202.side-S
−202.七月七日(side-S)−
「兄さん!」
私は病院の階段を無我夢中で駆け上がる。
学校で授業を受けていると、突然、先生から呼び出しを受けた。そこで、兄さんが事故に遭ったと聞き、そして、いつの間にか病院に来ていた。
道のりは……どうだったか憶えていない。どうやって来たのかも。分からないことだらけだったけど、そんなこと気にならなかった。
ナースステーションで兄さんの病室の場所を聞く。
それだけの理性は、まだ残っていた。
四階の一番奥の部屋。それだけ聞いて、私は走った。看護士さんの制止は聞こえない。
ただ、兄さんの下へ走る。
「兄さん!」
ドアを蹴り破らんばかりの勢いで、病室へ入った。
六床あるベッドは三つだけうまっている。左の一番奥と、右の一番奥と真中。
その右の一番奥のベッドに、兄さんは横たわっていた。
痛々しく首に巻かれた固定具と、腕に巻かれた包帯に滲んだ血。それを見て……私の中で何かがはじけた。
自分でも驚くようなスピードで兄さんへと駆け寄り、跪いてベッドにしがみつく。
「兄さん!兄さん!兄さん!」
涙が止め処なく溢れているのも気にせず、兄さんの体を揺さぶる。ベッドのスプリングがギシギシきしみ、兄さんの体が揺れた。
それでも、兄さんは目を覚まさない。兄さんの目を覚まさせるために、私は更に兄さんを揺すった。
「兄さん!兄さん!兄さん!」
「何やってるの!?」
私の様子を心配してか、後を追ってきた看護士さんが、私を見て声をあげた。
そんなことは気にせず、私は兄さんを揺さぶりつづける。
看護士さんは私を後ろから羽交い絞めにして、引き離す。私の力が思ったより強かったのか、看護士さんはよろめいた。
「ちょ、落ち着いて!落ち着きなさい!」
「離して!離して!」
更に力をこめて、看護士さんを振り払おうとする。それで、看護士さんは本当に危ないと思ったのか、病室にいる別の患者に声をかけた。
「あなた、ナースコールして!」
「え?あ、はい!」
私の強行を見てか、度肝を抜かれていた兄さんの隣のベッドの女性が、返事をした。
数十秒後、若い男性の医者らしき人と、二、三人の看護士さんに取り押さえらる私。
それでも私は、兄さんのために暴れつづけた。
* * *
鎮静剤を打たれた私は、病院の待合室に座っていた。
本当は今すぐにでも、兄さんの下へ行きたいけど、お医者さんに止められていた。多分、兄さんと私を会わせると、先ほどの二の舞になると考えたのだろう。私自身も、そう思う。
さっき、東雲さんに電話したので、じきにやって来てくれるはず。面会は、それからだそうだ。
一刻でも早く東雲さんが来ないかと、時計を見る。
もう、五時だった。
いつもならもう帰っているなり、白音ちゃんや麟ちゃんと遊んでいる頃。
「あれ?あなたは……」
突然、背後から声を掛けられた。
振り向くと、そこに立っていたのはさっきの病室で、ナースコールをした人だ。
「さっきは……ごめんなさい。私、動転してて……」
私はとっさに謝った。そこで、自分の声が叫びすぎで枯れている事に気づく。
「はは、別に謝らなくて良いよ。お兄さんがあんな風になっちゃったら……仕方ないよ」
入院服を着たその女の人は、少し影のある笑顔をした。
無理矢理明るく振る舞っている、そんな印象。
「でも、驚かせちゃったし、病気の人に無理させちゃって……」
「いや、私は病気じゃないよ。ちょっとした、怪我。入院は一応してるだけで、明日少し検査したら退院できるらしいし」
彼女は力なく、はは、と笑い声を付け加えた。
言葉は明るいのに、どこにも覇気が見えない。
「……あれ?でも、どうして私が兄さんの妹って……?」
「自分で『兄さん』って言ってたじゃん」
「あ、そうでした……」
「相当動転してるね」
沈んでる私を、慰めようとしているのか、その女性は快活に言う。しかしながら、どうやっても語尾に影が残ってしまうようだ。
「ま、私はあなたのこと、結構前から知ってたけど」
「え?」
「遅ればせながら、自己紹介。私は綴木妃奈って言って、幸紀くんのクラスメイト、だよ」
変な自己紹介だった。
この人も、人のことが言えないくらい、動転しているのかもしれない。
「兄が、いつもお世話になってます」
「折り目正しいね。流石、幸紀くんの妹さんだよ。……どっちかっていうと、お世話になってるのは、私の方なんだけど。えっと……飛鳥ちゃん、でいいんだっけ?」
「はい。兄から聞いたんですか?」
「ん、まぁ……そう、かな……?」
歯切れ悪く、綴木さんは答える。
兄さんから、私の名前まで聞いているなら、かなり仲のよい間柄なのかもしれない。
複雑な、気分だった。
兄さんのクラスメイトと話すだけで、こんなにも複雑な気分に、なるのかな……?
兄さんのクラスメイトは少ないから、女友達がいても不思議じゃない。それ以前に、例え綴木さんが――綴木さんが兄さんの彼女だとしても、『兄として』兄さんが好きな私が何か口出しするのも可笑しいし、そもそも、私にそんな資格は……無い。
それよりも。私は無理矢理、頭を切り替える。
兄さんのクラスメイトである綴木さんが、一緒に入院しているということは、綴木さんも事故に巻き込まれたんだろう。
詳細を軽々しく聞いても良いか迷い、迷いに迷ったあげく、私は兄さんの家族だと自分に言い訳をして、綴木さんに聞くことにした。
「一体……兄さんに、何があったんですか?」
消え入るような小さい声な所為で、聞こえなかったのかもしれない、と一瞬思ったけど、そんなことはなかった。
綴木さんの反応は、露骨におかしかった。
「う、あ、え、あ」
呼吸が漏れるかのような声と共に、後ずさる綴木さん。
動揺、と言うよりはむしろ、恐怖の表情。
事故を思い出しての恐怖――じゃない。
私を見て、恐怖している。
綴木さんは、私を恐怖している。
さっきまで、慰めようと明るく声をかけてくれていたのに。
「……ごめんなさい」
そう、呟いた。
聞き逃しそうな小さな声で。
確かに、綴木さんは謝罪した。
「幸紀くんがああなったのは、私の……私の所為なの……。……ごめんなさい」
もう一度、謝罪。
小さな声で、誰にでもなく謝罪する。
まるで、懺悔。
私は、綴木さんの謝罪を、聞き流せなかった。