203.side-B
-203.×月×日(side-B)-
僕、睦月幸紀は酷く、浮遊感のある心地につつまれていた。
足を伸ばしても、縮めても、何処にも当たらない。不安定で不安な感覚の中にいる。
足を動かしているかどうか分からないほどに。
もしかしたら、本当は足を動かしていないかもしれない。
手も試してみる。足と同じだった。
瞼も、目も、鼻も、口も、首も、肩も、肘も、指も、胸も、腰も、膝も、踝も、爪先も――全身余すとこなく、足と同じだった。
動くのが当たり前のようで、動かないのが当たり前。
「お兄ちゃん」
と、僕の後ろから聞こえた、拙く幼けな呼び声で浮遊感がパッと消える。
どうやら僕は椅子に座ったまま、寝てしまっていたらしい。
僕は机の付属品である、安っぽい回転椅子で向きを180度変える。椅子が軋んで、ギィ、と低く鳴った。
最近かってもらったばかりの真っ赤で大きなお気に入りのリボンをつけた、八歳くらいの小さな女の子――睦月飛鳥がそこに立っていた。
身を小さくして、とても不安そうだった。
「お兄ちゃん……」
もう一度、呼び声。
さっきよりもずっと拙く、ずっと幼けで、ずっと小さな声だった。守りたくなるような、それでいて苛めたくなるような、弱々しくて可愛い声でもある。
飛鳥の兄である僕は、少し迷って、前者をとることにした。
「ん?どうした?」
飛鳥の肩が、ピクン、と小さく跳ねた。同時に、不安でこわばっていた顔がゆるむ。
飛鳥が不安だったのは、僕がなかなか返事をしなかったせいらしい。どうやら、僕が気付く前にも、何度か声をかけていたらしい。
僕はしまった、という風に、顔を歪めた。飛鳥はそれに機敏に反応し、再度不安な顔になる。
「お兄、ちゃん……?」
「いや、なんでもないよ。それよりどうしたんだ、飛鳥」
これ以上、飛鳥に心配をかけまいと、僕は質問をかさねた。
「うん、あのね、えっとね」
飛鳥の顔から不安が消え、代わりに年相応か、それ以下の幼さが顔からにじみ出る。
「飛鳥ね、お兄ちゃんと外で遊びたい」
「えっと……」
僕は窓から外を眺める。大粒の雨が、窓を軽く叩いていた。
「雨が降ってるだろ?」
「お兄ちゃん、前、雨が降っててもお外で遊んでたもん」
確かに、先日雨が降ったとき、僕は外に出て、キャッチボールをしていた。だがそれは、東雲在逢に無理矢理付き合わされてのことだった。
僕が望んでやったわけではない。
でも、そんな理屈が飛鳥に通じるとは、到底思えなかった。
「今外で遊ぶと、リボンが汚れるぞ?」
「取るから良いもん」
「お父さんとお母さんがお家の中で、良い子で留守番してろって言っただろ?」
「お庭なら、お家の中だもん」
「雨で濡れると、風引くぞ?」
「夏休みだからだいじょぶだもん」
「看病が大変だろ?」
「お兄ちゃんがしてくれるからいいもん」
「雨だとすべって転ぶぞ?」
「我慢、するもん……」
屁理屈のような僕の断り文句を、飛鳥はことごとく屁理屈で返した。僕の言葉を返すに連れて、飛鳥はどんどん頭を下げていく。
そして、飛鳥は不満は爆発した。
「あーそーぶーのー!」
小さな体からどうやって出したのかが不思議なほど、飛鳥は大きな声を出した。
手を大きく振り、僕では手がつけられない状態だ。
「なぁ、飛鳥。お家の中じゃ駄目なのか?庭とかじゃなくて、リビングとか」
「おーにーいーちゃーんーとーおーそーとーでーあーそーぶーのー!!」
飛鳥はさらに大きな声を出した。
あんまり使いたくないが、奥の手を出すことにしよう。
「飛鳥、やっぱりお外で遊ぶのはダメだ」
「なんでなんでなんでなんでなんでー!?お兄ちゃんはいいのに、なんで飛鳥は駄目なの!?」
「それは飛鳥は女の子で、僕が男だからだ」
飛鳥は、そう言うと、少し怯んだ。手を振るのをやめ、うつ向き、ワンピースの裾をギュッと握っている。
こう言えば、飛鳥はいつも諦める。可哀想ではあるが、飛鳥に風邪を引かせる訳にはいかない。それは、兄として当然のことだ。
このままだと可哀想だし、明日晴れたら、目一杯一緒に遊んでやろう。これも、兄としての役目だ。
「だったら……」
「ん?」
だが、今日はいつもと違った。
諦めきれない、という風に顔をあげ、言い放つ。
「だったら、男の子になるもん……」
「さすがにそれは……」
「男の子になるもん!」
飛鳥は上目使いで、目に涙を一杯に溜め、頬を膨らませて、うー、と唸っている。
飛鳥が男女差、に対して言い返してきたのは、初めてのときと、このときだけだ。
「なるもん!」
ドタドタドタ。
バタン。
必要以上に大きな音をならして、飛鳥は俺の部屋から出ていった。遠くから、階段をかけ降りる音が聞こえる。どうやら一階に降りたらしい。
きっと、一階で頬を膨らませ、いじけているに違いない。
これは後で取り繕うのが大変そうだ。
とりあえず、少し経ってから、飛鳥の様子を見に行ってみよう。
* * *
が、そんな必要は一切なかった。
5分もしないうちに、飛鳥は二階に上がってきた。その足で、そのまま、僕の部屋に入ってくる。
その時、僕は飛鳥の姿を見て、唖然とした。
どこかで見たような、真っ黒のTシャツ。
どこかで見たような、クリーム色のズボン。
どこかで見たような、赤と白の野球帽。
どれもこれも、僕の服だった。靴下も例外ではない。
髪に結ばれていたはずのリボンはとられ、代わりに、髪は全て野球帽の中に。
どこからどう見ても、男の子だった。少しぐらい可愛さが残っていたが、気にならない程度。
「男の子に……なったよ?お兄ちゃん……遊んでくれるよね?」
僕は思わず、ため息をついた。
これほどまでに飛鳥が外で遊びたがっていたなんて、全く知らなかった。
呆れたような僕を見て、飛鳥は再び不安な顔をする。
「遊んで、くれないの……?」
「……ったよ」
「え?」
「分かったよ。少しだけだからな、飛鳥」
返答はなかった。が、飛鳥はかすかに震えていた。
何か不味いことをいったのか、僕?
今度は僕が不安になったが、そんな不安、一瞬にして吹き飛ばされた。
「いやっっった―――――!」
今日一番の大声を、飛鳥はあげた。
小躍りまで始めている。
そうやって一頻り飛鳥は喜んだ後、飛鳥は部屋を飛び出す。
僕は、玄関にタオルを準備しておこう、などと考えながらその後を追う。
そこで、僕は嫌な予感にかられた。不安なんかでは表現できないような、感情が僕に押し寄せてくる。
「飛鳥!」
僕は咄嗟に妹の名前を叫ぶ。
が、その行動は裏目に出た。
ちょうど、飛鳥がいたのは、階段の手前だった。飛鳥はそんなことに気付かず、僕の声に反応して振り向く。
、飛鳥の体は徐々に後ろに傾いていき、
僕は腕を力一杯飛ばすが、その手は何も掴むことなく空をかき、
そして――
その先には何もなかった。