【第十四話】
その夜はクローゼットから出て来てすぐに東雲さんの家を後にした。とても会話をするような雰囲気ではなかったからだ。時間も二十四時に迫ろうとしているし。マンションを出て母さんに尋ね人は見つかったと電話をして、僕は家に帰った。
「選ばせてよ、か。あれは僕のことを言ってるのだろうか」
話の流れ的にはその内容で間違いないとは思うが、不安感が拭えずに良く眠ることが出来なかった。
「なんだ良樹、眠そうだな」
「ああ。ちょっとな」
「東雲さんとなにかあったのか?」
「ちょっとな」
「それは羨ましいことか?」
和人的には羨ましい事があの夜にあったのは事実だが、その後のことを考えると気が重い。
「半々ってところだな」
「なんだよそれ」
「詳しくは話せないけど、東雲さんのお母様に僕は紹介されるらしい」
「なんだそんなことか。お父様にはもう会ってるんだろう?だったらなんて事ないじゃん」
だったら良いのに。ゲームを捨てた件といい、お父様よりもお母様の方が厄介な気がするんだよな。それに、メイド喫茶に連れて行った隠し子の事もある。自分の純血な娘を大事にする理由もある。そこに凡人が現れるのだ。なにがあってもおかしくない。
僕はその日から東雲さんからの連絡を待つ事にした。連絡手段の一つ、電話はあの日以来不通となってしまった。恐らくは解約されたのだろう。なので最後の連絡手段であるネットゲームのチャットに書き込みを入れたが、返答はない状況だ。
「良樹ー。お客様ー。この前にいらした方がまた来たわよー」
週末になっても東雲さんからの連絡がないと思っていたら日曜日の昼下がりに近藤さんが僕の自宅にやって来たのだ。
「お久しぶりです。相良様」
「一週間ぶりじゃないですか。東雲さんは一緒なんですか?」
「はい。お車におられます。これから少しばかりお時間を頂戴してもよろしいでしょうか?」
いよいよ東雲さんのお母様との面会か。そう思うと自然と背筋が伸びる。
「一週間ぶり、ね」
車に乗り込むと後部座席に東雲さんは座っていた。近藤さんが運転席に乗り込んで車は走り出した。そして目的地に。
「あれ?実家に行くんじゃないの?」
「行かないわ」
僕は若干混乱したけども、近藤さんが車を横付けたのはアパートの前。アパートというよりもコーポって感じだ。とにかく家賃は安そうだ。
「ここ」
「え?」
「お嬢様。今日が最後のお役目となります。今までお世話になりました」
後部座席のドアを開けた近藤さんは深々と頭を下げてそう言った。それを聞いた東雲さんは「今までありがとう」と声をかけてから僕に降りるように促してきた。
「涼子……さん、ここは……」
「私の新居。良いところでしょ。陽当たりも良いし」
「それでは私はこれで。本当にお世話になりました」
そう言ってもう一度深々とお辞儀をしてから近藤さんは車に乗り込んでその場から走り去っていった。
「さて。私たちも行きましょう?」
塗装が一部剥げた金属製の階段をカンカン音を立てて登る東雲さん追いかけて二階建建の一番奥の部屋の前で立ち止まった。東雲さんはバッグから鍵を取り出して鍵穴にそれを差し込んだ。今までのカードキーとは比べ物にならないほど貧弱なものだ。
開かれたドアからは部屋の窓からの日差しが流れ込んできて暗い雰囲気を弾き飛ばしていった。
「さ、上がって」
玄関に入って靴を脱ごうとしたら、一足、靴が置かれているのに気がついた。そして、部屋の奥から僕たちを呼ぶ声がした。
「帰ってきたのね。早くいらっしゃい」
この声の主は聞き覚えがある。東雲さんのお母様だ。僕の背中に緊張が走る。それに気が付いたのか東雲さんが僕の背中を押してきた。
「大丈夫だから」
「お、おう……。お邪魔します」
玄関に入ると、恐らくは右手はトイレだろう。左手はキッチンかな。僕たちは正面の引き戸を開いて部屋に入って行った。そこには簡易なパイプベッドにデスク、そして小さなテーブルが置かれただけの質素な光景が広がっていた。以前のメゾネットに大水槽があったような家の対極にあるような部屋だ。
「そんなところに立ってないで座って」
後ろから声を掛けられて振り向くと東雲さんの面影を感じる女性がお茶をお盆に乗せて立っていた。
「あ、あの……」
「自己紹介は座ってからにして」
そう言われて僕は小さなテーブルの端っこに正座をした。そしてその隣に東雲さんも正座をしてきた。
「その方が相良良樹さん?」
「はい。お母様」
「そのお母様って言うのも今日は止めにしない?」
「……。じゃあ、母さん」
「うん。それでいいのよ」
なにが起きてるんだ?てっきり僕は何処の馬の骨なんだ!って詰問されるものかと思っていたのに。なんだこの解れた空気は。僕はキョトンとしていたのか東雲さんが軽く笑いながら背中を押して来た。それで自分がお辞儀をしていない事に気がついて、慌ててお辞儀をした。
「相良さん。娘のこと、よろしく頼んだわよ」
「え?」
話の展開が見えない。なんでいきなり頼まれるのか。何に対してかは分からないけども赦されたのか?
「そんなに緊張しないで。ここには涼子と私しか居ないんだから」
「東雲さん、これって一体」
「昨日ね。ここに来てから母さんと話をしたの。お父さんとの馴れ初めとか。初めて聞く話ばかりでびっくりしちゃった。父さんも母さんもね、子供の頃はこんな部屋に住んでたんだって。同じアパートの同級生で。学校で貧乏人って罵られることもあったって」
「いやね。もう昔のことよ」
「それでね。私も同じように、ここから始めようかと思ってるの。良樹と一緒に」
「え、いや、それは嬉しいんだけども……」
東雲さんはお母様と仲が悪いんじゃなかったのか?なんでこんなに和んでるのか。
「相良さん、涼子は今、学校で孤立してる状況なの。それをあなたは助けてくれたのよね?母親として感謝します。ありがとう」
「は、え、いや、こちらこそ相手にして頂いて恐縮です」
何を言っているのか分からなくなっていたが、それを聞いた東雲さんのお母様は笑ってもう一度「ありがとう」とお礼を言ってくれた。
「良樹、私はね、こういう生活がしてみたかったの。通学も車での送り迎えじゃなくて歩いて行きたかったの。実家に戻ったらお父さんが、そんなことを許してくれないからここに来たの。最初、母さんに案内された時は流石にびっくりしたけどね。でも私の居場所って感じにすぐになって。良樹は私がこんなのでも友達でいてくれる?」
友達、か。あの日の夜は僕たちは友達以上になったと思うのだが……。
「もちろん。むしろ肩肘張らなくてよくなったよ」
「そうね。ここよりも良樹の家の方が格上になるわね」
「そういう意味で言ったんじゃ……」
「分かってるわよ」
そんな会話を東雲さんのお母様は微笑ましいと言わんばかりの優しい視線を送って来ていた。
「それじゃ、私はこの辺で。相良さん。あなたの事は家から聞いてます。それだけが理由じゃないけども、涼子をよろしく頼みます」
「あ、いや、お辞儀だなんでそんな……」
僕がそう言うのにも構わずにもう一度お辞儀をして引き戸を開けて玄関に向かって靴を履いた後にもう一度お辞儀をして出て行った。
「涼子さん、これって一体……」
「その『さん』付けはいつまで続くのかしら」
「や、そう言うわけでは……。じゃあ涼子?」
「そ。それでいいの。それで聞きたいことは沢山あると思うけど、私からざっくりと説明するわね」
東雲さんの話だと、お父様に音信不通になった事がバレて実家に戻って来るように言われたこと。そしてそれをお母様が庇ってくれたこと。その二つを教えてくれた。その他にもあったんだけど、この事が気になって記憶に強く刻まれた。
「ゲームを捨てちゃうような人なのになんで庇ってくれたの?」
「母さんね、私が父さんの思うような人間になるように必死だったみたいなの。だからあんなことをしたみたいで……。結局、私はそれから逃げたのだけれど。父さんは元から私と亮太を跡取りに、何て考えてないのは分かっていたし」
「え、それってまさか」
「そのまさかよ。母さんを弾き者にする気があるってこと」
例の隠し子。東雲さんのお母様が正妻の座を追われたのなら、その相手が出て来るのだろう。周りがどう反応するのか気になるけども、あのお父様のカリスマ性からして逆らう人なんて居ないように思えた。
「だからこうして私を外に出してるのよ。なんか馬鹿みたい。なんでこうなるのが分かっていたのに今まで我慢して来たんだろうって。東雲家という呪縛から逃げられないから?だったら私は……」
「お母様と一緒に逃げるとでも言うのかい?今の身分を捨てて」
「もう近藤も居ないし、お金だって自由に使えない。ねぇ、アルバイトってどうやるの?」
「いや、その前に大学受験……」
「付属だからそのままの予定。父さんもそのくらいは面倒見てくれると思う。でもその先は……。でも亮太には悪いことしちゃった」
仮に金城くんと一緒になったとしたら東雲家を追われることはなかったのだろうか。だとしたら僕という存在がなければ東雲さんは、こんなところにいなくても済んだのかもしれない。
「でも良いの本当に」
「なにが?」
「その……。こんな生活でも」
「住むところが変わっただけで何も変わらないわよ。月に使えるお金がどうなるのかは分からないけど。だからアルバイトをしたいの。自分のことは自分でどうにかしたいの」
高校生がアルバイトで生活費を稼ぐのは至難の業だ。このアパートの家賃はどうなってるんだ?仮にそれも、となるととても無理だ。
「このアパートの家賃ってどうなってるの?」
「母さんがどうにかしてくれてるみたい。でも生活費はこれだけ」
見せられた封筒には一万円札が三枚。お小遣いなら多いけども食費も何もかもとなると厳しい金額だ。
「東雲さん。とりあえずアルバイトを探すのは手伝うけども、本当にこれでいいの?」
「いやに確認するわね。私が東雲家のお嬢様の方が良かったかしら?」
「そう言うわけじゃなくて。折角の身分を捨てるようなことをしても良いのかなって。いままでなんの不自由もなく暮らしてて急にこんな生活になるなんて」
「いいの。本当にいいの。肩肘張らなくて済むから」
東雲さんにとってあの家は窮屈に感じていたのだろうか。その心は東雲さん本人にしか分からない事だけど……。