S0107 アンネ
緑深い山道を、一人の少年が荒い息で歩いている。
少年の名は管金。五尺という短躯を学生服に包んでいる。
手足も目口も大振りで、ぎょろぎょろした目玉と大きな口は、獅子舞かだるまのよう。
しかし表情は幼く不安そうで、疲労と迷いをにじませていた。
だが、その不安もここまでだ。
頼りになる朱里お姉さんと別れて数時間。太陽が暑い盛りを終えた頃になってようやく、管金は河原にたどり着いたのだ。
「ふうふう、見えてきたな」
スマホを確認すると一時半。体感時間とのずれは三時間前後。つまり四時から五時か。暗くなる前に水場に着いて、菅金は安堵の息を吐いた。
本格的に暗くなってしまったら、管金の持つ照明はスマホだけになる。
その状態での移動は危険すぎるし、暗くなる前に食事や水も欲しかった。
木々を抜けると、河原の周辺は開けており、大小様々な石が所狭しと転がっていた。
ざあざあという心地よい川の音。流れは早く、幅は3メートル以上。浮島のように飛び出た石を伝えば渡ることも可能だろうか。
管金はでこぼこの地面と藪や草に飽き飽きだった。
しかし踏みしめられていない河原は、石のバランスが異常に悪い。管金は恐る恐るで河辺にたどり着き、とりあえず水を飲みたいだけ飲んだ。
「ぷはあ! ただの水がこんなに美味いもんだとは!」
靴と靴下を脱ぎ、歩き詰めで熱を持った足を流水で冷やす。川の流れが疲労も押し流してくれるような錯覚があった。
とっくに空っぽだったペットボトルと水筒に水を足し、ふと思い出して弁当箱も洗う。
アルミ製の巨大な弁当箱は、何かに使えるかもしれないからだ。
このまま寝転んで休みたい気持ちも強いが、管金はほどほどで立ち上がり、タオルで足を拭った。
食料を見つけなければ。
思ったより胃袋は空腹を訴えていない。疲れすぎているせいだろうか。
途中の木で、木の実のようなものを何個かもいで来たが、食べ方が分からない。
魚を捕まえて焼いたら美味いだろう。だがそも火がないのだ。
不意に、管金は視線を感じて周囲を見た。
視界の隅で何かが動く。【敵】……?
ポケットの中の棒手裏剣を意識する。
だが、動いたのは少女だった。
ピンクの、フリルのたくさんついた衣装の娘。
略奪や乱暴狼藉とは不似合いだ。
管金はほっとして手を振った。
「ねえ、良かったら情報交換しない?」
脱兎のごとく逃げ去るピンクを、管金は静かに見送った。
相手は単独の女子。仲良くなる方が難しそうな手合いだ。管金はそう自分を慰め、切り替え早く少女を忘れた。
「仕方ないよ。うん……仕方ない」
ぶつぶつと自分を慰撫しながら、管金は川下へと歩きはじめた。
ピンクの少女は川上へ逃げたため、逆方向になる。
管金は彼女が【略奪者】に出会わないことを祈った。
そして少し歩いて、管金は再び振り向いた。
視線の先にはさきほどよりも近い位置に立つピンク少女。
巨大なリボンやふわふわの金髪、長く震える睫の下のブルーの瞳。ぷっくらと艶めくピンクのリップまでバッチリ見えた。
「うあ……」
上から下までお人形さんみたいで、管金から生来の臆病さが顔を出した。
かわいい。緊張で言葉が出ない。
管金の住む地域には、彼女のようなロリータ・ファッションを好む者がいない。
店もないし、着ていく場所もない。
初遭遇の衝撃で、顔を真っ赤にして絶句する管金を見て、少女は……クスリと笑った。
蕾が綻ぶような、見る者の心を揺さぶるような笑みに、管金は喜べばいいのか恥ずかしがればいいのか分からなくなった。
「え、えとあの!」
「こんにちわ」
管金の狼狽ぶりから、危険性の少なさを理解したのだろう。ピンク少女はゆっくりと距離を詰めた。
ヒールのあるエナメルパンプスで、よちよちと歩く姿、転ばないか心配になる。
「きゃっ!」
慌てて飛び出した管金が、転びかけた少女を抱き止めた。
少女は管金よりも背が高いようだが、体重は天地ほども差があった。
恐ろしく安定した重心で少女を保持。彼女の髪から漂う甘い芳香に脳が痺れる。
ビシビシと音高くひび割れ剥がれる脳漿。管金の胸の奥から、真っ赤な鮮血を垂れ流す真新しい傷が浮き上がる。
夕焼けの教室。投げかけられた苦い言葉。もう学校行きたくない。
管金は腕の中の少女を見て慌てた。今初めて、そこに彼女がいると気付いたかのように。
「ご、ごめん! 大丈夫!?」
頬を薔薇色に染めてはにかむ娘に、管金は呼吸を忘れるほどに魅入られた。
「大丈夫よ、ありがと」
慌て離れようとする管金の腕を彼女が掴む。すがるように。
しかし刹那。少女は自分のしたことに、そのはしたなさに気付いた様子で、熱物に触れたかのごとく手を引いた。
「あっ、お、おれは管金!」
管金はバカみたいに名乗るしかできない。少女は小鳥みたいに小首を傾げた。
「私はアンネ」
本名か偽名か。カタカナか漢字かも分からぬ名前。しかし管金は、彼女に相応しいと感じた。
「き、キレイな名前だね」
「ありがと」
誉められる事に慣れきった反応。
しかし管金はアンネのお愛想にすら感激した。
「ね。情報交換って言うけど、何を教えてくれるの?」
アンネは少しだけやり辛そうに身を屈めた。身長的理由から、上目遣いをされたことの無い管金は、その魔力的視線に震える。
「今が原始時代だってこと、知ってる?」
「知らないわ! 管金さん物知りなのね……もっと聞かせて」
簡単な賞賛に、管金は有頂天になった。
この時点で彼は、怪しくなった雲行きに気付かねばならなかった。
情報交換がいつの間にか、アンネに一方的に教える形に変わっている。
そもそも管金は彼女に警戒心を抱かなさ過ぎた。朱理との遭遇の後にもかかわらず。
菅金は請われるがままに洗いざらい喋った。
原始時代。一匹の【ドラゴン】。【武器】の貸与。【略奪者】。
朱里のこと、待ち合わせ。
笛吹と、【敵】との戦いは身振り手振りも交えた。
「さすが! そうなの、知らなかったわ。管金さんはすごいのね!」
何か言う度にアンネに誉められるのが新鮮で、力になれている、役に立つ事への歓喜があった。
三十分以上、手頃な石に腰掛けながら話して、しかし管金はアンネという娘から、一切の情報を得ていなかった。
彼女は魅力と笑顔を武器に管金を籠絡し、一方的搾取をしていた。そして会話が尽きた頃合い。
「ああ、たくさん話したらお腹空いちゃったわ」
「だったら……」
管金は背負ったリュックを叩いた。中身が詰まってでこぼこになっている。
山の中でもいできた果物だ。
「さっき木から取ってきたのが……」
「へえ、ステキね。見せて見せて!」
鼻高らかに差し出したリュックの中の、琵琶に似た黄色い果実にアンネは手を叩いた。
「あなたって本当に最高ね!」
抱きついてきたアンネにあたふたする管金に、少女は初めて見せる表情で言った。
「最高に間抜け」
脇腹に熱を感じて、管金は首を回した。冷たいなにか、液体が体の中に入ってくる。
強烈な異物感と痛みが、波が引くように消えていく。
体を動かそうとして、管金は無様に這いつくばった。下半身の感覚がない。
「食べ物とカバンはいただきます。ありがと、でもバイバぁイ」
返事をしようにも舌が痺れて動かない。
管金は脳に重りでも付けられたかのように頭が重く、そのまま意識を失った。
三本の針を持ったアンネは物を見るみたいに管金を見下ろし、その体を蹴って川に転がした。
夕闇迫る川は暗く、管金の体は浮き沈みしながら流れて、すぐに見えなくなった。




