A0412 九対十三 支配者
呉井最愛が異性に好意を抱いたのは、いつ以来だったろうか。
中卒でアルバイトしながら喧嘩に明け暮れ、気が付けば将来は閉ざされて、半グレの傘下に入れられて糊口をしのぐような生活。
昼間は監獄みたいな四畳半で死んだように眠り、夜は酒とクスリで狂いながら客の相手をする。
珍しく正気に戻ったあの朝、モアは輝かしいあの頃の宝物、自分が本当に自由だったわずかな時の象徴を引っ張り出した。
当時の仲間は誰も残っていない。交通事故、ヤク中で自殺、男に刺された、行方不明。
たった一人の、最後の『覇偉嵐蛇』。
モアは在りし日の栄光たる特攻服を羽織って、バイクを吹かした。どこか遠くに行きたかった。ここではないどこか。
ここでなければどこでもいい。
どこにも行けないのは分かっていたけれど、だからこそ。
この袋小路から逃れたくて藻掻くように。
何事もなければ、モアはそのままガードレールを突き破って海にでも飛び込んでいただろう。
あの【ラストイル】の招集が無ければ。
(…………あァ)
モアは朦朧とした意識の中で微笑む。
(サンスィ、アトやん……いい夢、だったなァ……)
夢の終わり。
アルコールと薬物で侵されて、霞のかかった頭。思うように動かない肉体。
慢性的な頭痛と吐き気、生理は乱れ、手足は常にしびれ、まっすぐ立つことはできず、ろれつが回らない。
いつも通りの症状、いつも通りの『仕事』。
どこの誰かも知らない男に股を開いて、腰を振るのだ。
「しゃぶれ」
「ぅァ……」
「しゃぶれってんだろうが!!」
「ご、ごめんなさいィ……」
殴られるは嫌だったが、それ以上に『そういうもの』としてモアは仕込まれていた。
相手の怒りや命令に服従し、へりくだらねばならない。男の加虐欲を満たすために。
この場でも、それは想定通りの効果を示した。
「ガハハ! あのメスガキがいいザマだな! オラ! 舌を使え!」
「あ、ぅぅ……」
命令通りにしながら、それにしても酷い客だなとモアは考えた。
何日風呂に入っていないのか、余りにも酷い悪臭。すえた刺激臭で目が痛い。
「ハァハァ、出すぞ! 零さず飲め!」
煩いなあ、頭が痛い。ギリギリと痛む。
モアは命令通りに何もかもを受け入れる。
「ふぅ……よし、足を開け……!」
「その先は、笛吹を殺してからという約束ですよ?」
「…………チッ、仕方ねえ」
もたもたと足を開くも、一向にその先は行われない。終わったのか。モアは心の何処かで安堵している自分に気がついた。
別に、誰と何回したって、これ以上何も減るものじゃない。身体は汚れきっているし、心はこれ以上無いほど擦り切れている。
でも……。
モアは痛む頭で浮かびそうで消える面影を追いかけた。
ダサいドブネズミ色のスーツ、オシャレのつもりだろう縁無しメガネ、特徴の少ない十把一絡げの顔。
困り顔、自慢げな笑み、興奮や興味で輝く目。
「忘れなさい。代わりに私がアナタを愛してあげる」
けれど、囁やきが全てをかき消す。
モアは深い眠りに堕ちていく。愛してくれる人のために、その人の望むことだけすればいい。
身も心も委ねてしまえば、人生の袋小路の絶望も、それ以上に辛い出来事も、全部忘れていられるのだから。
「堕ちた」
アンネはほくそ笑んだ。
これでこの女はアンネに依存し、アンネの望むことなら何でもする操り人形だ。
アンネは鶴来や土屋、宍戸を信用していない。彼らは利害が一致しているだけの存在で、アンネの下僕ではない。
であるならば、いつ裏切られてもおかしくない。ならば身を守るには信頼できる者を早急に用意したかった。
そういう意味で、アンネは梅宮を重宝していた。
昨晩じっくりと『仕込んだ』おかげで、この優しい顔の警察官は完全に籠絡されていた。
梅宮の【武器】は長槍、最初はどう見てもハズレに思えた。
しかし、実際はどうだったろうか?
梅宮は【武器】無しでも恐ろしく強かった。剣道と柔道の有段者で、特殊警棒や手錠を持ち、あまつさえ拳銃まで隠し持っていた。
アンネはそのスミス&ウェッソンの五連式リボルバーをおねだりし、当然のように手中に収めた。
それは長月にも秘密にしていた秘蔵の品であり、ここに至るまでの何人もの【狩人】に狙われた曰く付きの武器である。
愚かしくも誰もが銃を求めた。その価値など分からずに。
この世界において、銃火器の正しい価値を知るのは堀とその仲間たちだけであった。
銃は【ドラゴン】を殺せない。
その手下となるザコ【敵】には通じるかもしれない。しかしその程度の存在だ。
にも関わらず銃を手にしたことで、アンネは全能感に酔っていた。当たるかどうかも怪しい、効かない武器。
もちろん、【狩人】相手ならばある程度の効果はあるだろう。
いや、だからこそと言うべきか。
アンネはそもそも【敵】と戦う気などさらさら無い。あるのは自分の安全と支配よく。
そのためにはハッタリの利く武器は不可欠だった。そうとも、アンネを虚仮にしたあの二人、笛吹と後虎を殺す以外には安全こそが一番だ。
…………彼女は【狩人】失格者であり、身内の癌であった。アンネこそがこの馬鹿げた内輪もめの原因である。
アンネは【ドラゴン】と戦うつもりはない。逆に【狩人】同士で殺し合うことに抵抗がなく、鶴来も門浦たちも山田老人も、アンネが焚き付けたのだ。
復讐と略奪だ。
我々は殺し奪うだけの存在だ。
男たちは狂奔し、女たちは隷属させる。
扇動者たるアンネを除かぬ限り、【狩人】は【ドラゴン】に敗北する。




