第284話 帝(閑話)
文禄5年(1596年)閏7月12日夜 山城国 紀伊郡 伏見離宮
南に広がる巨椋池に、日々大きく膨らんでいく月がかかる。十二日の月ですらこれほど趣深い眺めなのだ。これが十五夜ともなれば、如何なることになるか、と考えれば、楽しみでならぬ。
……しかし、朕のその思いは、早くも数刻後に崩れ去ることとなった。
大地震である。
朕は10年ほど前の大地震も経験しておる。あの時も夜中で、大きな横揺れに起こされたのをよく覚えておった。ところが今回はどうじゃ。突き上げるような縦揺れに叩き起こされた後、“凄まじい揺れ”など、「生やさしい」と言うしかない横揺れに襲われたのだ。
立つこともできず、這いずりながら庭に転び出た朕の目に飛び込んできたのは、離宮脇の山が音を立てて崩れ落ちる姿であった。
阿鼻叫喚の地上の様を十二日の月ばかりが平然と照らしておった。
しばらくすると、関白以下の公卿や皇族どもが三々五々に庭園に集まってきた。十五日に月見の宴をしようと離宮に招いておったのだ。しかし、時折起こる揺れに、悲鳴を上げるばかりで物の役にも立たぬ。
溜息を吐いて空を見れば、北側が明るくなってきたのに気付いた。まだ夜が明ける刻限には早い。これは火事、しかも大火に類するものであろう。
山に遮られておるが、間違いなくあれは京の方角。どうやら京は火も出ているらしい。先程までは、己の不運を嘆いておったが、ここ伏見は火が出ていない分だけ「まだ幸運だった」と思うべきかもしれぬ。
ようやく安心できたのは、空が白みかけた時分になってからであった。大津と大坂から多数の軍兵が駆け付けてきたのである。
聞けば、大津や大坂も揺れが大きく、道中山崩れが起きていた場所もあったらしいが、「朕の危機と考えて、押し通ってきた」と言うではないか。誠に天晴れな心持ちである。それに比べて、朕の側に侍りおる北面の武士どもの情けなさときたら……。
そして、なんと、昼前には里見義信が駆け付けてきおった!
最初は「関東から如何にして!?」と訝しく思うた。だが、聞けば、9日に起きた九州の地震の救援のため、紀州に立ち寄ったところだったと言う。
紀州でも揺れがあったため、朕を心配するあまり夜中に急いで発ったらしいが、それにしても速い! 間に3か国を挟んでいるのに、半日もせずに駆け付けるとは! 流石義信じゃ!!
この頃には、仮小屋も出来ておったし、京の様子も朕の耳に届いておった。
どうやら、庶民の多く住む下京は、地震により倒壊した家屋は多数、その上火災まで発生し、被害甚大とのこと。御所のある上京は、倒壊した家屋こそ少ないものの、火災が発生し、よりによって朕の宮殿の大半が焼け落ちたと言うではないか!
軍が入ってはおるものの、治安の悪化は避けられず、京に戻るなら、伏見の方がまだ安全らしい。
確かに、ここには将軍もおるし、関白以下重臣も勢揃いしておる。しかし、この急ごしらえの仮小屋か、傾いた離宮で寝泊まりせねばならぬのか!? まだ時折、大きな揺れがあると言うに……。
朕が暗い顔をしておるのに気付いたのか、義信が提案をしてきた。信長が居城であった、近江の安土に移ってはどうかと言うのだ。
確かに安土は信長が贅を凝らした城。正親町天皇陛下をお招きせんと、御幸の間を築いていたのも知っておる。その上、後を継いでおった吉法師は百済国に移り、今は空き城のはず。しかも、安土城は天正の大地震にも耐えた実績がある。
かような絶妙の案を即座に思いつくとは! 流石義信よ!!
文禄5年(1596年)閏7月13日午後 近江国 滋賀郡 大津
伏見より山科を経由して逢坂山を越え、大津に出た。
時は既に申の刻。今宵は三井寺か、石山寺泊まりであろう。朕も含め公卿衆は皆、そう考えていたのだが、ここでも義信は、予想の上を行く。大津の港には両舷に水車のような物を付けた巨大な船が泊まっておったのだ。
「蒸気船魅此岸号にございます」
義信に案内されるままに乗り込んだ船は、勢いよく両輪を回転させ、水しぶきを上げながら風のように湖面を走る。朕がどんどんと広くなっていく湖面の雄大さや、西日照らされた比良の山々の景色に魅了されておると、程なくして船は安土の港に到着した。夏の日は、いまだ暮れず。流石は義信じゃ!
文禄5年(1596年)8月 近江国 蒲生郡 安土城
先日の大地震より1か月。朕はまだ安土で過ごしておる。義信によれば、京の被害は甚大で、宮殿の修理も終わらぬらしい。とは言っても、特に不満があるわけでは無い。
安土城は思うておった以上に壮麗で、数日間は城内のそこかしこを回るだけでも楽しめた。その後も、三井寺や石山寺に詣でたり、竹生島に詣でたりと、各所の神社仏閣に参拝することが出来た。いや、決して遊び惚けていたわけではないぞ? 朕には地震による被害回復を祈念するという大きな仕事があるのだ。
それにしても蒸気船は便利であるな。これがあれば、大津だろうが長浜だろうが、どこでも日帰りで行くことができるわい。
などと思うておったら、さらに上があった。
朕が近江国内を御幸している間に、なんと関白らは越前敦賀の気比大明神に詣でてきたと言う。聞けば、『気車』という乗り物で出かけてきたらしい。確かに時折、安土の街に煙を吐く乗り物が来ておったが……。
なぜ誘わぬ!
なに? 「得体の知れぬ乗り物に陛下を乗せて何かあっては一大事だから、試しに乗ってみた」だと!?
ええい、嘘を吐け! 近在で乗ってみたならともかく、越前まで行って「試した」などと、言われて誰が信じるか! 次は必ず誘うのだぞ? 朕も旨い魚を食し……げふんげふん、仲哀天皇陛下や神功皇后陛下をお祀りした北陸道総鎮守には一度詣でずばならぬからの。
おや、また揺れておる。しかし、この揺れはどうにかならぬものか。ちと義信に聞いてみるか。
思い立って、京の復興の指揮を執っておる義信に使者を出したところ、その日の夕刻にすぐやって来た。流石は義信じゃ!
義信によれば、あのような大地震が起こった後には、余震と申す揺れが数か月から数年は続くもので、如何ともしようがないとのことであった。
うむむ、で、あるならば、何か心機一転できるものは……。
何!! 改元をしてはどうか? とな!?
流石は義信じゃ! 吝嗇な足利将軍家などとはひと味違う!!
何だと? 揺れを避ける方法もあるだと!? それを早く言わぬか!!
む、確かに……。よく考えれば前例もあるのぉ。よし、分かった! 明日にでも群臣に諮ってみようではないか。
それにしても、斯様な策を思いつくとはな。流石は義信じゃ!!




