降り積もる過去の重荷(2)
※本章はシリアスな描写を含みます。
苦手な方はご注意ください。
そうは言ったものの、彼女はこの街のことを全く知らない。
宿を一歩出た瞬間、夜の冷気とともに不安が押し寄せた。
(……さて、どうしましょう。もう夜も更けていますし、彼女を連れて野宿だけは避けたいのだけれど)
俯いたままのリオナラに視線をやる。
(いいえ……彼女のためにも、私自身のためにも、中途半端な覚悟で終わらせるわけにはいかないわ)
プリシラは繋いでいた手を離し、少女の前に跪いた。
リオナラの碧眼には、深い悲しみが沈殿している。
「リオ、大丈夫?」
少女は静かに、消え入りそうな声で頷いた。
「……慣れてるから」
「そんなこと言わないで。誰にも邪魔されずに眠れる場所を、必ず見つけるわ」
「……本当?」
「ええ。私は騎士よ、忘れたの? 全力を尽くしてあなたを守ってみせるわ」
プリシラが微笑むと、少女の瞳にわずかな光が灯った。
「……信じるよ、騎士のお姉さん」
「ふふ……心強いわね。そういえば、まだ名前を教えていなかったわ」
彼女は軽く首を振ると、改めて名乗った。
「私はプリシラよ」
「プリシラ……。プリスって呼んでもいい?」
「ええ、いいわよ」
フード越しに少女の髪をくしゃくしゃと撫で、プリシラは立ち上がった。
「お互いのことも少しわかったところで、探しに行きましょうか」
「うん!」
二人は晩の街を歩き回ったが、結果は芳しくなかった。
この規模の街に、宿屋は二軒しかなかったのだ。
一つは先ほど拒絶された中央広場の宿。
もう一つはスラムの深部にあり、お世辞にも子供を連れて行くような場所ではない。
「これは……非常にまずいわね……」
騎士は苦渋に満ちた独り言を漏らした。
「プリス……足が痛いよ」
ふと足元に目を向けたプリシラは、戦慄した。
リオナラはずっと、裸足のまま石畳を歩いていたのだ。
「ああ、女神様……靴も履かせずにこんなに歩かせて……ごめんなさい、リオ」
「ううん、大丈夫――」
「いいえ、もう喋らなくていいわ」
プリシラはひょいと彼女を左腕で抱き上げた。
「私の肩で休んでいなさい。場所が見つかるまで、私があなたの足になりますわ」
「でも、あたしの服、汚いよ……」
「構いませんわ。この制服は、すでに何度も修羅場をくぐり抜けているもの」
リオナラはおずおずと、プリシラの肩に頭を預けた。
冷え込む夜の街。
騎士の肩越しに伝わる微かな体温が、少女の緊張を解いていく。
彼女が眠りに落ちるまで、そう時間はかからなかった。
夜が更け、闇が空を飲み込んでいく。
大通りの隅々からスラムの周辺まで歩き尽くしたが、二人を受け入れてくれる場所は本当になかった。
「このままでは……」
彼女は奥歯を噛み締めた。
今夜は屋根のない場所で過ごすしかないのか――。
絶望が首筋を撫でた、その時だった。
「ん? おや、嬢ちゃんじゃねえか」
聞き覚えのある、しわがれた声。
路地の影から、上半身裸の褐色の男――ゲラルトが歩み寄ってきた。
「ゲラルトさん?」
「ああ。そいつは何だ? 冒険者の次は母親か? 忙しい嬢ちゃんだな」
「茶化さないで。放っておけなくて面倒を見ているだけですわ」
「面倒? ああ、あの尼さんが世話してた孤児じゃねえか」
事情を話すと、ゲラルトは鼻を鳴らした。
「貴族様ってのは大変だな。……なら、俺の隠れ家に来るか? 嬢ちゃんとガキが休むくらいならなんとかなるぜ」
「本当ですか!? ありがとうございます、ゲラルトさん」
地獄に仏とはこのことだ。
だが、ゲラルトは釘を刺すように付け加えた。
「ただ一つ言っとくぞ。他に二人の同居人と相部屋になるが、それでも構わねえか?」
「全く問題ありませんわ。屋根があるだけで十分です」
角を何度か曲がり、住宅街の端にある大きな納屋に辿り着いた。
板材の隙間を藁と泥を混ぜた「アドベ」で埋めて補強された、武骨な建物だ。
中に入ると、ゲラルトは部屋の隅をあさりながら言った。
「あいつら二人は今夜は戻らねえな。その部屋は独り占めしていいぞ。……湯も沸かしてある。あいつらが遅くなる時の合図だ、勝手に使いな」
「……彼らは、長くここに住んでいるのですか?」
「三、四週間ってところか。家賃の代わりに、ギルドを通さねえ素材をダンジョンから持ってこさせてる。……さて、俺様はもう寝る。自分の家だと思ってくつろぎな」
ゲラルトがランプを置いて去った後、プリシラは寝室となる部屋へ足を踏み入れた。
そこには干し草が積まれ、粗末な毛布が投げ出されている。
(路上の石畳よりは、数倍マシですわね……)
彼女はリオナラを優しく起こし、泥で作られた素朴な浴槽へと連れて行った。
お湯に浸かる習慣があるらしいエルフの同居人に感謝しつつ、プリシラは上着を脱いだ。
白い魔法仕立ての旅装は、一日の酷使ですっかり汚れ、チェーンメールが干し草の上に置かれるたび、チャリチャリと金属音が響く。
「今日は……疲れましたわ。学院での訓練よりも、ずっと……」
安堵の溜息をつき、振り返った瞬間――。
プリシラは、言葉を失った。
少女の背中を見て、息を呑んだのだ。
リオナラの白い肌は、無数の、大小様々な**「傷跡」**に覆われていた。
近づくと、リオナラの碧眼が、諦めを含んだ色でこちらを見上げた。
まるで、騎士から投げかけられるであろう「憐憫」や「嫌悪」を、あらかじめ受け入れているかのように。
しかし、プリシラは、その凄惨な光景について何一つ口にしなかった。
震える拳を隠し、ただ穏やかな声を作った。
「さあ……手伝ってあげるわ」
リオナラは一言も発さなかった。
ただ、頷いたり首を振ったりして意思を伝える。
温かいお湯で汚れを落とし、プリシラの綿のシャツで体を拭いて、彼女のジャケットを羽織らせる。
あまりにもぶかぶかだったが、それは少女を優しく包み込む「盾」のようでもあった。
プリシラ自身は、布を濡らして体を拭うだけで済ませた。
アルカディアの内戦で、人間性の最悪な部分を見てきたつもりだった。
だが、この小さな背中に刻まれた地獄を受け止める準備など、できていようはずがなかった。
干し草のベッドに横たわっても、脳裏にはあの諦めきった眼差しが焼き付いて離れない。
一体、誰が。
なぜ、これほどの残酷な真似を。
(……いいえ、休まなければ。そうでなければ、明日、何もできなくなってしまう)
彼女は無理やり目を閉じた。
だが、その夜、彼女が安らかな眠りにつくことはついになかった。
※次回更新は2月20日 21:30予定です。




