105.side-S
−105.七月一日(side-S)−
私は麟ちゃん、白音ちゃんと商店街前で別れ、家へと徒歩で向かっていた。商店街から家までは約三十分。ちょっと遠いけど、バスを乗るのはお金がもったいないし、ここから一番近いバス停に行って家から最寄のバス停で下車して帰宅するまでは大体十五分くらい。十五分くらいなら、兄さんも帰ってきてないから、大差ないよね。
スタスタスタ。スニーカーでアスファルトの上を歩む。真夏まじかの初夏。心地よいとはいえないけど、熱すぎるわけでもない温い大気が肌に張り付いてくる。そのくせ、時々吹く涼しい風は春の陽気に続くらいの心地よさ。私としては秋が一番好きだけど。
商店街の活気を離れ、だんだんと周りが閑静な住宅街に変貌してきた。私の家はどちらかといえば住宅地奥にあるから、もうちょっとかかる。
「ふぅ……」
もう大分歩いたはずだ。ちょっと疲れてため息が漏れる。鞄も重いな……。
こういうとき兄さんがいてくれたら、すぐに察して持ってくれるんだけどな。いや、あんまり甘えちゃいけないよね。でも、兄さんが優しくしてくれたときのことを考えると、自然と笑みがこぼれてきた。
あ、あんまり路上で一人で笑ってると変態みたい。頭を切り替えよう。
帰ったらまずは、お弁当箱を水につけて、部屋に戻ってから勉強を始めよう。今日は計画だと数学。苦手だからしっかりしないと。兄さんが帰ってくるまでは多分二時間半ぐらいはあるはず。それまでに分からないところを纏めておいて、兄さんが暇なようだったら聞こう。でもきっと疲れてるからなるべく、聞かないように頑張ろう。そうすれば成績も伸びて一石二鳥。あ、そういえば洗濯物を入れるって言うのを忘れてた、危ない危ない。疲れて帰ってきた兄さんにさらに洗濯物を取り込むなんてさせられない。兄さんは私は受験なんだから、自分がやるって言うけど甘えてられない。ご飯の準備とか、お弁当とかも出来たらいいんだけど……やっぱり料理は苦手。最近勉強も思うように伸びてないし、憂鬱だな。
「はぁ……」
さっきとは違う重いため息。それと同時に家の前に着いた。
兄さんに落ち込んだ顔を見せるわけにもいかないし、もう一回切り替えよう。さ、笑顔笑顔!
兄さんはまだ帰っていないので、私は鞄から鍵を出し、慣れない手つきで錠を開ける。ほんのちょっと前まで鍵なんかもっていなかった私に、いきなりそんな習慣が押し付けられて、少しだけ寂しさを感じる。さらに家に家に帰ってきたとき、おかえりなさいと誰も言ってくれないのはもっと寂しいけど。
モダンな合金製の扉に手をかけて、力なく開く。
「ただいまー」
返事は無いけど、極力明るく声を出した。もしもの時、声で悟られてしまわないように。
不思議な事に玄関に履物が二対。一対は兄さんのローファー。この前磨いてまだまだピカピカのまま。土ぼこりが付いていないところを見ると、グランドにはよらず、すぐ家に帰ってきたらしい。今日はたまたま休みだったのかな?ちょっと嬉しい。この分ならいっぱい勉強を見てもらえそうだ。嬉しさがこみ上げてきて、テンションは五割り増しだよ!
問題はもう一足。女性モノの茶色い革の編み上げブーツ。とっても足が細い人のようで、小柄な私の足の太さと大差が無い。その割には妙に長い。こんなスタイリッシュなブーツを綺麗に履きこなせたら、とても格好いいんだろうな。そんな風に思わせるような装備品を身に着けた人が何故うちにいるんだろ?まさか、兄さんの友達?それとも……いや、友達だよね。うん、きっとそう。友達に違いない。違和感は残るけど。
いや、友達じゃない。友達なんかよりも、もっと適合しそうな人を思い出した。
まさか、まさかまさか。そんなはずは無い。友達じゃなくても言い。もっと親しい人でもいい。『あの人』が……?
ひたすら、理由も無く走りながら、真相を確かめようと走りながら、認めたくないって頭が勝手に否定してる。ほとんど直感で正解だと分かってるはずなのに。
リビングに入ると、すぐ近くに兄さんがいた。
私より兄さんの近くに、あの人が、東雲 在逢さんが悠然と絶対的な雰囲気を漂わせながら立っていた。にたにたした気味の悪い笑顔と共に。
「遅かったな。チューガクセーも大変だな」
三年ぶりの声。記憶に鮮明に残ってる、鮮やかな深紅のような美声。私は正直、逃げ出したい。
でも、逃げるわけにもいかず、兄さんまで歩み寄り、ほんのちょっとだけ動けばお互いに何をしているか分かるような距離まで近づく。兄さんを心でも体でも感じられる、私の精神安定領域。
「あっはっは、変わってねーなっ。未だに幸紀にベットリかよ。ん、ベッタリか、こういうときは。どっちでも同じだけどさっ。安心しろって、テメェーの兄貴をとろうなんざ、思っちゃねーから」
そう笑って兄さんをバシバシ叩く。何の作為も感じられないような笑顔と共に。
兄さんは兄さんで困ったような、それでいて懐かしいような、曖昧な顔で東雲さんの行為を甘んじて受けていた。
胸がシクシク痛む。針で刺したような嫉妬とかじゃなくて、古傷に塩を塗りこむような、そんな、痛み。
「おかえり、飛鳥」
東雲さんの暴力から解放され、近くに私がいる所為で体が動かせないのか、首だけを向けて私に言葉を放つ。その首をすぐに東雲さんに向けて、言葉を紡いだ。
「で、アリアさん。どうして今更になって帰ってきたんです?てっきり外国に永住すると思ってたんですけど」
「今更って手厳しい言い方すんなよ、私だって一ヶ月で帰ってくるつもりだったし。ま、船だったから往復だけで大分時間食いそうだから、二ヶ月か三ヶ月に延ばす予定だったけどさ」
東雲さんは三年前と変わらず、自分本位に話していた。そんな東雲さんを見て、兄さんは苦笑する。私は見たこと無い、楽しそうな苦笑。
「んで、何で帰ってこなかったかつーと、出逢い!出逢いだよ、出逢い!恋に落ちる零秒前、いや恋には落ちてねーな。とりあえず、ちっとばかし運命的な出逢いをしちゃってね。んで、三年たっちった、てへ」
恋におちる〜秒前とか、てへ、とか非常に年季を感じるね。それと、出逢いだけじゃ三年は経たないよ、東雲さん。
そんなことを心の中で突っ込みながら、私はより兄さんに歩み寄った。
正直なところ、私は東雲さんが嫌い。苦手じゃなくて、嫌い。綺麗な顔だって、すらりと長い四肢だって、明るい性格だって好きになる要素。でも、嫌い。近くに居たくない。近くにいて欲しくない。
「んじゃ、今日は挨拶だけだから。バァイ」
東雲さんは言いたいことを言い尽くしたのか、兄さんから離れ、私の脇を抜けて部屋から出て行く。通り過ぎた時、聞こえるか聞こえないか分かるか小さな声で、ごめんなと呟いて。
結局、東雲さんは何をしに帰ってきたんだろ?必要な事は何も語らず、東雲さんは私たちの前から姿を消した。
しばらくの間、私はもちろん、間近に立っている兄さんも呆然と立ち尽くしていた。