8.石板の真実と封印された過去
キャサリンがミュリエルの家に戻ったのは、日没よりも少し早い時間だった。扉を開けるなり、エンジェル、テオドール、エリオットが駆け寄ってくる。
「無事で良かったわ。心配したのよ」
エンジェルは涙目で抱きついてきた。
「えへん、キャサリン様に不可能はないのである」
「こんな時におどけるなんて、ずいぶん余裕があるな」
皮肉を言うエリオットも笑顔を隠せない。
「……後ろにいる男の子は誰だい?」
テオドールがようやく、外で突っ立っているユリウスに気づいた。キャサリンが慌てて三人に紹介する。
「彼はユリウスって言うの。ネトラーネではいろいろと助けてもらったんだ」
キャサリンたちの賑やかな声を聞いて、奥からミュリエルが現れた。ユリウスの顔を見るなり
「レクサス?」
と驚きを露わにした。四人の視線が一気にユリウスに集中する。
「……あなたが、ミュリエルさん?」
ユリウスは、警戒心を含んだ眼差しでミュリエルを見つめていた。その瞳の奥に、どこか揺れるものがある。
ミュリエルはゆっくりと息を吸い込み、一歩前に出ると、ユリウスをそっと抱きしめた。突然の出来事に、キャサリンたちは固まって身動きが取れない。ユリウスは身じろぎせず、ただじっとしていた。
「……いや、違うな。今のレクサスがこんなに若いはずはない」
ミュリエルは自嘲気味に笑う。そこで初めてユリウスは声を上げた。
「俺の名前はユリウスだ。父さんと一緒にしないでくれ」
口調は怒気を孕んでいたが、頬はわずかに赤く染まっていた。
「ふっ、怒った顔まで似てるな」
ミュリエルは懐かしむように微笑んだ。
キャサリンは事情を説明した。ユリウスが港で絡んできた荒くれ者から助けてくれたこと、恋人同士のふりをしてレクサスの屋敷に入れてくれたこと……。レクサスの目を誤魔化すためにキスしたことは言わなかった。
「それで、興味を持ったんです。石板の中身を知りたがっているのはどんな人かって。……まさか抱きしめられるとは思わなかったな」
ユリウスは照れ臭そうに鼻を擦る。ミュリエルはそれを優しい眼差しで見つめていた。
「ミュリエルさん、これが石板に書かれていた文字です」
キャサリンはメモを渡す。ミュリエルはしばし読み耽っていたが、やがて大きくため息をついた。
「やはり、そうか」
「何が書かれているのですか?」
全員の視線がミュリエルに集中する。彼は石板に書かれていた文字を、台詞のような口調で語り始めた。
――汝、我が伴侶たるを誓うか
――性別も、身分も、血筋も越えて
――この愛を証として此処に記す
一同の間に沈黙が流れる。それを破ったのはエンジェルだった。
「これって、愛の誓いじゃ……」
「そう、それも男同士のね」
大したことでもないかのように、ミュリエルがのたまう。
「どうして? ネトラーネは同性愛が禁止されているのに……」
キャサリンは衝撃を隠せない。
「答えは下の二行に書いてある」
ミュリエルはメモの下二行を指差した。
「これって、両方とも名前みたいよね」
勘の良いエンジェルの呟きにミュリエルは頷いた。
「そのとおり。上に書いてあるのは“ミュリエル・グランチェスター”だ」
全員が驚いてミュリエルを見る。
「これって古代の石板じゃないの?」
キャサリンの疑問に全員が顔を見合わせる。
「今から三十年ほど前になる……」
ミュリエルは訥々と語り出した。
当時、彼には相思相愛の男性がいた。その頃もネトラーネは同性愛が禁止されていたが、二人は隠れて愛し合っていた。いけないことだと分かっているのに想いは募るばかり。
しかし、相手は親の命令で結婚することになった。せめて形を残しておこうと愛の誓いを彫ったのが、この石板である。
二人はこれを砂浜に埋めた。深く埋めたつもりだったが、長年の波によって砂が流出したのだろう。誰かがこれを見つけて古代の石板だと騒ぎ立てたらしい。
ここまで話して、ミュリエルはユリウスを見つめた。
「僕は君をいたずらに傷つけたくない。この先を聞く勇気はあるかい?」
「じゃあ、下の名前は……」
「そう、レクサス・ヴィネルト。君のお父さんだ」
キャサリンたちから驚きの声が上がる。ただ一人、ユリウスだけが拳を握りしめて、うつむいていた。キャサリンは彼の痛みを慮って、そっと寄り添う。
「……嘘だ。父さんが俺と一緒だなんて。あんなに同性愛を反対してるのに……」
ユリウスの声が震える。信じられないと言いたげな眼差し。
ミュリエルはそっとユリウスの手を取る。
「ネトラーネは、漁と交易に生きる男たちの町だ。力や勇ましさがすべての価値を決めるような場所さ。ほんの少しでも“男らしさ”から外れた瞬間、居場所を失ってしまう。
レクサスはね。自分を守るために“強い男”を演じるしかなかったんだ。愛する誰かと寄り添うよりも、“町長の息子”であることを選んだんだよ」
「だからと言って、ミュリエルさんを捨てるなんて!」
ユリウスは自分のことのように悔しがる。ミュリエルは優しく頭を撫でた。
「レクサスはきっと……愛を捨てたんじゃない。ただ、愛することで失うものがあまりにも大きかっただけなんだ。それが、町長の家系に生まれた者の、避けられない十字架だったのかもしれないな」
ユリウスは、ふと顔を上げると、絞り出すような声で言った。
「……俺、父さんに直接確かめたいです」
「それはやめた方がいい。お父さんにとっては、もう封印された過去なんだ」
「でも、このままじゃ……」
ミュリエルに訴えかけるユリウスの瞳は、あの時、家を継いで町長になると決めたレクサスのそれとまったく同じだった。思わずミュリエルは抱きしめてしまう。
「君がそう言うなら止めないよ。ただ……無事でいてほしい」
キャサリンは泣きそうになっていた。おそらく三十年前もミュリエルはレクサスとこうして別れを惜しんだのだろう。
「大丈夫ですよ。聞いてみたいんです。父さんがどんな気持ちで生きてきたのか。お互い逃げずに、ちゃんと」
ユリウスは笑顔を見せて強がる。キャサリンをはじめ、みんな自然と励ましていた。
「お父さんとの話し合い、うまくいくと良いね」
「何かあったらミュリエルさんが何とかしてくれるから、ここに逃げてくるのよ」
「私たちは何もできないかもしれないが、話し相手にはなれるぞ」
「いざとなったら、一緒にノズルクへ行ってもいいんだぜ」
最後にミュリエルがユリウスの頬を愛おしげに撫でた。
「傷ついたら、また帰っておいで。僕はここにいるから」
ユリウスは笑顔を見せて大きく頷くと、踵を返して扉を開けた。キャサリンも思わず、その背中を追いかけそうになる。しかし、エンジェルにがっしりと肩を掴まれて前に進めない。
「アタシたちは待つことしかできないのよ」
そう言われて、キャサリンはポロポロと涙を流しながら見送った。




