第6話『香る手のひらに』
村に冷たい風が吹きつけるようになったある朝、晃志は薪を割りながら、ふとエミリアの指先を見た。
その白い手には細かなあかぎれが走り、寒さにかじかんで真っ赤になっていた。
「……こげん冷えると、手も心も割れてまうばい」
晃志はそうつぶやくと、自分の道具袋から、昔から愛用していた小瓶を取り出した。中には、かつて八女で馬の脂を丁寧に精製したものが残っていた。異世界に来る際、奇跡的に持ってきていたものだ。
「八女じゃ、馬油っちゅうて、こういう脂ば使いよった。火傷にも、あかぎれにも、よう効くとよ」
晃志は村の猟師に頼み、狩った獣の脂を分けてもらい、焚火の上でじっくりと不純物を取り除きながら、少しずつ透明な油に仕上げていく。その間、村の女たちが集まり、興味深げに見つめた。
「こん脂が……薬になるんですか?」
「ああ。けんど、ただの脂じゃおえん。気持ちをこめて、ゆっくり精製するけん、よう効くっちゃ」
完成した馬油に、山茶花の花びらを干して抽出した香油を混ぜ、ほのかな香りをまとわせた。
数日後、晃志は手のひび割れたエミリアにそっと小瓶を手渡した。
「これ、塗ってみんね。あったかくなるし、手もしっとりするばい」
エミリアが恐る恐る指先に塗り込むと、不思議なほどすっとなじみ、ひびの痛みが和らいでいった。
「……あたたかい。まるで、焚き火の中に手を入れたみたい……」
そう微笑むエミリアに、晃志は続けた。
「それからもうひとつ。八女じゃ、茶の葉も最後まで使うと。これは、茶殻と木灰で作った石鹸や。肌にもええし、香りもようしとる」
茶葉を煎じた後に残った茶殻と、灰を混ぜて固めた茶石鹸。晃志はそれを、竹の皮で包んで手渡した。
エミリアはそれを手に取り、目を細めた。
「丁寧に生きるって……こういうことなんですね」
その言葉を聞いた瞬間、晃志の胸の奥で、何かが静かに灯った。
やがてその石鹸と馬油は、村の女性たちの間で評判となり、村の集会所には自然と香ばしいお茶の香りが満ちていった。
「灯りだけやなか、香りも人の心ば灯すんやな……」
晃志はぽつりとそう言いながら、提灯に香を忍ばせる工夫を考え始めていた。
夕暮れ、エミリアは晃志の元を訪れ、そっと手のひらを差し出した。あのひび割れていた手は、今はすっかり柔らかく、薄い紅を帯びている。
「……生きてきて、こんな贈り物をもらったの、初めてです」
その声には、どこか懐かしさとぬくもりが滲んでいた。
異世界の冬空の下。灯りも、香りも、ぬくもりも――
晃志の“八女の手”が、また一つ、村の心に火を灯していた。