第268話 新田の視察
天正16年(1588年)9月 下総国 埴生郡 長沼新田
目の前には稲刈りを数日後に控えた黄金色の水田、背後には根木名川の流れ。それを見下ろす頑丈な堤防の上に立った俺は、目の前に平伏する初老の男に声を掛けた。
「名主 八郎右衛門。今年の作柄はどうか? 直答を許すぞ」
「はっ、畏れながら申し上げます。今年も豊作に恵まれましてございます」
「日照りや長雨で困ることは無かったか?」
「長い日照りはございませんでしたが、6月の長雨で、田が水に漬きそうになることはございました」
「『漬きそう』と言うことは、大丈夫だったのだな?」
「はい。あの排水機場のおかげにございます。それもこれも上様のおかげ。我ら、開拓民一同、上様にはいくら感謝してもしきれませぬ」
「うむ、役に立っておるようで何よりだ」
「『役に立っておる』どころではございませぬ。今年こそ、さして大雨はございませんでしたが、昨年の台風の折は、田んぼが沼に逆戻りするような勢いの出水でございまして………………」
皆さんこんにちは、酒井政明こと里見義信です。
今日は、成田の近所にある長沼の干拓地へ視察に来たとこなんだ。
え? そのためだけにわざわざ下総まで来たのか、って?
そんなわけないじゃん! 俺も忙しいからさ、出かけるのにはそれなりの理由が必要なんだよ?
今回は、江戸―市川―神崎間の鉄道開通にも絡めてるんだ。ま、それだけじゃなく、ここ長沼は、蒸気式揚排水機場を備え付けた、近代的な干拓のテストケースとなる重要拠点でもあるからなんだけどさ。
おっと、八郎右衛門の話が終わったみたいだ。あんまり止まってると、おかしく思われちゃうんで、また後でね!
「ところで、八郎右衛門よ。役立つことは分かったが、使い勝手などで気になる点は何も無いのか? 他の土地の参考にもなるゆえ、忌憚なく教えてくれ」
「……さればでございます。強いて申しあげるなら、今までならば対処が不要だったような雨でも、排水機を動かさねば追いつかぬことが時々ございます。この辺りが少々気になる所でございます」
そうそう、そういうのが聞きたかったんだよ!
干拓のためには堤防と水門が必要だけど、水門を作ると、そこが狭窄部になって、どうしても水が流れにくくなるからね。それを見越して長沼では意図して広めに作ったつもりだったんだけど、まだ足りなかったか……。
俺は内心でこんなことを考えつつ、いかにも感心したそぶりで頷くと、馬廻の櫻井藤兵衛の方を振り返り、命じた。
「ふーむ。集まる水に対して水門や排水管の大きさが足りておらぬのかもしれぬな。藤兵衛、このこと、関係各所に確と伝えておけ!」
「はっ!」
「さて、八郎右衛門。ここ長沼は新たな干拓地の魁である。其方らの気付きが将来の日本全体に新たな恵みをもたらすのだ。書面でも対面でも構わぬゆえ、これからも気付いたことがあれば、すぐに申し出るのだぞ」
「はっ! 承知つかまつりました」
なるほど、技術面は概ね問題無いっぽい。じゃ、次は制度面についても確認しとかないとね。
開墾地については、税制的にも軍事的にも優遇措置を与えてるけど、それがきちんと機能してるのか。これが足りないんだったら増やさなきゃいけない。『移住しても苦しいまま』じゃあ開拓地に移住する人がいなくなっちゃうからね。
俺は話を続ける。
「ときに、八郎右衛門。暮らし向きは如何か?」
「3年目ではありますが、ほとんどの者が十分な蓄えをもてております。これも、上様の御慈悲により、年貢を半額の2公8民に抑えていただいておりますお陰かと。村人一同、期限の5年を待たず、来年より年貢を元来の額に引き上げていただこうかと談合しておったぐらいで」
なるほど、じゃあ、この制度は維持だな。
「それは殊勝な心掛けであるし、お上としても助かることこの上ない申し出ではある。が、此度はその気持ちだけ貰うておこう」
「それは如何なる理由でございましょう?」
「うむ。将軍が『初年度は無税、5年目までは税は半額』と約束したのだ。それを簡単に覆していては天下に示しが付かぬからな!」
「さ、差し出がましいことを申しました。畏れ入りましてございます!!」
「そう恐縮せずともよい。其方らの心掛けは、私も嬉しく思うておるのだ。蓄えの出来る2年分は、速やかに開墾を成し遂げた其方らへの褒美だと思うて、懐の内に収めておけ」
「有り難き幸せ!!」
「その代わりと言うては何だが、開拓民たちの中で、如何ともし難い理由で困窮している者があれば、蓄えのある者が当座の援助をしてやれ。幕府としても対策は考えておるが、どうしてもすぐに対応するのは難しいでな」
「はっ!!」
こんな感じで視察は終わったんだ。
それにしても、干拓地が3年目から大黒字になるとは、上々の滑り出しだよ。
まあ、ここ長沼は、モデルケースに選んだだけあって比較的好条件ではあるんだ。沼自体がそんなに深くなかったし、すぐ側に堤防や埋め立て用の土砂の採取先はあるし、何よりも香取海―鬼怒川の水運が使えたんでね。
それでも、もう1年くらいは援助が必要になることを想定してたんで、3年目からの大黒字は完全に想定を超えてたよ。
ここ数年は大洪水が起こるような大雨が降らなかったっていう気象条件に恵まれたこともあるとしても、「ツいてる」としか言いようがないね。
ちなみに、国土開発に関して言うと、現在、幕府直轄領を中心に、かなりの勢いで進展が見られる状況だ。
明人の捕虜を酷使したのか、って?
“酷使”までは行かないはずだけど、彼らの力は確かにある。……いや、あったね。けどさ、実は既に彼らは京畿道北部か海南島に送っちゃったんだ。明と講和しちゃったからね。一応、残留希望者には「蝦夷地で開墾した土地を三町歩与える」って布告を出したけど、残留希望者は1割にも満たなかったよ。彼らに北海道の気候はちょっと厳しかったみたい。
あ、この捕虜は琉球に侵攻してきた部隊や、江南への倭寇で捕まえた連中だからね。山海関の兵士だったら、もうちょっと定住者が多かったかもしれない。
話を戻そう。開発が進捗したのは、やっぱり蒸気式の工作機械が安定して使えるようになったことが大きいかな。人力や馬匹の何倍ものスピードで仕事が進むんで、仕事が捗る捗る!
まだ、故障は多いし、エネルギー効率はイマイチだし、図体がでかいしで、改善の余地は多々あるんだけど、そこは技術の進歩と組み合わせながら、少しずつ進めていくしかないね。焦りは禁物だよ。
ちなみに、初期型のモデルについては国内限定で販売も解禁したよ。だから、既に導入した大名家もあるんだ。
え? 謀反のもとにならないのか、って?
その懸念は無いとは言わないよ。だけどさ、あんまり隠しといてもそれも不満が溜まるじゃん?
それにさ、最新鋭の製品は里見家が押さえてるし、なによりも、整備したり部品を作ったりする工場が里見領にしかないんだよね。さらに言えば、燃料となる石炭なんだけど、国内の産地のうち筑豊も石狩も常磐も里見家が押さえてたりする。
高っかい機械を買わせた上、さらに整備やら更新やら燃料やらで継続的に金を毟る。
なかなか美味しいシステムだろ?
今は明からの略奪品があるから、いろんな大名たちが気前よくうちの蒸気機関を買い求めてるけど、果たして数年後、その代償がどうなるか。楽しみだねぇ!
重税で対応するんじゃないか、って?
ははは、当然そんなの対策済みだよ。現在、日本国内では、農民への税率は全国一律で四公六民以下にすることを義務づけてるんだ。
以前は八公二民とかだった大名もあるみたいだけど、そもそも「なんでそんな重税が必要だったのか?」って言えば、「他家との戦に備えるため」じゃん?
だから、国内が治まった今となっては、そんな重税をかける必要は無いんだよね。
ま、隠れて重税を課しても、関所が廃止されてるんで住民が逃散するだけだろうけど!
で、各大名が野放図に増やしちゃった戦闘員どもの吸収先が、ここ長沼みたいな開拓地と国軍なの。
大名どもは不要な戦闘員を手放せる。幕府としては人員確保につながる。一石二鳥だろ?
ちなみに、現在の税率は基本四公六民だけど、将来的には三公七民、出来れば二公八民まで抑えられたらいいな、とは思ってる。ただし色々な条件は付けるけどね。
どんな条件か、って?
例えば、『○年の兵役を務めた者』とか、『日本語で意思の疎通が出来る者』とかは減額する、なんてのを予定してる。これは、帝政初期のローマ市民権とかを参考にしたんだ。
国軍で兵役を務めることで“上級国民”として名誉と恩恵が得られる。そして、兵役に就くためには日本語が出来なければいけない。
既に外地の学校でも日本語教育は始めてるんだけど、これが分かったら、さらに勉強に身が入ると思わない?
この時代、人口=国力なんだ。『国民意識』『民族自決』なんて言葉の無い今のうちに『日本人』を増やせるだけ増やしとかないとね!




