S0113 【敵】
「て……【敵】が……き、き、来ま……す!」
石見の警告を、二人は疑う素振りすら見せなかった。
小野は全面的に石見の感覚を信じていたし、管金は自分の足のように、石見が感覚面に変化があるのだろうと勝手に思い込んだ。
川はまだ静かに、しかし暗黒を寝床に横たわり、ゆっくりと増水混濁している。
イオンエンジンのように僅かずつ。しかし確実に加速を積み重ね、暴れ竜として命を根こそぎにする瞬間を待っていた。
流れを加速させる燃料は雨であり、その雨は大粒だ。
どんどんと強さを増す雨。増水速度は三人の予想を遥かにしのぐ。
彼らの後ろで、ガタンと音を立てて石が動いた。眠れる竜の身じろぎ。時間は、管金らの想像以上にない。
ないのだが、しかし。
「……あ……川上…………から……」
暗闇とぐらつく河原、雨。状況は悪い。しかし足場の悪さと闇は【敵】も同じだ。ならば足元を把握した自分に利がある。そう管金は考えた。
「おい、上着ありがとな。だが返すわ」
小野は手斧を消した状態で、無手で構えもせずにそう言った。やけに優しく。
何やら胸焼けじみた違和感を。食道に張り付いたカプセル錠のごとき引っかかりを覚え、管金は振り返る。
夜のカーテンの向こうで、小野の影が微笑んだ。微笑んだのだ。静かに、優しく。
「【敵】があたしらに気づく理由は、調子に乗って光りまくったせいだろう。つまり寝床をここに決めたあたしの落ち度だ」
ゆっくりと、言い聞かせるように。
小野は淡々と、その理由を並べた。管金はただ恐ろしかった。何が恐ろしいのか分からないがただ、ただ。
「い……いやっ」
か細くも強い調子で、石見が拒絶する。
この内気な少女は気付いたのだ。小野の理屈を、言い訳を。
「黙れ!!」
だが豹変、雷鳴のような一喝が石見にそれ以上の発言を許さない。
「石見らは川下、あたしは川上だ! 文句あんのか!?」
「あ……うぅ!」
食い下がる石見に、怒り狂う小野に。少年もようやく状況を理解した。
小野は一人、囮になるつもりなのだ。
「三人で森に逃げて戦おう」
「それができないからぁ!」
「ごめんね」
涙声で反論する石見を、管金はひょいと担ぎ上げた。
「ひぇっ?」
「あ、お前何を!?」
川下の木陰に走る。急げ! 足元は把握している。
「えっえっ……?」
「ここで待ってて!」
濡れた芝生に尻から下ろし、振り返る管金。ほぼ同時に、川上から獣臭渦巻く黒い風が飛び出した。
速い! あっという間のお出ましだった。
「原始人じゃない!?」
吹き荒れる黒風は、恐怖を引き連れて来た。巨大エンジン音よろしく、ぐわんぐわんと吼え立てる。
管金の腕の中で石見がすくむ。管金が手を放すと腕に固い指が触れ、すぐに離れた。少年の次の動きを阻害せぬが為。石見の望みが腕を通して心臓に伝わる。
小野さんを助けて。
当たり前だ。鼓動が速まる。
急げ! 間に合うぞ!
「ォラアァっ!」
反転し駆ける管金の目に、光の円盤が横切って見えた。
小野の投擲した手斧が、黒風の鼻面に突き刺さる。
「ギャゥン!?」
悲鳴が上がり、黒風の先頭部位が血煙を上げ転倒、後続に踏み潰され肉片なり飛散する。
「犬!?」「山犬かよッ!」
管金の胸奥に粘つく恐慌が忍び寄る。闇も、足場も、犬には不利にならない。
小野は山犬の群れに対して二投目を躊躇った。左手の斧で迎撃の構え。
足場に一切の抵抗なく、走る野犬に側面から一撃!
管金ではない、彼の背後から飛来した豪速球が、一匹の痩せた脇腹をえぐるようにヒット。否、ストライク!
「けくっ」
第二球、豪速球が犬の頭蓋骨を粉砕する音が聞こえてきそうな見事なストライク!
側面からの奇襲に、犬の数匹がたたらを踏む。怯んだ!
刹那の明滅。死の一閃。
麦穂を刈るよりあっけなく、二匹の犬が横なぎの刃に巻き込まれ両断。その他数匹が、鋭い切先に引っかかれて深い裂傷を負った。
犬達は今で言う中型犬から小型犬の間ぐらいの大きさしかなく、深さ三センチ弱の切り込みでも致命的であった。
一撃で、片手で数え切れない数を無力化した管金。野犬に明らかな動揺が走る。
「ォラ!」
そこに怒号、旋風巻いて頭蓋をかち割る! 飛来した手斧が新たな死体を作り出す。
続いて闇に浮かぶ白い脚線美がしなり、サッカーボールキックが入った。
一方的殺戮を許した山犬たちは完全に逃げの姿勢。しかし、群れ半ばの一匹が激しく吠える。
「「「ウおン!!!」」」
いつの間にか大音量になっていた雨音に負けじと、震え跳ねる野犬の群れ。呼応するかのように全体が吼え上がった。
消沈していた意気地が一瞬で盛り上がる。常識外れの光景に、逆に士気を挫かれる管金と小野。
「ううっ」
稲光。腰が引けた瞬間を、野生の獣は見逃さない。
されど、今まさに飛びかからんとする一匹の下顎を、すくい上げるように浮いたライズボールがもぎ取った。
「石見っ」
後方からの援護射撃に、二人は正気付いた。
牙を失った哀れな一匹を、前蹴りで押し返しつつ、小野は両手の手斧を振るう。
管金は柄を払って手近な鼻面を打ち据えた。右から左のなぎ払い以外は刃を使いにくい。鎌の弱点だ。
いや、管金の大鎌に限ってはそうとも言い切れないのだが、管金はあえて、再度の振りかぶりに専念した。
「ぬんッ!」
黒い風となった犬の群れに飛び込みながらの一薙ぎ。
狙いは一つ、先ほど群れを立て直した個体だ。あれが、あれこそが【敵】であり、それ以外はただの野良犬だ。管金は直感を信じ、刃を振るう。
だが死の一閃を、その野犬は……【敵犬】並外れた跳躍で回避。いや、避けきれず。
「うあああ!?」
雷光に照らされるシルエット。左後ろ足のみの刈り取りに、管金は絶叫した。次の一撃はない。無謀な突撃の報酬として、管金に数匹の野犬が飛びかかる。
このままに二人はなすすべ無く黒風に飲み込まれ、犬達に喉首を食い千切られてしまうだろう。
管金は【敵犬】の額に、前に見た【敵】同様の図柄が浮き上がるのを確認した。
例の、両側に三本ずつ直線の延びた砂時計型。
そして、その図柄が嘲笑うように明滅するのも。
……もうだめだ。
小野の白い脚に犬たちが食らいつく。管金の腕にも脚にも、無数の牙が突き刺さる。
「よくやった!」
だが、食いつかれながら、柔肉に黄色い牙を突き立てられながらも、小野もまた踏み込んでいた。跳躍していた。
旋風巻いてあばらをへし折る! 振り下ろされた右手斧が肋骨を突き破り内臓に達した。
旋風巻いて背骨粉砕! 水平に振るわれた左の手斧が致命傷の【敵犬】をオーバーキル!
「ぐあああああ!」
だが、それでも犬達は止まらない。石見の投石が、他の犬どもを追い立てた。
けれど食いついた数匹は離れない。肉を千切り骨を砕かんとする決意の結晶化。
「こンの!」
菅金は痛みに堪え、血が出るほどに食いしばりながら、足に食いついた一匹を柄で殴る。
しかし大鎌は繊細な攻撃には向かない。小野が観客にダイブするロックシンガーのように、待ち受ける牙と生臭い息に食い付かれるのを見ながら、助けに行くのもままならぬ自分自身に絶望した。
「ぎゃああああっ!?」
耳を覆いたくなるような小野絶叫。管金は歯が折れそうなほどに歯ぎしりしながら救いを祈った。
「神様!」
だがここは磨製石器すら未登場の旧石器時代である。
神や仏は愚か、偶像すら発明前の世界に、祈りを聞き届けるものなぞ……!
ドンッ! という腹に響く爆発音。大地が揺れ、眠れる竜が目を覚ます。
神も仏も居なくとも、自然は常にそこにあった。
「あっ」
それは一方的で暴力的な救い。傲慢なる者共への怒りの発露。。この受け取る側がどうなるかを考えない、未熟な奇跡。
一瞬で視界を埋め尽くした濁流を前に、管金は力を振り絞り小野に飛びついた。
「小野さん!」「バカ、お前……!」
小野の頭を守るように抱える。
小野の腕が腰に回される。抱き合うように、庇い合うように。
「石見は……」
最期の瞬間まで、彼女は他人の心配をした。
だがすぐに濁流が全てを塗り潰す。




