7.嘘から始まる初めてのキス
ユリウスに付き添われてレクサスの屋敷に戻ると、相変わらず先ほどの門番が立っていた。キャサリンを見るなり
「あ! おまえ、何しに来た!?」
と凄い剣幕で睨んでくる。咄嗟にユリウスが前に立ちはだかった。
「俺の彼女だけど何か?」
「えっ、坊ちゃんに彼女?」
門番は目を丸くして驚きを露わにする。
「中に入れてくれるだろ?」
ユリウスにそう言われて、サッと身を引いた。キャサリンは肩身の狭い思いをしながら後に続く。
「疑われなかったかな……」
「大丈夫さ。堂々としていればいいんだよ」
ユリウスに手を引かれて前庭を通り過ぎてゆく。屋敷の中に入るなり、数人の召使いが「お帰りなさいませ、お坊ちゃま」と出迎えた。
「この人は、俺の彼女。よろしくな」
わざと強調するようにユリウスが言う。召使いたちは平然を装っているが、心の中で動揺しているのがキャサリンには分かった。
「さぁ、こっちだよ」
ユリウスに導かれるままカーペット敷きの廊下を進んでいくと、高級そうな絵画だの甲冑だのが飾られている。
キャサリンが通されたのは、屋敷の一番奥にある部屋だった。扉を開けるなり、台座に置かれた石板が目に入る。
「これが、噂の石板なのね……」
黒く輝く石板には、古代の文字らしきものが五行ほど彫られている。キャサリンが見ても、単なる記号や絵文字にしか見えず、もちろん読むことはできない。
「早く写さなきゃ」
キャサリンはポケットからメモを取り出して、一文字ずつ書き写していった。意外と時間がかかり、暑くもないのに焦りで汗が滲んでくる。
その時、廊下の方からざわめきが聞こえてきた。耳を澄ますと、召使いがレクサスを止めているようだった。
「だ、旦那様、おやめください!」
「ユリウスに彼女? どうせ、その女に騙されてるだけだろ」
心臓が跳ねる音が、キャサリンの耳の内側でこだましていた。メモ帳を抱きしめながら立ち竦む。
「ど、どうしよう……」
「任せて」
その囁きと同時に、ユリウスの腕がキャサリンの肩を抱き寄せ、次の瞬間――唇が重なった。
扉が開き、レクサスが目の前に現れる。息子が女性と唇を重ねているという事実に、見開かれたその目は明らかに動揺していた。
唇が離れると、ユリウスはまっすぐに父親を見つめた。
「何の用?」
その声は驚くほど冷静で、毅然としていた。
「す、すまん……まさか、本当に彼女だとは」
「ノックもしないで入ってくるなんて、礼儀がなってないな。出て行ってくれ!」
戸惑いながらもレクサスは部屋を後にした。扉が閉まると、ようやく室内に静けさが戻ってきた。ユリウスは肩の力を抜き、キャサリンに向き直る。
「……ごめん。驚かせちゃって」
「ううん……私こそ、騒がせちゃったみたい」
キャサリンの鼓動はまだ収まっていなかった。初めてのキス――こんな形で訪れるなんて想像もしていなかった。嬉しくて、恥ずかしくて。そして、ほんの少し切なかった。
(これが、初めてのキスなんて……ちょっと苦しいな)
そんな思いを胸に押し込めて、キャサリンは深く息を吐いた。
「さあ、続きを写そうか」
ユリウスの穏やかな声に背中を押されて、キャサリンはペンを握り直す。それでも、唇にはまだ、ユリウスの温もりが残っているような気がして、なかなか集中できなかった。
「キャサリンは、どうして石板を見たいと思ったの?」
ユリウスの問いかけに、キャサリンは少しだけ口を噤んだ。本当のことを言うべきか迷う。けれども、さっき自分を助けてくれたユリウスに嘘をつくのは、なんだか違う気がして正直に話した。
「そうか……どうして、その考古学者は石板の文字を知りたいんだろうね?」
ユリウスが目を細めてつぶやく。
「分からない……もしかしたら、ただの好奇心かもしれないけど……」
「大切なことが書かれてる気がする?」
キャサリンは頷いた。
「もし良かったら、俺もそのミュリエルって人に会ってみたいな。一緒に行ってもいい?」
「でも、お父様が何て言うか……」
「気にしなくていいよ。父さんはどうせ俺のことなんて、いなくなればいいと思ってるさ」
そう言ってユリウスは、冗談めかしてウインクする。けれども、その笑顔の奥には、ほんのわずかな寂しさが透けて見えた。キャサリンは、その瞬間、ユリウスが愛おしく思えた。
石板の写しを終え、廊下に出ると、すぐに一人の召使いが駆け寄ってくる。
「お茶のご用意ができておりますので、どうぞお召し上がりくださいませ」
「いや、彼女を送るところなんだ。今回は遠慮するよ」
「ですが……お父様がご一緒に、と……」
「父さんと一緒なら、なおさらいらない。代わりに君たちで盛り上げておいてくれ」
軽く手を振って背中を向けるユリウスに、召使いは言葉を失う。けれども、彼は気にする様子もなく、キャサリンの手を取った。
その手は、温かくて、どこか壊れやすそうで――それでも、今のキャサリンには確かな安心をくれた。




