第275話 マカオへ(閑話)
天正18年(1590年)5月1日 香港
明国沿岸南部における最大の幕府海軍拠点である香港島。北京条約により強化された海禁政策の下、南蛮貿易の窓口として潤っていたこの島であるが、今は多量の軍船がひしめいていた。
香港は、ポルトガル人居留地であるマカオから指呼の間にある。そのため、今回の幕府による最後通牒以来、日本側の最前線拠点として着々と戦力の結集が行われていたのだ。
そして、期限である4月30日(※グレゴリオ暦5月31日)を過ぎても、満足のいく回答が得られなかったとして、江戸より出撃の指示が届いたのである。
この日に備えて香港に駐屯していた諸将は、こぞって出撃の準備を始める。その中に昨年王位を継承したばかりの琉球王尚寧と、新たに三司官に任じられた城間盛久の姿もあった。
「親方よ、出陣が待ち遠しいぞ。いっそ、今宵のうちに抜け駆けして先陣を果たさぬか?」
「御主、今の内地人は規律を重んじまする。抜け駆けで手柄を立てましても顧みられることはございますまい。手柄を認められないだけならまだましで、悪くすれば罪に問われかねませぬ。まずは水軍を統べる菅達長様の指示に従うことこそ肝要かと存じます」
「しかし、それでは他の有象無象と一緒で、華々しき手柄は立てられぬぞ? ここで手柄を立てねば、所領回復の目が遠のいてしまう……」
「お焦りなさるな。我らは沖縄人。同じ武器と船があるのなら、海では内地人に負けぬ働きが出来まする。どうぞどっしりと構えて我らが働きを御覧じろ」
「そうか! 流石は島津殿とも親しく軍事に造詣の深い城間親方だ。頼みにしておるぞ!」
「お任せあれ!」
万暦18年(1590年)5月1日 香山鎮(※珠海)
同時刻、マカオに接する香山鎮。
この街はマカオ市街と陸続き。言わばマカオの陸の玄関口にあたるのだが、普段はさほど栄えているわけでもない。なぜなら、ポルトガル人どもも、商人たちも、物資の運搬には専ら船を利用しているためである。
陸路を用いるのは、マカオ市内で消費するための、生鮮食料品を運ぶ近隣の村々の者ぐらいであった。
ポルトガル人居留地に隣接していることもあって鎮こそ置かれているものの、守備兵が本来の任務で出動したことは一度もない。さらに、3年前の北京条約によって対岸の香港島に日本の水軍基地が出来てからは、近海から海賊も消え去り、将兵たちも開店休業状態であったのである。
ところが、現在、その長閑だった香山鎮の風景は完全に過去の物となっていた。
マカオ攻略に向けて集まった多数の兵が屯しているためである。その数は3万余。
狭い城内では到底収容しきれず、城壁の外側に天幕がはみ出すほどであった。
さて、ひしめく兵たちを見下ろす望楼には、 補服を身に付けた2人の男たち。悠然と腰を下ろすがっしりとした体つきの男の前で、痩せた男が所在なさげに行ったり来たりする。しばらくは何も言わずに見ていた着座の男であったが、いつまでも続く徘徊に、たまらず声をあげる。
「王継光閣下、少し腰を下ろして落ち着かれませ。出陣は明日でござるぞ?」
「しかし、馬千乗将軍、その出陣が太子殿下の軍の初陣ぞ? 決して負けるわけにはまいらぬ。本当に大丈夫か?」
「まあまあ、幕府軍に敗れたゆえ、心配になるのは分かりますが、それまで我らは所向無前でござった。此度の相手はポルトガル人。幕府軍ではございませぬ。その上、海陸から圧倒的な兵数で攻めかかるのですぞ? ここは負ける方が難しいぐらいでござる」
「……そうか」
「そもそも、我ら太子軍は初陣でござるが、太子殿下の初陣は、あるとしても何年も先のこと。万が一、いや、億が一負けようが、殿下の評価に傷は付きませぬ」
「しかし、よもや負けることがあれば、太子殿下の資質が問われることになるやしれぬ……」
「先ほども申し上げましたが、此度は普通にしていれば勝てる戦。おそらく源義信様が、太子殿下に花を持たせてくれたのでござる。大将が浮き足立っていては、それが兵にも伝わりましょう。億が一を万が一にせぬためにも、閣下は落ち着かれませ」
「なるほど。そうかもしれぬ」
「はい。で、出陣は明日でござる。万全に明日を迎えるため、今日はゆるりとお休みください」
「……そうか、そうだな! 早速休むこととしよう。大分気が休まった。馬将軍、礼を言うぞ!」
「いえいえ、どういたしまして」
足早に階下に降りていく王継光を、馬千乗は溜息を吐きながら見送るのであった。
「……ま、文官としては一流なのだ。早く戦場に慣れてもらわねばな」
翌朝 香港
「な、何だと! 天は我らを見放したか!?」
「御主!? お、落ち着きくだされ。そのように物を投げては……。痛ッ! ほれ、皆の者、御主をお鎮めいたすのだ!!」
「「「はッ!!」」」
「ええい! 止めるな!! 離せッ!!!!」
翌朝 香山鎮
「わはははは! 聞いたか馬将軍! これが太子様の御力であるぞ!!」
「いやはや、流石は太子様の軍でございますな(うーん、不安がなくなったのは何よりだが、これは自信が付きすぎたかもしれぬ。面倒なことにならねばよいが……)」
5月2日、マカオ降伏。
二十倍以上の日明連合軍に包囲されたマカオは、一発の銃弾も撃つことなく降伏した。
極限まで高まっていた包囲側の士気は、そのぶつけ先を求めてさらに南へと向かうことになる。




