第28話 南蛮船がやってきた(1)
元亀2年(1571年)3月 上総国天羽郡 安房往還
長浜湊(※現在の上総湊)は、総延長33km余の、2級河川湊川の河口部に開けた港町だ。
関東大震災の時に房総半島南部が隆起したことの影響で、現在は水深が浅くなっちゃったけど、それまでは内房では有数の良港の1つだったんだ。その証拠に、内房線の開通までは、館山航路定期船の寄港地にもなってたらしい。
ちなみに、近世以前の良港は、世界各地を見回しても河口に作られていることが多い。
これには大きく2つの理由がある。
1つはフナクイムシ対策だ。
このミミズのような姿をした海棲の軟体動物は、『虫』と言いつつ、実は貝の仲間だったりする。木を主食としてて、木造船の船底を食い荒らす。その食欲は凄まじく、コロンブスの船団のうち2隻が、フナクイムシの食害を原因とした浸水で沈没したって話も聞いたことがある。
対処も面倒なんだ。外から取ろうにも、木に空けた穴に潜っちゃうから、引きずり出すことは難しい。だから、船を陸に揚げて、船底を焼くとかしないと駆除できない。木造船が主流だった時代は、フナクイムシは海運に携わる者にとっての大きな悩みの種の1つだったんだ。
その厄介なフナクイムシの弱点が、淡水だ。
ヤツらは淡水中では生息できないから、船を川に入れると逃げ出しちゃう。これが、河口に港が作られる要因の1つなんだ。
もう1つは当たり前だけど、河川交通の起点となること。
だって、船を使えば、浮力が働く分、車輪や動物では対応しきれないほどの大容量を一度に運送できるだろ。鉄道網や道路網が張り巡らされた現代日本国内の輸送でも、大量運搬には船が使われていることが何よりの証拠だ。
この房総半島には大きな川が少ない。小櫃川、小糸川といった比較的大きな河川は、河口部に干潟や砂州ができちゃってるから、流路が不安定で、河口に大きな港を作ることは難しい。それから、南部は狭く山がちなこともあって、そもそも目立った川が少ない。
そんな中、風待ちのできる内湾と、それなりの水深の河口を兼ね備えた長浜湊は、房総南部では貴重な存在なんだ。
戦国武将たちも馬鹿じゃない。その重要性は理解してて、上総武田氏が、その全盛期に港を見下ろす天神山に城を築いてる。その後、天神山城は、里見と北条の争奪戦の舞台となり、紆余曲折を経て、現在は里見氏が所有してる。城主は戸崎玄蕃頭という人だ。
なお、この天神山城。湊を守る城ではあるんだけど、城地が狭い。その上、長浜湊自体が商港としての役割が大きいから、里見の支配が確立された現在では、軍事面での重要性は薄れてきてる。城主の玄蕃頭からして、川関の管理や運上の取り立てが得意な、能吏としての側面が強い。
ちなみに水軍の方はどうしているかというと、南西に2kmほど行った白狐川河口に、上総における里見水軍の一大拠点ある造海城(※別名:百首城)があり、軍港としての役割はそちらが担ってる。
三方を海と川に囲まれた半独立峰に建つ造海城は、守るに易く攻めるに難い要害。その重要性を鑑みて、城主も義弘さんの信頼も厚い、重臣の正木淡路守が配置されてる。「多数の船溜まりを抱えるこの城があれば、わざわざ天神山城下に多数の兵を配置する必要はない」というのが、当家の考えだ。
そもそも里見には、そんなにたくさんの拠点に、多数の兵を詰めておけるほどの余裕はないんだよね。
俺の住む佐貫城からの道のりは、約6kmほど。湊への道は、鶴峰八幡社の脇を通る海沿いの街道と、分水嶺を越える山越えの街道がある。どうやら義弘さんは、馬を使っていることもあって、山越えで向かうようだ。
佐貫城下を潤す染川の流域と、湊川水系とを隔てる標高100mにも足りない小さな峠を越えると、同行の兵からどよめきの声が上がった。
ごくり
俺の頭の上で、義弘が息を飲む音も聞こえる。
眼下の長浜湊に、和船とは比べものにならないほど大きな黒い船が停泊している。
ガレオン船だ!!




