第1話『灯のない世界で』
福岡県八女市のはずれ、古びた工房に、かすかな光が揺れていた。
「……これで、最後か」
柿原晃志は、ふうと息を吐き、手にした提灯をそっと見つめた。手すきの和紙に、丁寧に描かれた桜の花。竹の骨組みにも、ほこり一つ残さぬよう心を込めて作り上げた。それでも、誰にも届くことのない一本だ。
注文は、もう半年もない。時代はLEDと量産品。伝統の灯りに、もう居場所はない。
「せめてこん灯りが、誰かん道ば照らしてくれたらのぅ……」
晃志はそうつぶやくと、火を灯した。提灯の中で、ろうそくの炎が静かに揺れた瞬間――世界が、白く弾けた。
*
気がつけば、晃志は見知らぬ森の中にいた。冷たい風が吹きつける。竹がしなり、月もない空が頭上に広がっている。
「……ここは?」
立ち上がると、腰に提灯職人の道具袋がそのまま残っていることに気づいた。ノミ、小刀、巻き尺、細工筆……使い慣れた相棒たち。まるで夢の中のような奇妙な安心感が、胸に広がった。
森を抜けた先、小さな村があった。家々は木造で、ひとつとして灯りがともっていない。夜なのに、すべてが闇に沈んでいる。
「火が……ない?」
と、そのとき。村の少女がこちらに気づき、叫び声を上げた。
「誰っ!? 魔物じゃないよね!?」
「変な服着てる! よそ者だ!」
人々が集まり、警戒の目を向けてくる。年若い娘――後にエミリアと名乗る者が、晃志の前に立ちふさがった。
「あなた、どこから来たの? ここは“ランダ村”。こんな辺境に旅人なんて、ありえない……」
晃志は名を名乗り、「迷い込んだ」とだけ答えた。だが人々の目は冷たく、疑念と不安の色に満ちていた。
夜の村は、不思議なほど静かだった。灯りがなければ、音も気配もなくなるのか――晃志はふと、そう思った。
「……火が怖いんだな、この村は」
焚き火も、松明も、家の中にも明かりはなかった。
晃志は村のはずれで、竹林を見つける。手に取ると、まさに八女の竹に似たしなりと香りがある。気づけば、体が勝手に動いていた。
竹を削り、骨組みを組み、草の繊維を紙代わりに張る。村人が見守る中、晃志は静かに提灯を仕上げた。
「こんなもんで、通じるかどうか……」
息を整え、火を灯す。炎が広がり、草紙の内側にほのかな模様を映し出した。
その光景に、ひとりの幼い少年がぽつりとつぶやいた。
「……きれい。夜に、こんなに明るいの、初めて見た」
誰かが息をのんだ。少女が目を丸くし、村の老人が杖をついて近づいてくる。
「それは……火か? けれど、熱くない……燃え広がらぬ……なんとやさしい光じゃ……」
晃志は言った。
「これは“提灯”というもんばい。おいん村では、夜道を照らしたり、祭りで灯したり……心を、ほっとあたためるもんやった」
そのとき、村人たちの顔に――ほんのわずかだが、“安心”という名の火が灯った。
「……火が、怖いものじゃない?」
エミリアが、つぶやくように言った。
晃志は、初めて笑った。
「火は、怖か。だけんど……使い方ば知れば、希望にもなる。灯りは、人の暮らしを支えてきたんばい」
その夜、村の中央には一本の提灯が灯り、皆がその周りに立ち尽くしていた。言葉も出せずに、ただ、揺れる光を見つめていた。
それは、この村にとって――**初めての“灯りの記憶”**だった。