決断と選択、宿命と運命(3)
外へ出ると、中央通りはまだ穏やかな静寂に包まれていた。行き交う人々も、今の二人には特段注意を向ける様子はない。
ふと隣を歩くリオナラに目を向けると、プリシラはその変貌ぶりに改めて驚かされた。いつもは汚れたフードに隠されていた漆黒の髪が露わになり、伏せられがちだった碧の瞳には、希望の光が宿っている。それを見ただけで、プリシラの頬は自然と緩んだ。
視線に気づいた少女が、不思議そうに尋ねる。
「プリス? どうして笑ってるの?」
「え? ああ、いえ。ただ、嬉しくて」
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。心の霧が晴れた今、任務を遂行する前により良い休息場所を確保しなければならない。彼女は柔らかな眼差しをリオナラに向けた。
「さて、もう一軒の宿を確認しに行きましょうか。夕方の混雑が始まる前の方がいいでしょうし」
「ん、わかった」
二人は中央広場へと歩き出した。右側から聞こえるリオナラの静かな足音が、プリシラの心を安らげてくれる。
一方で、少女は騎士の姿を盗み見ていた。真っ直ぐな背筋、凛とした足取り、そして自信に満ちた眼差し。それらすべてが、彼女の胸の奥に温かな感覚を呼び起こす。
……と、その場所から、ぐぅ、と低く情けない音が鳴り響いた。
彼女は両手でお腹を押さえ、俯いた。
「あ……」
漏れた呟きに、プリシラが驚いた顔で振り返る。
「そうでしたわ……昨日から何も食べていないことを、すっかり失念していました……」
彼女は自責の念に駆られ、小さく舌打ちをした。
「もう昼をとうに過ぎていますものね。急いで宿へ向かいましょう。食事も出してくれるといいのだけれど」
「……ん」
二人は歩調を速め、中央広場を抜けてギルドの裏手にある通りへと向かった。新調したブーツのおかげで、リオナラも遅れることなくプリシラの隣を歩き続けることができた。
辿り着いた宿は一見すると簡素なもので、空き部屋があることを示す木製の看板が掲げられているだけだった。
プリシラは周囲の通りを見渡し、そこに住まう住人たちの層を素早く見定めた。
「ふむ……」
彼女の鋭い視線が一人、また一人と走査し、潜在的な脅威を弾き出す。
「……ここなら、それほど悪くはなさそうですわね」
リオナラが不思議そうに首を傾げた。
「何を探してたの?」
「危険な人物がいないかどうかですわ。どんな街にも、腐った林檎は紛れ込んでいるものですから」
「腐った林檎?」
「ええ。ご存じの通り、腐敗は伝染します。こうして開けた通りに一人でも危ない輩がうろついていれば、他にも同類がいると考えた方が賢明ですわ」
プリシラが宿の中へ入ると、リオナラもその背中に隠れるようにして後に続いた。
「……なるほど」
「もちろん、常に警戒を怠ってはいけません。ですが、一瞥するだけで防げるトラブルも……あります……わ……」
プリシラの言葉が次第に途切れた。
足を踏み入れた先は、見るからに物騒な男たちで埋め尽くされていたからだ。
武器を帯びている者はいないようだが、その体格と数からすれば、武装した人間を一人で圧倒することなど容易だろう。
十数人のうち五人の男が立ち上がり、プリシラの指が反射的にレイピアの鞘へと伸びた。男たちはプリシラを見定めながら、じりじりと入り口へと近づいてくる。リオナラは怯えたように騎士のジャケットの裾をぎゅっと握りしめた。
「……何か御用かしら?」
プリシラは冷徹に、襲撃者となりうる者たちを観察した。
間合いは腕一本分。他の連中が動く前に、まず二人を斬れる。
沈黙を破ったのは、五人の中で最も体格が良く、日焼けした肌の禿頭の男だった。
「見ねえ顔だな、嬢ちゃん」
低く響く声。
「……面倒を起こしに来たわけじゃねえよな?」
「特段そのつもりはありませんが、面倒の方から私を追いかけてくることはよくありますわ」
プリシラが親指でレイピアの鍔を押し出すと、カチリと乾いた金属音が響き、刀身が鞘からわずかに覗いた。
その瞬間、男たちの動きが止まり、空気が張り詰めた。
息詰まるような静寂。リオナラの震える手が、逃げ出したい衝動を抑えるようにプリシラのジャケットを強く掴んでいる。
刹那、禿頭の男の口角が吊り上がった。彼は背を反らし、豪快に笑い出した。
「ガハハハ! 冗談だよ。あんたがプリシラだろ? ゲラルトから聞いてるぜ」
彼女は疑わしげに片眉を上げた。
「ゲラルトさんから?」
「ああ。あいつ、自分の兄貴を訪ねることもねえ薄情者でな。だから俺が様子を見に――」
男の説明は、後頭部への強烈な一撃によって遮られた。
棍棒で殴られた巨漢が、プリシラの足元に崩れ落ちる。
ドサッという大きな音にリオナラが飛び上がり、プリシラの右手は完全にレイピアの柄を握りしめた。
「全く、どいつもこいつも」
男たちの背後から、高圧的な女性の声が響いた。
日焼けした肌に逞しい筋肉を宿した女性が、男たちを虫けらのように跳ね除けて現れた。
彼女の手には、幾多の頭を叩き伏せてきたであろう使い古された棍棒が握られている。
「あ、あわわ……カ、カーラ様……俺たちは別に……!」
「この出来損ないをさっさと運び出しな! さもないとお前らも同じ目に遭わせるよ!」
「は、はいっ! ただいま!」
四人の男たちは、気絶した友人を大急ぎで運び出していった。
女性――カーラは溜息をつくと、棍棒をカウンターに置き、プリシラへと視線を向けた。
「お見苦しいところを見せたね。……で、部屋かい? それとも食事?」
「……両方ですわ」
プリシラは強張っていた筋肉を緩め、柄から手を離した。
「お聞きしますが、あなたは?」
「ここの主さ」
カーラは品定めするようにプリシラを眺めた。
「その格好……ゲラルトが言ってた、子供連れの客ってのはあんたかい?」
リオナラが騎士の足元から恐る恐る顔を覗かせ、小さく左手を上げた。
「あの……こんにちは」
「ああ、なるほど。あんたがね」
カーラは少女を見て、ふっと微笑んだ。先ほど男を叩き伏せた人物とは思えないほど柔らかな笑顔だった。
「部屋はあるよ。二十銅貨だ」
「三食込みのお値段かしら?」
「もちろんだ。うちは慈善事業じゃないが、ギルド近くの強欲な奴らみたいに客を食い物にしたりはしないよ」
「それは頼もしいですわね」
カーラはカウンターの裏に入り、年季の入った宿帳を取り出した。
「で、名前は? 何日泊まるんだい?」
プリシラは咳払いをし、リオナラの肩を優しく押して自分の隣に立たせた。
「私はプリシラ。こちらはリオナラです。まずは……十日間、お願いできますか?」
「ほう?」
カーラが炭のペンを走らせる手を止め、顔を上げた。
「宿で毎日飯を食うなら、銀貨二枚だね」
騎士は頷き、財布から金貨一枚を取り出してカウンターに置いた。
「こちらで」
カーラは一瞬、奇妙なものを見るような目をしたが、すぐにカウンターの裏から釣り銭用の袋を取り出した。
「……釣りを用意するよ」
主が銀貨を数えている間、プリシラは改めてホールを見回した。
客のほとんどは農夫や家畜飼いのようで、衣服は泥に汚れている。
だが、集まっている連中は粗野でも、店内は驚くほど清潔だった。
誰かが頻繁に掃除していることが伺える。
「はいよ。釣りだ」
カーラは銀貨の詰まった袋と、銅製の鍵を差し出した。
「部屋は二階の一番手前さ。ゆっくりしな」
プリシラが鍵と袋に手を伸ばすと、カーラは身を乗り出して耳元で囁いた。
「夜は出歩かないことだ。特にお子さん連れならね。最近、物騒な連中がこの辺りをうろついてるんだよ」
騎士は短く頷き、感謝の意を込めて微笑んだ。
「……忠告、痛み入りますわ」
カーラの言葉に、リオナラがプリシラのジャケットを握る手に力を込める。その不安を察するように、プリシラの温かな手が少女の背中に添えられた。
「ああ、それと……昼食をお願いできますか? 恥ずかしながら、まだ何も口にしていないのです」
「ああ、もちろんだとも。そこに座りな、すぐに用意させるよ」
「行きましょう、リオ。食事ですわ」
少女は静かに頷き、それでもジャケットを離さないまま、プリシラに続いて席に着いた。
※次回更新は3月4日 21:30予定です。
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