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【観測者の時空】創作エッセイ―その違和感は、未来のバグです― 「あなたの思考は、すでに先回りされている」  作者: Taku
B面:不完全な日常の受容

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22/24

第1話 朝編:満員電車のなかで——無駄の受け入れ

観測日時:平日朝7時台(カノジョにとっての「初めての通勤ラッシュ」)

観測対象:都市部主要路線の車内、およびその「非効率な」生態

観測者:カノジョ(まだ「純粋な観測者」だった頃)


データではこうだった


カノジョは、最適化された未来世界の案内人である。


彼女の頭の中には、この「通勤電車」という現象についての完璧なデータが詰まっている。

混雑率200%。

体感温度+5度。

遅延確率12%。

平均乗車時間22分。

重力加速度の変動幅は標準値の1.5倍。


すべて事前にインプット済み。A地点からB地点への、効率的な「移動」という現象。カノジョはそれを完璧に理解していた。理解しすぎていた。


――だからこそ、気づいたとき、彼女は戸惑った。


車両のドアの前に立っていた。いつ、どのようにここに来たのか、自分でもわからない。ただ、いつの間にか、そこにいた。


ドアが閉まる。電車が動き出す。


瞬間、彼女の身体は「データ」から完全に外れた。


データが外れた


誰かの肘が、脇腹に深くめり込んだ。データでは「軽度の接触圧力」。数値上は問題のない範囲だった。しかし実際の衝撃は、鈍く、重く、熱を伴っていた。まるで内臓が少しだけずれたような、嫌な「ズシン」という感覚。息が一瞬、詰まる。


振り向くと、スーツの男がスマホを眺めている。目も合わせない。謝罪の言葉もない。


(……データでは、この状況での謝罪確率は83%だった)


83%が外れた。しかも、たった一つの「外れ」では終わらなかった。


後ろから強い圧力が来た。データ上では「進行方向への推進力」。でも実際は、恐怖だった。重心が一瞬、後ろに逃げる。前に倒れるかもしれないという、生々しい予感。手すりに必死にしがみつく。冷たい金属の感触が、手のひらに「痛み」として残った。データにはなかった「痛みの質」――刺すような、熱を帯びた、粘つく痛み。


さらに、匂いが彼女を襲ってきた。加齢臭、整髪料の甘ったるい残香、複数の汗、湿った傘の鉄錆の匂い。それらが混ざり合い、塊となって鼻腔に押し寄せる。データ上の「空気清浄度」は基準値内。なのに、この現実は明らかに「汚い」。


カノジョは初めて「吐き気」に近いものを感じた。


(……これが、日常?)


周囲を見回す。誰もが下を向いている。スマホの画面、眠っている顔、虚空を睨む目。物理的にはここにいるのに、意識はどこか別の場所にある。誰も「ここ」にいない。


これが「通勤」というものか。


データでは単なる「移動」だった。しかしここには、圧迫感、諦め、疲労、無関心、諦念が、濃密に詰まっていた。それらはデータ上「ノイズ」として分類され、排除されるべきものだった。なのに、排除されていなかった。重く、熱く、生きて、彼女の身体にまとわりついていた。


誰も最適化しない理由


電車が大きく揺れた。体がよろける。手すりから指が離れかける。一瞬、地面に叩きつけられる想像が脳裏をよぎった。データには「転倒リスク」という数値しかなかった。でも今、彼女の胸を貫いたのは、生々しい恐怖だった。


誰かが彼女の足を踏んだ。


「っ……」


小さな声が漏れた。踏んだ男はイヤホンをしたまま、微動だにしない。


その瞬間、カノジョの中で何かが、静かに音を立てた。――怒り。なぜ謝らないのか。なぜ振り向かないのか。データ上の「感情推定モデル」では、この状況での平均反応は「無視」だった。なのに、彼女は確かに怒っていた。熱いものが、胸の奥から込み上げてくる。


(……これも、外れた)


自分が、データから外れている。その事実に、戸惑いよりも先に、奇妙な感覚が訪れた。


――羨望。


走って電車に飛び込むサラリーマンの背中が、なぜか美しく見えた。ため息をつく誰かの、わずかに震える肩が、なぜか愛おしく思えた。


非効率で、無駄で、理不尽で、汚くて、痛くて――それでも、彼らはここに「生きて」いた。


カノジョはふと気づいた。


誰もこの状況を最適化しようとしない。混雑を緩和し、謝罪率を上げ、空気を浄化し、圧迫感を減らす方法はいくつもある。なのに、誰もそれを選ばない。


――ただ「面倒くさい」から?


その仮説が、彼女の頭に浮かんだ。でも、もし「面倒くさい」が、ただの怠慢ではなく、この不安定な均衡を保つためのルールだとしたら? 謝らないことで関係を発生させず、見ないことで衝突を回避し、無視することで全体を成立させているとしたら?


その「面倒くさい」が、どんな機能を持っているのか。まだわからない。でも、それを知りたいと思った。


最初の「非最適行動」


駅に着いた。ドアが開く。人が雪崩のように流れ出す。彼女もその波に飲まれた。


ホームに出た瞬間、冷たい外気が肺に入ってきた。圧迫から解放されたその感覚が、予想以上に気持ちよかった。


「これが……日常」


彼女は独り言のように呟いた。


次の電車が来た。ドアが開く。人が乗っていく。


データ的には、乗るべきだった。次の観測地点もある。スケジュールは最適化されている。


でも――カノジョは、乗らなかった。


理由はない。ただ、乗る気がしなかったから。それが、彼女にとって初めての「非最適行動」だった。


ホームの端で、一人の少女がこちらを見ていた。光莉。目が合ったような気がした。でも、次の瞬間、光莉は視線をそらした。


気のせいか。


……もし、気のせいじゃなかったとしたら。


カノジョは、その可能性に、胸の奥が小さく熱くなるのを感じた。


誰かに気づかれること。それが、こんなに胸を締め付けるものだとは、知らなかった。



【カノジョの観測所感】


データから外れた。それは怖くて、嬉しかった。


肘の重み、踏まれた痛み、混ざり合う臭い、押し寄せる圧迫感——データにはなかった「質」が、私の身体に刻まれた。


そして「面倒くさい」という仮説が浮かんだ。誰もこの状況を最適化しない理由。それが何なのか、知りたいと思った。非効率で汚くて無駄だらけのそれらを、なぜ人間は毎日受け入れているのか。


これが私の最初の「ずれ」。


※『観測者の時空』番外編でのカノジョの裏の顔を覗いてあげてください。作品一覧よりご覧頂けます。


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