彷徨う熱【第1部:呼び声の在り処】プロローグ 「席に残った熱」
カフェあおいの窓際の席。
誰もいない。
でも——確かに「いた」。
カノジョはそこに座っていた。
形はある。質量もある。指先の震えも、胸の鼓動も、確かに自分のものだった。
「カレシ……」
彼女は隣の席に向かって、そっと声をかけた。
返事はない。
でも——かすかに、冷たい「気配」がそこにあった。
メガネの奥の知的な瞳。漆黒の髪。冷徹で、でもどこか優しい青年の気配。
「私たち、卒業したんだね」
カノジョは微笑んだ。
「観測者じゃなくなって、ただの『誰か』になった」
気配は答えなかった。
でも——その冷たい気配が、ほんの少しだけ温かくなったような気がした。
二人は、ただそこに座っていた。
もう、どこへも行かない。
もう、何も探さない。ただ——そこにいる。
それが、彼らの「卒業」だった。
どれだけの時間が経っただろう。
カフェのドアが、かすかに軋んだ。
誰かが入ってきたような気配がした。でも——誰もいない。
カノジョは、自分の指先を見た。
まだ、震えている。——その震えは、もう「探すための震え」ではなかった。ただ、静かに「そこにある」ための震えだった。
「……カレシ」
彼女はもう一度、隣の席に声をかけた。
「私たち、これからどうするの?」
気配は、静かに答えた。
「……わからない」
その言葉は、いつもの冷たい声ではなかった。少し掠れて、少し優しかった。
カノジョは笑った。
「わからないでいいんだね。それが、私たちの『卒業』なんだから」
窓の外の曇り空。遠くの煙突。変わらない景色。
でも——その景色の中に、かすかな「熱」が混ざり始めていた。
誰もいない席に、確かに「いた」二人の気配が、世界のどこかに静かに溶け込んでいく。
それが、彼らの新しい「始まり」だった。




