第78話 設樂原にて(閑話)
天正3年(1575年)5月 三河国設楽郡 設楽原
朝靄に包まれた設楽原。そのほぼ中央に陣取る里見義弘は、1年ぶりの大戦に臨んでいるにも関わらず、少し浮かない表情である。
その姿を見て、幕僚として帯同している白井浄三が口を開いた。
「どうやら武田は一戦することを選んだようですな」
「おお、流石は浄三入道! わかるか?」
「はい、それなりの戦気が立ち上っておりますゆえ」
「我らは4万余。対する武田勢は2万弱。倍以上の開きがあるのにな」
「おそらく、武田はこちらの戦力を見誤っております」
「織田殿の策に嵌まったというわけか……」
「まさに」
「ワシらも驚いたが、あえて兵を少なく見せて武田を誘うとはな。よほど織田殿は自信があるのであろう」
「『一当てして、相手が怯んだ所を退く』は、戦術としては決して間違いではないのですが……。此度は相手が悪すぎましたな」
「勝頼めが、織田をナメきっていたか、見える戦果を欲しがったか……」
「おそらく両方でございましょうな」
「ま、おかげで準備が無駄骨にならずに済むのじゃ。勝頼の蛮勇に感謝せねばならぬかもしれんの」
相変わらず面白くなさそうな表情で、義弘は続けた。
「ここに来るまでは『坂東武者の底力を見せてくれん』と思うておったが、それも難しそうじゃ。船で来た我らには馬もほとんど無いしな。
……ま、此度は手伝い戦じゃ。余計なことをして、織田殿の策が綻びるのはまずい。昨日の軍議のとおり、下知が下るまでは遠間から弓鉄砲を射かけるよう、徹底させねばなるまい。
幸い堅固な陣城はあるし、鉄砲も多い。しかも、織田殿は『弾薬は心配しなくてもいい』と言うてくださった。万が一弾薬が尽きても、当家にはイスパニア式の印字紐がある。甲州勢を撃退するだけなら造作もないことであろう」
「副帥様。あまり御油断召さるるな」
「なぜじゃ?」
思いがけぬ浄三の苦言に、義弘は少しいらだった様子で問い返す。そんないらだちなどどこ吹く風。浄三は続けた。
「昨晩申し上げましたとおり、戦気の動きを見ますと織田殿は対岸の山への奇襲をもくろんでいらっしゃいます。そして、武田が気付いた様子はございませんから、奇襲は十中八九成功するでしょう。そうなれば、武田は半包囲されることになりまするな?」
「そうじゃ、誰でも自軍が半包囲されれば浮き足立つのではないか?」
「はい、普通ならばそうでしょう。しかし、武田は現状ではこちらの戦力を見誤っております。そうなりますと、死中に活を求め、総攻撃をかけてくるかもしれませぬ。ですから、『油断は禁物』と申し上げた次第」
聞いて義弘は表情を改め、浄三に向かって頭を下げる。
「浄三入道! よくぞ気付かせてくれた。その通りじゃ。皆の者、良く聞け、緒戦は耐えることが肝要ぞ。如何なる猛攻にも耐え凌ぐのじゃ! 耐えていれば必ずや武田は崩れる。時を見誤るでないぞ!」
「「「「「「応!」」」」」」
義弘の下知に力強く返事をすると、陣幕の中に集まっていた里見の将たちは各々の持ち場に散っていった。




