102.side-B
−102.七月一日(side-B)−
毎朝の事ながら朝練は疲れる。その上、今日は遅刻しそうだったんで学校まで走ってきた。疲労はもうピークに達している。これは一限目寝るのは確定かもれない。
……いや、待て。一限目に寝るのはまずかった。確か魔術系統の授業が入ってたはずだ。
魔術の授業は他の授業と違って一回授業を抜かすと全て終わりになる。独学でついていけるような内容でもないし、そもそも《教科書》といわれるものが存在しない。本来、机上の論理である魔術だが、素人がやれば大惨事になりかねない。よって政府が参考書、その他諸々の魔術関連書籍の発行を禁止しているし、国際条約でも同様。
授業中にノートは取るが、授業終了時に即時回収され、厳重管理される。学校外ではおろか、決められた場所意外では魔術に関する会話・勉学ましてや使用などは厳禁。それほどに秘密主義な学問なのだ。
というわけで、一限目は眠さと世界一不可解な論理のダブルパンチ。もう死にそうな訳だが……。
まぁ、兎にも角にも授業に遅刻にしたら話にならん。いっちょ気を引き締めていきますか。
靴箱内の上履きに手をかけて履き替える。そこで、深く抉るような三つ目のパンチがやってきた。でも、今回のは前の二つのと違ってかなり物理的ではあるが。学校の内側、つまり中央階段側からものすごい勢いで肉薄してくる同じ学校、同じ学科の制服の人間。いや、人間とは思えないスピード。俺が見た最後の光景は、そいつの胸についた校章だった……。って、こんなところで意識落としてたまるか!まったくこれじゃあ、安っぽいゲームのゲームオーバーみたいじゃないかっ!
「――っ!!」
頭を打ったんで無言でのた打ち回る。本当は公然と痛いと叫びたい気分だったが、下手に声を上げて大事になったらそれこそ洒落にならない。授業に遅れるどころか、欠課なんてことになったら一巻の終わりだ。それだけは避けるべき。刹那的にこんな事を考えるなんて、自分はなんて保身にこだわっているのかと改めて認識させられた。
数秒後、痛みから復帰した俺はおもむろに体を起こした。鈍痛は残っているが、それもすぐに収まるだろう。
頭をおさえながら立ち上がり、制服についた埃を払って皺を伸ばす。ついでに乱れた髪も手で梳き、これで元通りだ。
「さて」
軽く掛け声を出し、そこら辺に落ちている鞄を拾って中央階段へと歩いていく。今日もいつも通り、良い朝だ。
「ちょっ、待って待って待って!あまりのナチュラルな無視の所為でそのまま見送りそうだったわ!」
「…………」
今日もいつも通り、良い朝だ。本当にいつも通りの良い朝だ。三点リーダかける四がとってもよく似合う清々しさ。
「もう、ごめんごめんごめん!謝るから無視だけは勘弁してぇ……。泣きたくなちゃうからぁ……」
「おはよう、綴木」
今にも本当に泣き出しそうな綴木の声を聞いて仕方無しに立ち止まり、振り返る。
綴木 妃奈――俺の少ないクラスメイトの内の一人。髪はショートで若干赤みのはいった黒、瞳も同色。小顔で全体的に小柄、プロポーションも引き締まっていて、それなりに可愛い奴だ。
何でそんなのが朝っぱらからタックルしてくるのかといえば、それには深い、アリューシャン海溝ぐらい深い訳がある。……水面下7500mだっけ?そんな事はどうでも良い。
アレは去年の四月ごろだっただろうか。日々を平々凡々に、それなりに特異ではあったが一般常識の枠の中で厄介な事をのらりくらりかわしながら生活していたある日、俺の靴箱にとある手紙が入っていた。細かい事は省くが、内容を要約するとそれはラブレターという奴だったわけ。自慢ではないが、いや、自慢か。入学して間もないこの時期、高校内で既に俺はこの手の手紙をもらうのは初めてではなかった。だからそれなりに落ち着いて手紙に対応し、断った。その頃ちょうど両親と共に引っ越すべきかどうかで、なんやらどたばたしており、そんな余裕が無いのが理由。その手紙の送り主が綴木 妃奈。綴木には引っ越すかどうかなんて重たい理由は明かさず、やんわり断った。綴木に対してそれなりに好意を持っていたし、おそらく家庭の問題さえなければ付き合っていたはずだ。だから余計傷つけないようにと、針の立たぬよう細心の注意を払って。
それが問題だった。綴木は俺が理由を明かさないのを不思議に思い、徹底的に俺の身辺を調べたらしい。なんとも行動力のある奴だ。一歩間違えば陰湿な犯罪者だぞ。それで家の問題が露呈し、それならばと諦めたのかと思いきや、余計やる気になったというか、火がついた。付き合ってくれないならばと俺の周りで『恋人らしい行動』を取り、既成事実にし始めたのだ。
そして現在に至り、先刻のように何かと絡んでくる。自分で言うのもなんだが、よほど俺にご執心らしい。
それは男としてはうれしいが、睦月 幸紀としては困っている。
以上、回想終了。さて、閑話休題。
綴木はいつもこの時間帯なら教室で俺の机を占領しているころのはずだが、よりにもよって今日は玄関で出くわしてしまった。厄日。本当に今日は厄日だ。この疲れているときに厄介なのに遭遇したもんだ。
綴木は右手を高々と上げ、たははと快活に笑いながらようやく挨拶を始めた。
「いや、おはよう幸紀くん!ホント、こんな朝から奇遇だね!今日は最高の一日になりそうだよっ!」
こっちは誰かさんの所為で最悪の一日になりそうだ。そんなことを口にすれば、余計面倒になるから、俺は無言で受け流す。そんな俺にはお構いなし、軽快に笑いながら綴木は畳み掛けるように言葉を連ねる。
「ねぇ、『妃奈』って呼んでって毎日言ってるじゃん。私も恥ずかしいながら公衆の面前で『幸紀くん』って呼んでるのに不公平じゃない、それって?と言うわけで、参、弐、壱、ハイどうぞ!」
わざわざ大字表記で数を数えてやがる。まったく持って律儀というか、変な奴だ。そして朝からなんてハイテンションな奴だろうか。掛け声と共に右手をマイクを持っているかのように俺に突き出されたところで、俺は答えようが無い。
俺はただでさえ近い距離に立っている綴木の元まで接近し、しっかりと目線をあわせ、淡い笑みを浮かべながら、
「妃奈」
と囁いた。
拾。玖。捌。漆。陸。伍。肆。参。弐。壱。零。
数字を大字表記で思い出して、数えられるぐらいの時間が経った。少なくとも約三十秒くらいだろうか。とにかく長い時間が過ぎたってこと。
徐々に反応を始めた綴木。症状その一、石化したかの如く動かなくなる。症状その二、下から血液が急上昇したのが目に見えて分かるほど真っ赤になる。本当にトマトみたく。頭から湯気が出んばかりの紅さだ。もはや病的。
それから、足すこと10秒。しがらみの糸が切れたかのように突然、綴木は動き出した。
「や、やだなぁー!いきなりで心の準備してなかったじゃない!はっずかしいなぁー、もう!」
顔は紅潮したまま、しきりに体中をぶんぶん振って、俺をぺちぺち叩く。手加減無く叩かれると正直痛いんだけど。
こんな風に表現される綴木の俺に対する純然とした好意は正直に嬉しく思う。でも、俺は答えてやるわけにはいけない。少なくとも両親がこっちに帰ってくるまでは。
「さぁ、そろそろいかねぇえと、マジで遅刻するぞ」
「あ、うん。それじゃあ、腕でも組んでいこうか?」
ちょっと隙を見せるとすぐこれだ。餌は不用意に与えてはいけないという事を再確認する結果となってしまった。
「あ、そだ」
唐突に制服スカートについたポケットに手を突っ込む。これ以上時間を食えば、本当に遅刻してしまう。いや、時間がなくなったのは俺が綴木の話に乗った所為なんだけど。適当にあしらって早い所教室に連れて行こう。
「はい、これ」
ポッケトから出し、差し出されたのは一通の可愛らしい便箋。それを手に握らされ、綴木に早く読めと急かされた。一体何だと言うのか。時間が無いので乱暴に封をあけ、便箋から内容が大体想像できるような内容を斜め読みしていく。
そこに書かれていたのは背中がむずがゆくなるような愛の言葉の数々。好きです、愛していますは標準装備。口に出すのが憚られるような過激な言葉が無数に書いてある。
「うぅ…………」
本当に唸るしかないような手紙。どうした事か。何事か。これはいわゆるラブレター?かなりと特殊ではあるが間違いなさそうだ。
「おい、綴木。流石にこれは引くぞ。しかも書き主の目の前で読ませるなんて私刑に等しい」
こんなもん俺宛に書くの綴木ぐらいしか今のところ思い至らないぞ。見ているだけで顔が熱くなるような手紙を書くのは。
だが、綴木はきょとんとした顔で眼前で手を振った。
「私のことは妃奈って呼んでって言ってるでしょ。それ、私じゃないよ。いやだなー、今更ラブレターなんて間接的なことしないよ。あ、それとも欲しかった?そうゆうの欲しかった?何だ、言ってくれれば百通でも千通でも書いてあげるし、毎日靴箱とロッカーに一通ずつ入れてあげたのに」
百通も千通もラブレターもらっても仕方ないし、毎日靴箱とロッカーにそんなもの入れられるのは正直迷惑だ。とりあえず、その問題についてはまた後日話し合う、もしくはそのうち風化するとして、今問題なのはこの手紙の送り主だ。手紙の内容はさっき言ったとおり紙面いっぱいの愛の言葉。そう紙面いっぱいの。つまり、『それ以外のことがまったく書かれていない』訳だ。宛名はもちろん、特に呼び出しやらなんやらは書いてない。このラブレターで伝わるのは誰かが俺の事を好きってだけなんだが……。
「内容拝見っと」
「あ」
気づいた時にはもう遅かった。俺の手中から手紙は消えうせ、綴木の眼前であった。ヤバいヤバいヤバい。非常にヤバい。由々しき事態だ。
ここで小話を一つ、以前にこんな事があった。今日と同じような五月某日。その時は靴箱に手紙があり、それはラブレターだった。偶然にも綴木に見つかってしまい、内容を見る前までは大丈夫だったんだが、読み進んでいくうちに表情は険しくなり、読み終わったころにはマジギレ。差出人を病院送りにしかけたのを俺が身体を張って止めたあの忌まわしい記憶。もう一度あの悲劇を繰り返すのか!?綴木なら筆跡鑑定でもして、相手を割り出しかねない。
「うわ、すごい内容だね。流石にこんなの私でも書かないよ。それにしてもあんな大人しそうな子がねぇ……」
「ひぃ!!」
ため息をついた綴木に乙女のように高い声で悲鳴をあげてしまった。てっきり怒るかと思ったんだが。いやいやいや、待て待て待て。何かとてつもない勢いで引っかかってるぞ。
「すまない綴木、さっきなんつった?」
「だから私のことは妃奈って呼んでって言ってるでしょ。あぁ、私がヤキモチ焼かなかったのを不思議がってんのね。うーん、私も成長してるってことだよ。あと正妻の余裕って奴?」
どさくさに紛れてとんでもない事を言われてしまった。それも後々追求することにしておこう。
項垂れたくなるのを抑え、あっけらかんと笑っている綴木に俺は質問しなおした。というか質問を訂正した。それはもう簡単に。
「その後」
「はてさて、なんだったかしら……」
「今は誰もそんなお約束ボケは期待してねぇ!!」
うーん、と真剣に唸り始めてしまった綴木。ボケじゃなかったのか。顎に手を置いたかと思えば、米神に手を当てたり、右上をむいて遠い目になったかと思えば、しゃがんで苦しげに目を閉じる。なんか可愛い仕草ではあったが、今はお呼びじゃない。
なかなか答えにたどり着きそうに無かったので、こっちから切り出した。
「お前、これの送り主知ってんのか?」
「当たり前じゃない、何で私がこれを持ってたと思ってるのよ」
いや、それはずっと靴箱を漁っていたからじゃないか、とは口が裂けても言わない。また話を拗らせるのは御免被りたい。
「送り主さんは一年生の光矢 那智香さんよ。かなりおっとり系だけど抜けているわけではない、性格はどちらかといえば甘える方。ちなみに学部は魔術」
簡単に綴木が説明してくれた。俺は後輩にとことん疎い。知ってるのはサッカー部の後輩ぐらいのもんで、先輩も同様。魔術学部に先輩はいないが。その点、綴木はそういう人物関係の情報をどこからか大量入手してくるので、こういう時は重宝されている。
今年の魔術学部の生徒は確か七人。俺らよりも三人ほど少ない。だが、質はそれなりに良い奴が半分、もう半分は最上級という。どうやら水準的当たり年らしかった。
「何にせよ放課後にでも会いに行こうかな。部活前なら大丈夫だろう」
一人でぼやいた。
綴木にはもう聞き慣れた高めの電子音の所為で聞こえなかったらしい。予鈴だ。
「やばい、遅刻するぞ、綴木!」
「じゃ、行こ!」
俺の手を無理矢理とって、引っ張っていく綴木。本当に俺は良い奴と知り合えた。だからこそ、綴木の告白に肯いてはならない。一度断ってしまったのにそんな事、少なくとも俺は出来ない。なによりこの幸せな時間を崩したくなかったのかも。結局保身だ。俺は何も言わないまま、綴木と手を繋いだまま走っていった。もちろん、速さは綴木にあわせて。