降り積もる過去の重荷(1)
衛兵たちが孤児院に到着した頃には、陽光はすでに朱く染まり始めていた。
入り口に立つプリシラは、胸元で腕を組み、泰然と彼らを待っていた。
時間はたっぷりあった。
彼女は暴漢たちを無力化して拘束し、手持ちの道具で可能な限りの応急処置まで済ませていた。
もっとも、賊の一人の口に余った布を詰め込んだのは、彼の耳障りな罵詈雑言を黙らせるためだったが。
「プリシラさん……ですね?」
ケトルハットを被り、赤い厚手のガンベゾンを纏った衛兵が、ハルバードを手に戸惑いながら声をかけた。
「あなたが……お一人で、武装した男三人を取り押さえたのですか?」
「ええ。私も武装しておりましたし」
プリシラは一度だけ力強く頷き、腰のレイピアを示した。
「それに、ただの暴漢ですわ」
「しかし……自分を襲った相手に、これほどの情けをかけるとは……」
「そいつら三人を牢へぶち込んでおけ」
衛兵の背後から、乾いた足音が響いた。
現れたのは、全身を鎧で固めた男だった。
撫で付けられた黒髪から覗く顔には深い傷跡があり、腰には小剣ではなく大振りな曲刀を帯びている。
「後の聴取は私が引き受ける」
「はっ、隊長!」
兵士は背筋を伸ばして敬礼し、賊を連れてその場を離れた。
プリシラは姿勢を崩さず、近づいてくる男に鋭い視線を向けた。
「プリシラ・アヴェリオン。……相違ないな?」
男は真剣かつ、礼儀正しい口調で尋ねた。
「ええ、その通りですわ」
「今日、冒険者として登録したばかりの……」
プリシラの口内に、苦い味が広がった。
彼が名前や経歴まで把握しているということは、ここへ来る前に調べを済ませていた証拠だ。
「ええ。それが何か?」
問い詰められることを予期し、プリシラは語気を強めた。
だが、男の反応は意外なものだった。
彼はプリシラに向かって、深く頭を下げたのだ。
「――感謝する」
「……え、なんですって?」
予想外の反応に、プリシラは思わず腕を解き、一歩たじろいだ。
「衛兵隊長として、この街の治安を守るのが私の務めだ。だが、どれほど尽力しても人手が足りず、王はこれ以上の増員を拒んでいる」
彼は顔を上げた。
その瞳には本物の悲哀が宿っており、浮かべた笑みはどこか自嘲気味だった。
「だが、少なくともあなたがここにいて、あの二人を守ってくれた。それについては、心から礼を言いたい」
「……私は、誰もがするであろうことをしたまでです」
「誰もが、有能な貴族の王宮剣士であるわけではない。アヴェリオンさん」
プリシラは驚愕に目を見開いた。
「なぜ、それを――」
「マーカス殿がこの街に来た時、あなたのことをよく話していたよ」
「父様が……?」
男は微かに笑って頷いた。
「彼のおかげで、我々はこの街をこれほどの規模にできたのだから」
プリシラは視線を落とし、ゆっくりと拳を握りしめた。
亡き父の足跡が、こんな場所にも残っていた。
「……そうですか」
「あなたがこの場所に来て、冒険者にまでなった。……アルカディアで何かがあったのだな」
今度は、彼女が力強く頷く番だった。
「女王陛下より、密命を帯びております」
「承知した。他の衛兵には、あなたの邪魔をしないよう徹底しておこう」
「ありがとうございます、隊長――」
「リースだ」
親愛の情を示すように、彼はガントレットを嵌めた手を差し出した。
「会えて光栄だ、プリシラ」
「……このご恩は忘れませんわ、リース隊長」
彼女はその手をしっかりと握り返した。
「あまり目立ちすぎないようにな」
だが、その忠告が彼女の頭に残っていたのは、中央広場に戻るまでの短い間だけだった。
宿屋の前に立ち、ある現実に気づいた瞬間、プリシラの瞳から光が消えた。
(……お金が、一枚もないわ)
眉間のあたりを指で押さえ、彼女はがっくりと項垂れた。
疲れ果てた溜息をつきながら、路上で邪魔されずに眠れそうな場所を物色し始める。
(王宮剣士が野宿だなんて……人生最悪のどん底ですわ……)
周囲を絶望の目で見渡していると、コートの裾をぐい、と引かれる感触があった。
視線を落とすと、見覚えのある焦げ茶色のマントが夜風に揺れている。
汚れたフードの下から、鮮やかな碧眼がプリシラを見上げていた。
「あの……おねえさん? 騎士のおねえさん、なの?」
「騎士のおねえさん? 待って……あなたは――」
「リオナラだよ」
少女は弱々しく微笑み、紐のベルトをまさぐった。
「これ、あげる」
差し出されたのは、盗まれたはずのコインポーチだった。
「私のポーチ……」
プリシラは少女の小さな手からそれを受け取ると、その場に膝をついた。
「返してくれて、ありがとう」
「……ごめんなさい」
プリシラはぎこちなく手を上げると、少女の頭を撫でた。
少女は驚いたように身を強張らせたが、次の瞬間――お返しとばかりに、指先で額をピンと弾かれた。
「これは、ポーチを盗んだお仕置きよ」
「いたっ……」
罰を与えた後、プリシラは真剣な表情で彼女の目を見つめ、尋ねた。
「これから、どうするつもりなの?」
ジンジンする額をさすりながら、リオナラが答える。
「わかんない……シスターは体が良くなったらアルカディアに帰るって」
「……じゃあ、あなたは一人になるの?」
「たぶん……」
プリシラは深く息を吐いた。
こんな少女を一人、路頭に迷わせるわけにはいかない。
だが、王宮剣士としての任務をこなしながら子供を育てるのは、不可能に近いことだ。
(……この街で、子供が一人で生きていくのはあまりにも……)
彼女は自問自答し、小さく首を振った。
そして、己を鼓舞するように拳を固く握りしめる。
(私は何よりもまず王宮騎士だわ。助けを求める者を捨ておけば、レオナード閣下に失望されてしまう!)
独り言を呟くプリシラを、リオナラは不思議そうに見つめていた。
「おねえさん……?」
「コホン」
プリシラは服を整えて背筋を伸ばすと、少女と同じ目線になるよう再び屈み込んだ。
「私はあまり世話焼きな方ではないけれど……住む場所が見つかるまで、私と一緒にいなさい」
その言葉は、リオナラの瞳に光を、そして子供らしい喜びを呼び戻すのに十分だった。
彼女はプリシラの首にしがみつき、騎士を尻餅つかせんばかりの勢いで抱きついた。
「おっと……!」
「騎士のおねえさん、最高!」
「はいはい……」
プリシラはリオナラの背を数回優しく叩き、立ち上がった。
「まずは宿屋へ行きましょう。部屋を借りて……」
少女を観察していたプリシラの声が、ふと小さくなった。
孤児院の惨状に反して、リオナラ自身は驚くほど清潔だった。
しかし、服はボロボロで、手足は同年代の少女にしてはあまりに細すぎる。
「……何か、食べるものも必要ね」
その瞬間、少女の目が驚きに大きく見開かれた。
「えっ……あたしも、食べていいの?」
「え? な、なぜそんなことを聞くの? シスターは食べさせてくれなかったの?」
「ううん、食べさせてくれたよ。でも、大人はみんなシスターみたいじゃないでしょ?」
プリシラは頭をかき、どう答えるべきか迷った。
この若さで、食事をすること自体を疑問に思うほど、彼女はどんな過酷な人生を歩んできたというのか。
「他の大人のことは知らないけれど……私は、『子供はよく食べ、よく寝て大きくなるものだ』と教わってきたわ」
彼女は左手を差し出した。
「さあ、行きましょう」
躊躇うことなく、リオナラはその手を握り、温かく微笑んだ。
「うん!」
共に歩き出しながらも、プリシラの表情は次第に曇り始めた。
(あんな風に言ったけれど……冒険者をしながら、どうやって子供を守ればいいのかしら……?)
その不安は、宿屋に足を踏入れた瞬間に「現実」となって襲いかかった。
無数の視線が、石を投げつけるかのように彼女たちを刺す。
客も従業員も、プリシラたちをまるで「歩く異物」であるかのように見つめていた。
周囲からは、隠そうともしない不躾な囁き声が聞こえてくる。
それでも、彼女は自分が背負った小さな命のために、臆することなく木製のカウンターへと歩み寄った。
「部屋を借りたいのですけれど」
カウンターの中にいた禿頭の中年男は、客に対するものとは思えない、ぎこちない笑みを浮かべた。
「お聞きしますが……その子は、あんたの子供かい?」
プリシラは凍りついた。
脳がその質問の意図を理解することを拒んでいるかのようだった。
数秒後、彼女は瞬きをして聞き返した。
「……なんですって?」
「あんたの子かって聞いてるんだ」
男は声を潜めて繰り返した。
「それが何だというのです?」
「お嬢さん、失礼を承知で言わせてもらうがね、うちは金払いのいい常連客でいっぱいなんだ。もしその子が――誰の子供かは知らんが――騒ぎを起こせば……。こういうことで常連を失うわけにはいかんのですよ、二度と」
その言葉に、リオナラは唇を噛み、項垂れた。
小さな左手で汚れたフードを深く被り直し、プリシラの手をより強く握りしめる。
(――その場で、斬り捨ててやりたいわ)
それが、プリシラの脳裏をよぎった最初の思考だった。
子供に屋根を貸すこと、せめて温かい食事を与えることさえ拒むという傲慢さ。
食事の話をしたばかりのリオナラを、再び冷たい路上へ放り出せというのか。
彼女の血が、沸騰した。
王宮剣士として。いや、一人の大人として。
自分一人で生きていくこともできない子供に、最低限の環境を与えることは義務である。
自分自身が嘲笑われ、裁かれるのは構わない。
だが、リオナラを「不都合な存在」として扱うことだけは、断じて許容できなかった。
「は……はは……はははは!」
プリシラは突然、質の悪い冗談でも聞いたかのように笑い出した。
客たちは困惑して顔を見合わせる。
宿主は引きつった、神経質な笑みを浮かべた。
「は……はあ?」
直後、彼女は男の襟首を掴み、カウンター越しにその顔を至近距離まで引き寄せた。
ザラついた木の表面に叩きつける寸前で、その動きを止める。
「よくお聞きなさい」
彼女は低く、地を這うような声で囁いた。
「私は出て行きますわ。ですが、この街の外で私の前に現れるようなことがあれば……」
指先に、ミリミリと力がこもる。
「――後悔させてあげますわ」
彼女は男を突き放し、無理やり元の位置に立たせた。
プリシラは一度だけ深く溜息をつくと、リオナラの手を優しく握り直し、宿を後にした。
「行きましょう、リオ。他を探しましょう」
※次回更新は2月18日 21:30予定です。




