなようだね。それじゃ、どうしてひかれたのかは覚えているかな?」


医者の後ろで母さんが泣きはらした目をタオルで冷やしているのが見えた。


「猫、助けようと思って。ひかれそうになってたから。」


「…猫?」


医者が訝しげな顔をしている。


「…猫、あいつ、助かったんですか?なぁ、母さん。猫、知らない?」


母さんがキョトンとして首を横に振った。


誰も猫のことは知らないみたいだ。


「っつーことは…猫は、無事だったんかな?」


無事じゃなければ、事故って倒れた俺の腕の中からいなくなったりしないだろうし。


「多分、無事で逃げ出したんじゃないかな。救急車を呼んだ人…ああ、車の運転手だけどね。その人も猫の話はしていなかったから。」


「そっか、なら良かった。」


「良くないわよこのバカ息子!猫ってあんた…こっちは何か悩んで思い詰めて自殺でもしようとしたのかと…!!」


母さんがまた泣き出した。


まあ確かに端から見れば俺がいきなり車の前に飛び出したんだから、自殺未遂と思われても仕方がないっちゃ仕方がない。


「ごめんごめん…あいつ、黒猫だから見えにくいんだ。運転手さんも気付かなかったんかな。」


「もう…もう良いわ、ちょっとお父さんと茜に連絡してくる。」


そう言うと、母さんは医者にぺこりと頭を下げて病室を出て行った。


茜ってのは俺の姉貴だ。


俺以上にぼんやりしてる、どこか抜けてるバカだけど、まあ仲は悪い方じゃない。


(あいつも泣き虫だから、多分母さん以上に泣いてたんだろうなぁ。悪いことしちまった。)


父さんは俺とよく似て(いや俺が父さんに似てるのか)楽天家だから、何の根拠もなく大丈夫だとか思ってただろう。薄情な奴だ。


医者としばらく話をして、ふと俺はさっき疑問に思ったことを聞いてみた。


「あの、センセ。何か右目が違和感感じるんすけど、その…酷い、ですかね。」


俺の問いに、医者は少し黙ってしまった。


それだけで、俺は少しだけ諦めがついたような気がした。


「衝突の際にフロントガラスが割れてね、右目に破片が刺さってしまっていた。視力はゼロ、治る見込みは無いよ。」


その言葉に俺は、小さく頷いた。


「それじゃあ、今日はもう休むと良い。何かあったらナースコールを押すようにね。」


そう言って病室を後にしようとする医者に、俺はもう一度問い掛けた。


「あの、車運転してた人は?怪我とかしてないんすか?」


「…ああ、フロントガラスが割れたとき少しあちこち切りはしていたようだが、重傷は負っていないよ。」


「そっか、良かった。その人に『いきなり飛び出してすみません』って伝えられますか?」


「伝えておこう。それじゃあ、お大事に。」


医者も看護婦も病室から居なくなって、俺は白い部屋に独りきりになった。


母さんはまだ電話をしているのか、戻ってくる気配はない。


「失明、かぁ。」


口にしたその言葉は、驚くほど俺の中の何かを深く抉った。


「…あれ?」


目の奥が熱くなる。じわりと涙が滲んで、左目だけがそれを溢れさせた。


「あ、ちょ…いてててて!!染みる!!」


右目から少しだけ滲んだ塩水が、まだ塞がらない傷跡に染みる。


痛い。


拭いたくても体を動かせない。


センセ、ナースコールを押せない体なの忘れてやがったな。


俺は痛みに小さな悲鳴を上げながら、それでも泣き止むことが出来なかった。

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