第255話 義信出陣!
これを書いてて初めて知った事実。
日本の天正年間って、実は明の万暦年間と同じ年に始まってるんですね。ちょっと驚きました!
天正15年(1587年)7月 肥前国 松浦郡 名護屋城
皆さんこんにちは、酒井政明こと里見義信です。
遂に俺も出陣することにしたよ。だって、あれだけたくさんの褒賞を頂戴しちゃったらさ、後方で座ってるたけじゃ、申し訳が立たないからね。
称号をもらっただけじゃないのか、って?
うん、『総王』って称号自体が、かなり大きな御褒美ではあるんだけど……。それだけじゃなかったんだよ。
実は、今回の対明戦に参戦した将兵たちに、位階を賜ってるの。例えば島津義弘は正式に従五位上兵庫頭に任じられたし、軍の山川貞孝や舟浦シモンは従四位上になったんだ。あ、大名家の中には官位を貰った人もいるけど、軍の連中は位階だけね。だって既に軍の官位があるからさ。
まあ、ここまでだったら普通だよね。でも、今回の褒賞はそれだけじゃなかったんだ。
さっきも言ったけど、位階を賜ったのは、将兵。そう、末端の兵まで全に位階が付いたの! 凄いと思わない?
まあ、一般の兵卒は大初位上とかだけど、ただの兵士が位階を得られるなんて普通は考えられないことでしょ? だから、兵たちにとっては、この上ない名誉になったみたい。
既に参戦した者は、正式な位階を得られた高揚感から戦意が上がる。まだ参戦していない者は、期待や嫉妬心から戦意が上がる。
おかげで、軍全体の戦意が爆上がり! 太っ腹な陛下には感謝してもしきれないよ。
あと、ダメ元で「今は戦時下なので、万が一俺が不在の時に、軍の関係者が速やかに参内が叶うように取り計ろうくださいませ」っておねだりしてみたの。そしたら、「三位以上は許さぬが、四位以下であれば自由に任ずるがよい」だって!
限定的とは言え、身分の自由裁量権までもらっちゃった!
ここまでされたら、流石に「将軍だから」って、後方で安穏としてるわけにはいかないでしょ?
おっと! 御座船である『武蔵丸』艦長の角田一元大佐が来たよ。どうやら準備が出来たみたいだ。
俺の前で角田艦長は俺の前で跪くと、報告する。
「上様、準備万端、整いましてございます」
「よし! 出陣いたす!! 皆の者、鬨の声を上げよ!!
鋭!、鋭!」
「「「「「応!!」」」」」
「鋭!、鋭!」
「「「「「応!!」」」」」
「鋭!、鋭!」
「「「「「応おおおおおお!!」」」」」
船から轟く地鳴りのような喚声が港を埋め尽くす。
その余韻が残る中、角田艦長が声をあげた。
「信号旗掲げよ! 機関全速! 帆を張れ! 碇を上げろ!!」
1番艦から順に次々に帆が上がっていく。
そして、折からの南風に後押しされながら、艦隊は滑るように港を後にした。
それじゃあ、気合いを入れていきますかね!
万暦15年(1587年)7月 北直隷 北京順天府 紫禁城
今年に入って、群臣たちは途方に暮れる日々を送っていた。
年末に琉球へ送った4万5千の援軍からは、年始早々『首里城奪回』の第一報が入り、正月の祝賀を盛り上げてくれた。しかし、その後、入ってくるのは悪報ばかりである。
まず、緒戦の朗報以来、琉球遠征軍から一切の連絡が無い。裏切ったのか、殲滅されたのかは分からぬ。しかし、いずれにしても失敗したことは間違いなかろう。
これだけならば、『化外の地へ送った軍が敗れた』というだけの話。それこそ、秦漢の時代から何度も起こったことであり、特に珍しい話ではない。
しかし、今回はそれでは済まなかった。2月以降、これまでに類を見ない規模での倭寇の襲撃が繰り返されるようになったのだ。
まずは、2月に杭州と寧波に万余の倭軍が上陸する。いきなり海陸から攻められた両城に守りを固める余裕は無かった。一日も保たずに落城した杭州と寧波で、倭軍は三日三晩にわたって暴れ回り、蓄えられた富と人とを悉く奪うと、そのまま海へと去っていった。
数日後に駆け付けた援軍が見たのは、破壊し尽くされた市街地のみ。惨敗であった。
あまりの惨状に、被害を受けた浙江地域は激震に襲われるのだが、見ると聞くとでは大違いである。この時点で、北京の朝廷では『また倭寇が暴れている』程度の認識しかもっていなかった。
惨敗の責任を追及するため、浙江の軍担当者の召喚を命じるとともに、沿岸部に『海防を固めるように』と指示を出すのみだったことが、それを如実に物語っている。
ところが、その1月後、すぐに高官たちの甘い認識は覆されることとなる。
『応天府陥落』の報が入ったのだ。
南京応天府は明朝の古都であり、郊外の紫金山には、太祖洪武帝の陵墓も存在する。明の副都ともいうべきこの街は、人口も多く、多数の常備軍も駐屯していた。にもかかわらず、その南京応天府が、ほとんど抵抗も出来ないまま陥落したのである。北京の朝廷に与えた衝撃は、計り知れないものであった。
陥落後に入った詳報によれば、倭軍は3月3日、長江河口の上海鎮に上陸する。すると、後続の船を呼び込んで瞬く間に規模を増し、最終的には5万の大軍となって水陸並行して長江を遡り始めたのである。
南直隷の六部では、独自に7万の兵を集め、京杭大運河を扼す要衝の鎮江で迎え撃つ。しかし、水陸両面からの攻撃に鎧袖一触で蹴散らされ、3月7日、鎮江は倭軍の手に落ちた。
倭軍はそこで留まることなく進軍を続け、南京城前に姿を現したのは3月10日。南京の陥落は、わずか3日後、3月13日のことである。
そして、10日間にわたる略奪により、南京は壊滅的な被害を被ることになった。
孝陵が暴かれることがなかったのが唯一の救いではあるが、それとて倭軍にその意志がなかっただけの話であった。なぜなら、倭軍が去った後、陵の周囲には新たに周壕が掘り巡らされており、脇には『我ら、死者を辱めることを望まず』との高札が掲げられていたからである。
国の面目丸潰れであった。
その後、南京のような大軍による襲撃はなくなったが、5千から1万単位の兵による襲撃は、毎日のように繰り返されていった。
その襲撃範囲は、最初は南直隷・浙江が中心であったが、徐々に南下、5~6月に入ると福建から広東にかけてが中心となっていった。
広範囲に甚大な被害を受けた明側であるが、ただ指を咥えて見ていたわけではない。各地の正規軍や義勇兵たちによる反撃の試みはなされていたのだ。
しかし、倭軍はこれまでの倭寇とは訳が違っていた。これまでに確立してきた戦術が一切通じないのだ。そして、海上で迎撃しようにも、船は浮かべる端から燃やされるか奪われるかするだけ、倭軍の強力な野砲と鳥銃は、接敵する前に味方をなぎ倒し、城に籠もって戦おうが、城門は瞬く間に大砲で打ち破られる……。
なぜか倭軍は、落とした城を恒久的に占領する気が無いようで、略奪するだけで満足して去ってしまうことから、失地こそ無いものの、被害は天文学的に重なり続けていた。
この重大事、本来であれば、皇帝陛下ご臨席の下、朝議を行わねばならぬところであるが、肝心の万暦帝陛下は、滅多に後宮から出てこない。
偶然出てきたところを追いすがり、『南京陥落』の報は上げられた。しかし、陛下は「倭寇の海賊どもに後れを取るとは何事か!」とお怒りになり、南直隷の六部尚書どもを罰するように指示されただけであった。そもそも南直隷の六部尚書たちは倭軍に壊滅させられ、罪に問う相手も存在しなかったのは御愛敬……。
皇帝陛下の指示は何も得られなかった。されど、国を司る者として、手をこまねいて見ているわけにはいかぬ。六部の高官らは、女真に備えて遼東に駐留していた宋応昌・李如松らの精鋭15万を広東に送り、倭軍の追討に当たらせることとした。
その効果は覿面であった。7月に入ってから、倭寇の襲撃は目に見えて減る。軍を派遣していない福建では、散発的に小規模な襲撃が起こっているものの、広東では、「官軍の迫るのを見て、慌てて海に逃れた」との報告も上がってくるようになっていた。
小癪な倭人どもめ、我らが本気を出した途端、逃げの一手とは……。だらしがないものよ。
さて、どのように誅伐してくれようか?
高官たちがそのような議論を始めた矢先、議堂に急使が飛び込んできた。
使者は、息も絶え絶えになりながら、声を限りに叫ぶ。
「わ、倭人の大軍が!!」
「ふん、忌々しい和人どもめ! 今度はどこに現れたのだ? 速やかに広東の兵を動かし、討滅いたすように申し付け……」
「て、天津にございます!」
「は?」
「倭軍の先鋒によって、既に天津は陥落いたしました! 物見によれば、後続の兵船が続々と入港しているとのことにございます!!」
「「「「「はあああああああ!!!!!」」」」」




