_0000 【ラストイル】
夢を見た。
コマのように回る青い球体。周囲は見たことも無いほど鮮やかな星空で。
いや、星空ではない。
全方向が、右も左も上も下も、前後もなにもぐるりのすべてが、絶対真空の凍えるような暗黒と、眩く七色に輝く星に囲まれているのだから。
これは宇宙空間だ。
それにしては浮遊感もなにもない。それは夢だからだろうか。だが疑問は曖昧に泡と消えた。
些細な疑問など、絶対的で圧倒的な存在を前にしては幽く儚い。
最初からそこに存ったかの様に、まるでたった今焦点が合ったみたいに、当然のように現れたのは左右非対称の少女であった。
その姿を言い表すのに適切な言葉は、『美』となる。
アンバランスなシルエットと均整取れた無比の肉体。二次性徴直前の、女になりきらない固い蕾のごときなだらかな流線型フォルム。光輝を背負った少女は、回る青球を慈しむように右手で触れた。手のひら大の青球はぴたりと回転を止める。
現代人なら誰でも知る模様がそこにはあった。何の法則性も見いだせない青と緑の混沌的図柄。
ああ…………あれは地球。地球だ。
荘厳にして異界の風景がそこにはあった。
左右非対称の少女は停止した地球を愛撫した。左目はここまで閉じたまま。アーモンド形の右目は、月を思わせる火眼金睛。
無垢の赤銅のように輝く肌には、青く左右非対称の幾何学模様が縦横無尽に駆け巡る。
彼女は極めて非現実的な超越存在に見えた。その理由は地球と比較した巨大さや、人形的美しさ故ではない。
額に嵌めた金輪から伸びる六本の角と、重機のように肥大し無骨な金属の左腕。
そして膝下から先が簡素な木杖に置き換えられた左脚。
半身丸ごとを虚無に置き換えた、隻足隻腕単眼の鬼女。
だがそこにはアシンメトリーを屈伏させる繊細な美のバランスが存在している。そしてその美こそが、左右非対称の少女に置ける、最も際立った異形なのであった。
少女は視線をぐるりに向ける。満月のように真円で、光を反射するだけの無瞳孔の瞳。
そしてゆっくりと、薄い唇を静かに開いた。
ほのかに紅い唇が、彼女が血の通う生物であると告げている。白い歯の間を潜り抜け、声が。発される。
《殺し奪うだけの才の果てたる百の魂の一つに告げる》
声ではあったが音ではなかった。そこには言葉などという未熟な伝達技術は介在しない
それは【意味】であった。
言葉にしなければ理解できない幼稚な脳に叩きつけられる。圧倒的なまでにシンプルな【情報】だった。
《汝らの魂に刻まれた【武器】を取れ、七匹の【ドラゴン】を殺せ》
【ドラゴン】。【武器】。
それらの単語一つ一つに、脳が悲鳴をあげる程の情報量が圧縮されていた。
しかし実際には、【殺す相手が存在する】という意外の意味は不要であった。
脳を守るために言語が無駄なディテールを全て省き、簡潔な意味のみを伝える。人類の限界。言語化の弊害。
《【ドラゴン】を殺せば、その【望み】を一つ叶えよう》
非実在であるドラゴンは形而上概念である。それを形而下に貶めるには普遍的観念による観測と記録が必要となろう。
だが、【意味】による概念伝達を行う少女にはそれ以上の説明は必要なく。
言語なしには世界を把握できない人類には、曖昧な【ドラゴン】なるイメージ以上は届かない。
《……私は【最終意志障壁ラストイル】》
事ここに至って、左右非対称の少女は名を明かした。
その名前にも、その成り立ちから現在、目的などが【意味】伝達されていた。しかし、人類のちっぽけな脳には単語文字列と無意味な音の羅列しか届かない。
【ラストイル】と名乗った異形に感情があるなら、困惑を露わにしたであろう。
だが残念ながら彼女には感情などなく、神々が人の子と意志疎通するにあたり、預言者か審神者を翻訳者にせねばならぬ理由も知らなかった。
こうして、神たる【ラストイル】と殺戮の才能ある百の魂の接触は、不首尾に終わろうとしていた。
【意味】伝達が可能な【ラストイル】には、人類が何を理解出来ないのか分からないし、逆に人類は【ラストイル】とその情報量に圧倒され、嚥下以前に満足な咀嚼もできず、表層を舐めることすら覚束ないのだ。
《最後に一つ質問を聞こう》
【ラストイル】の最後のあがきも、存在格の絶対差を埋めるには不足していると言わざるを得ない。
人間側はこの想像力を超えた邂逅を把握できず、脳は防御機構の一環として全て夢と判断した。