第259話 決着の裏側 万暦帝の独白(閑話)
今回は閑話(※他者視点)です。
少し長めですが、あんまり閑話が続くのもどうかと思い、今回は分割しませんでした。
なお、今回は、読む人によっては、不快に感じるかもしれない場面がありますので御注意ください。
万暦15年(1587年)7月 北直隷 北京順天府 紫禁城
ふふふ、「陛下は大変賢く慈悲深い。いつもお情けを頂戴できる妾はなんと幸せなことでしょう」か、鄭貴妃は、いつも本当のことを言うのぉ。
あれだけ賢く正直な妃なのだ、息子の常洵も古今比類無き者になるに相違ない。にもかかわらず、群臣どもの見識の浅さはどうにかならぬものか。「先に生まれたから常洛を立太子せよ」との一点張り。あのつまらぬ王氏の息子に皇帝など務まるものか! 気の迷いで太后様の侍女などに手を付けるものではなかったわい。
そうじゃ! 久しぶりに朝議に出て、常洵を太子にするよう命じてやろう。鄭貴妃の賢さを知れば、何かと口うるさき大臣どもも納得するに違いない!
と、朕が宦官どもを引き連れて後宮を出ると、すぐさま内閣大学士の申時行を筆頭に六部の長どもが駆け寄ってくるではないか!
呼びつけもせぬうちから我が意を汲むとは、流石は我が臣じゃ! 見直したぞ!
このように誉めてやろうと上機嫌でおれば、朕が口を開く前からしゃべり出しおる。
「上様に申し上げます。倭軍が!、倭軍が……」
この期に及んで『倭寇の話』だと!? 遅いわ! 南京が襲われてから幾月経っていると思うておるのじゃ? これは、厳しく叱責してやらねばなるまい。
「海賊の処理に4か月もかけるとは何事か! 軍務尚書を……」
「ち、違うのです! わ、倭軍が、天津に上陸したのでございます!!」
確かに天津は北京の目と鼻の先ではある。しかし、倭寇に襲われた程度で慌てふためくとは、何と小心なこと!
……しかし、このような有様では、話をするだけ無駄じゃな。無能な大臣どもと語るより、賢い鄭貴妃と睦み合った方が有意義じゃ。
「さっさと軍を派遣して追い返せ!」
「へ、陛下、お待ちください!!」
大臣どもが何か叫んでおるが、もはや話を聞く気にもならぬ。どれ、後宮に戻るとするか。
―――――――― 20日後 紫禁城後宮 朝 ――――――――
いつものように朕が鄭貴妃と同衾しておると、外から何やらドカンドカンと音がする。朝からもう“一戦”と思うておったのに、興が削がれたわ。不届き至極じゃ。厚く罰してくれん!
そう思い、後宮を出ようと歩を進めておると、またドカンドカンと音がする。音のした東の方角を向けば、一里ほど先にある朝陽門の望楼が、いきなり爆発し、崩れ落ちたではないか!
急ぎ、後宮を出て中和殿に向かえば、倭軍が来寇したなどと言う。
「なぜそのようなことを黙っておったのか!」
「何度も申し上げましたが、陛下は『倭寇など蹴散らせ』と仰るばかりで……」
む、そう言えば最近倭寇の話が多かったような……。
「言葉で説明できぬのであれば『文書で』と、書状も何通もお送りいたしておりますが、お返事がなく……」
むむむ、書状が何通も届くから、宦官に命じて読みもせずに捨てておったが、もしやあれは………………!
「う、うるさい! うるさい! 今はあの倭軍どもをどうするのか聞いておるのだ!!」
「…………………………では、最初から御説明申し上げます」
申時行が申すには、
一つ、20日前に天津が陥落した。
一つ、13日前に倭軍討伐のために出陣した山海関の兵10万が大敗した。
一つ、10日前に山海関が陥落した。
一つ、3日前に倭軍10万余が北京郊外に着陣した。
一つ、今朝から倭軍の砲撃が始まった。
一つ、砲撃の威力は強く、城壁の望楼は命中するたび一撃で崩壊している。
一つ、紫禁城までは距離があるため、朕や家族らが傷つく恐れはない。
一つ、各所に急使を派遣したが、援軍の到着は数か月後になる見込みである。
一つ、水や食糧は備蓄が十分で、年単位の籠城が可能である。
とのこと。
つまりは、なにか? 手も足も出ぬと言うことではないか!?
何とも情けない大臣どもじゃ!? 能なしどもめ! 倭軍を蹴散らしたら、すぐにでも馘首にしてくれるわ!!
「陛下、いかがいたしましょう?」
「倭軍の首魁に使者を送り『日本国王に任ずる』とでも言ってやれ。倭人どもにはそれで十分じゃ! 分かったらさっさと行け! 朕は後宮に戻る!」
「あ、陛下! お待ちを……」
申時行が何か叫んで追いすがってきたが、警護の宦官に追い払わせた。さて、倭軍との戦は大臣どもに任せた。朕は鄭貴妃ともう“一戦”せねばな!
―――――――― さらに20日後 紫禁城中和殿 昼 ――――――――
倭軍が去る気配は全くない。それどころか連日の砲撃で、城壁の望楼は全て崩れ落ち、東側の城門はいつ破られてもおかしくないと報告が上がっておる。
朕が『日本国王に任ずる』と勅を下してやったにもかかわらず、『総王 源義信』などと申す倭軍の大将は、鼻にもかけずに使者を追い返したとのこと。それどころか「降伏時に使え」と白旗を渡してきたというではないか! おのれ東夷めが! 援兵が来た折には必ずや凌遅刑にして、朕を虚仮にしたことを後悔させてやるぞ!
それにしても援兵が遅い。来ていないわけではないのだが、情けないことに入城する前に皆、倭軍に蹴散らされておる。
何とも情けない連中じゃ。蛮夷に手も足も出ぬような腑抜けは『天子の軍』には不要。倭軍を追い払った後には、草の根分けてでも見つけ出し、罰を与えねばな。
それにしても、毎日毎日飽きもせずにドカンドカンとうるさいのぉ。おかげで鄭貴妃としっぽりやろうにも、怯えてしまい抱くことも出来ぬ。なんとか出来ぬものか? ……そうじゃ! 決死隊を編制し、倭軍の砲を破壊させてはどうだろう!
死ぬ気でやれば1人で100人ぐらいは倒せよう。早速、軍務尚書めに申し付け……。
「一大事でございます! 智化寺裏の城壁が、砲撃により崩壊いたしました!」
「すぐに穴を塞ぐのだ!」
「人足を出してはおりますが、倭軍の銃撃により近づく端から射殺されております! なお、倭軍は城壁に砲撃を集中させており、他にも東側の城壁を中心に、いつ崩壊してもおかしくない場所が多数ございます」
何と言うことだ! このままでは、倭軍が内城に侵入するのは時間の問題。そうなれば紫禁城もあの砲撃に晒されよう! このような事態に陥るまで倭軍を放置するとはなんたることか!
これも全ては家臣どもが無能なせいであろう。この罪は馘首で済ますわけには行かぬ。尚書以上は全て処さねば、朕の気が済まぬ!
そのようなことを考えてはみたものの、飛び込んでくる話は悪い物ばかり。お主ら、三千世界一高貴な朕が害されぬ策を さっさと考えぬか!!
群臣どもを怒鳴りつけてみたところ、吏部左侍郎の王家屏が『金蝉脱殻の計』を献策してきた。
当然、知っておるぞ。張居正から教わったからな。『孫子』の第二十一計で、漢の『劉邦』が用いた策であるな。
わはは! 朕は賢いであろう。もっと誉めろ!
なに? 女装せねばならぬのか? まあ、流民や坊主に化けるよりはマシか……。
必ずや、援軍を連れて戻ってくるからな。それまでしっかりとこの城を守っておるのだぞ?
降伏? そのような物は許さぬ! それから太后様や鄭貴妃、常洵らに何かあってみよ、ただでは済まさぬぞ! ……では行くか。
―――――――― 夕刻 北京城西方 平則門外 ――――――――
東の方から木霊のように倭軍の勝ち鬨が聞こえてきた。全くもって忌々しいことだ。
しかし、その喜びも束の間のことよ。永定河を越えれば迎えの軍が待っておる。騙されたと知った総王とやら顔を見られぬのが残念ではあるがな。ま、後日、倭軍が朕の大軍に飲まれていくのを見て溜飲を下げようではないか。
しかし、盧溝橋までは歩かねばならぬのは面倒だのぉ。おっと、城壁から手が上がったぞ。さて、出発いたすとするか。
朕は老女の集団に混じって城外に出た。
そして、1時間もせぬうちに囚われた。
誰だ! 「城外に逃れよ」などと献策した輩は! 確かに1里ほどは何事もなく歩けたが、騎馬に追われれば為す術もないではないか!
そして「財宝をばら撒いて逃げれば敵は足を止める」と申したヤツ。其方の顔、決して忘れぬぞ! 倭軍は財宝には目もくれず、我らを捕らえ、その後に財宝を回収していきおったではないか!! 必ずや三族鏖にしてくれん!!
それにしても、野蛮人相手がこれほど困るとは思わなんだわい。なにしろ何を言うても通じぬのだ。おかげで朕が皇帝であることを伝えることも出来ぬ。
おい! もっと丁寧に扱わぬか!! ……ひぃ! こいつ刀を突きつけて来おったぞ!
……え? 猿ぐつわだと!? なぜ朕がそのような物を……!
わ、分かったから! 大人しくするから! 頼むからその刀を仕舞え。
クソ! ……い、いえ! 何でもありません!!
―――――――― 宵の口 六里屯 倭軍本陣 ――――――――
朕は倭軍の本陣に引き立てられた。雁字搦めに縛られ、馬に乗せられて運ばれているのだから逃げることなどままならぬ。そもそも、逆らうような素振りを見せただけでも、すぐに槍だの刀だのを突きつけてくるのだ。大人しくしている他に手があったなら教えてもらいたい。
本陣と思しき天幕の中では、1人の男が倭刀を振るっていた。その剣筋の鋭さはどうだ! 朕も太子の時分、武術の稽古をしておったから分かるが、これは只人に非ず。達人の域に入っておる。……まさか!? 朕は此奴に首を切られるのか?
こ、殺すな! 許せ! そ、そうだ! お主、欲しい物は無いか? 何でもくれてやるゆえ、朕をここから逃してたもれ!!
猿ぐつわを咬まされておるから、まともに声は出ぬのだが、焦っておった朕は思わず命乞いをしてしもうた。
ところがどうじゃ、朕のうなり声を聞いた彼の男は、くるりと振り返るとこう言うた。
「ほう、面白いことを言うではないか? 今の言葉、真であろうな?」
「むむむむー」
「分かった。すぐには返してやれぬが、何とかしてやろう。それで良いか?」
「む、むむむー」
「よし! 約束だぞ、もし約束を破れば…………こうなる。では、しばらく大人しくしておれ」
その男が、振り向きざまに刀を振るう。すると、一瞬の後、後ろに立ててあった巻き藁が、真っ二つになって地に落ちていった。
席を立つ男の後ろ姿に向こうて、朕はコクコクと頷くことしか出来なんだ。
彼の者が、総王・源義信であることを知ったのはその夜のことだ。
いや、恐ろしいだけの男かと思うたが、膝つき合わせて話をしてみれば、なかなか話のわかる男であった。
よくよく聞けば、琉球は倭国内で罪を犯した者が建国した上、倭国内の混乱に乗じて辺境を侵したゆえ、総王が誅伐したとのこと。であるにもかかわらず、謀反を起こした琉球の家臣に惑わされ、明国が侵攻してきたため、開戦に及んだ。と申すではないか。
つまり、総王には最初から簒奪の意図などまるで無かったのだ。このようなことなら、さっさと使者を派遣しておくべきであったわい。
それにしても、属国の謀反人も見極められぬとは何とも不甲斐ない。おかげで、このような無駄を積み重ねることになってしもうた。琉球侵攻を奏上した輩は、後々処罰せねばならぬな!
さらに、総王は、「明国皇帝は陛下しかいない。どうか、陛下の弟にしてほしい」と言うてくれた。
いやいやどうして、なかなか分かっておるではないか。遼だの金だの元だのは、身の程を知らず“帝”を僭称したゆえ、最終的に身を滅ぼすこととなったが、総王は違うた。以前は“野蛮人”などと考えておったが、朕も考えを改めねばならぬ。宋の徽宗の轍を踏むわけには参らぬからな。
また、朕が「歳幣はいくら必要か?」と問えば、「不要」と言うではないか! これも遼だの金だのとは違う。蛮人にはない慎み深さじゃ。
さらに、今後は海賊の取り締まりもしてくれると言う。「海賊征伐の為に必要だから」と多少の領地は求められたが、あの精強な総王の軍が睨みを利かせてくれるなら、海については安泰じゃ。これで、北だけに集中できるようになれば、明のこれからの繁栄は約束されたようなもの。
そうそう、総王は、朕が最近、何よりも頭を悩ませていた立太子の件についても素晴らしい助言をくれたぞ。ちと時間がかかるのが難点ではあるが、これで、かわいい常洵に帝位を譲れるというものよ。
さて、正式な交渉の席に出るのが楽しみじゃわい。




