第25話 初めての船旅
元亀元年(1570年)10月 常陸国 鹿島郡 松岡則方宅
こんにちは、里見梅王丸こと酒井政明です。初めて国外へ出たよ。あ、『国外』って言っても、上総国の外ね。流石にまだ日本国外には出られないよ!
今回は、義弘さんが、香取神宮、鹿島神宮に請われて禁制(※軍勢の乱妨・狼藉等を禁止した立て札)を出すことになったんで、名代として来たっていうのが表の理由。
義弘さんと松の方さん?
そりゃあもう渋ったさ! だけど、一度土岐家に2人で乗り込んだっていう実績を作っちゃったから、そこを足がかりに説得したんだ。
義弘さんに関しては『約束を守ってない』っていう弱みもあったから、悲しげな顔をして、
「おとうさまは、わたくしとのやくそくなど、どうでもいいと、おかんがえなのですか?」
って、呟いたら、一発だった。
例によって、松の方さんは、ちょっと難航したけど、
「かとり・かしまのりょうじんぐうは、てんしさまも、ちょくしをおくられます。ちちうえがまいれないのですから、こであるわたくしが、みょうだいをつとめねば、ぶれいでございましょう」
って言って説得した。それでも松の方さんは渋ってたけど、俺に負い目のある義弘さんが、警護を500人付けるって、条件を出して納得してもらった。
その警護役だけど、正木時忠さんが務めることになった。
時忠さんは、土気合戦の時に、武射郡を支配していた坂田城主の井田胤徳さんを軍勢ごと無傷で降伏させるとか、たくさん手柄を立てて、正式に香取郡全域を与えられてた。その『お礼』って名目で佐貫に来てたところを、これ幸いと義弘さんに捕まったんだな。
ちょっと申し訳ない気はするけど、神社への奉納品とは別に、大量のミツヒカリを持たせることにしてもらったから、勘弁してほしいね。
陸行3日、水行2日で香取に至る。
ちょっと、『魏志倭人伝』風に言ってみた。
真面目に言うと、時忠さんたちと一緒に、佐貫から久留里、小田喜経由で3日かけて勝浦へ。ここで今生で初めて太平洋を見た。ちょっと感動。そこから船に乗り換えて、2日かけて香取郡の小見川城に入ったんだ。
一応言っとくけど、船中泊はしてないよ。銚子沖だけは『危険だから』って言うんで途中で、船を下ろされたんだ。
こんなところで、うっかり難破して、水死なんかしてたら目も当てられないから、順当な判断だと思うよ。でも、ほうほうの体で山越えしてみたら、目の前にさっきまで乗ってた船が泊まってるんだ。納得して判断した結果とは言え、何かモヤモヤしたね。
あと、船酔いはちょっと心配だったんだけど、全くなる気配は無かった。まあ、義重さんも、酒井政明も、船酔いとは無縁だったから、大丈夫だとは思ってたんだけど、一応ね。
でも、これで、海外進出(脱出?)も問題がないってことがわかった。将来の可能性が大きく広がったよ。
そこから、神宮巡りが始まったんだ。
訪ねてみると、神域として清浄な雰囲気はあるんだけど、全体的に簡素な感じだった。それに、境内に『神宮寺』っていうお寺があって、お坊さんがウロウロしてたり、読経が聞こえてきたりするのは、現代人としてはなんか違和感がある。明治の神仏分離前だから、これが当然なんだろうけどね。
どっちの神宮もなかなか趣があったけど、社殿はずいぶんと痛みがでてた。
元々は、どっちも20年おきに式年遷宮をやってたはずなんだけど、今は武士に神郡を横領されちゃって、とてもそんな余裕はないみたい。
本来なら「里見家が横領した連中から取り返してやる!」って言えればいいんだけど……。なにせ、里見家は横領してる当事者の1人だからね(笑)。
あと、素直に返したら、里見家の収入が激減しちゃうから返せないってのも理由としてある。
とりあえず、今回は奉納品で我慢してもらいたいなぁと。
俺が成長して内政に関われるようになったら、もう少し余裕ができるはずだから、そしたら式年遷宮もしますから、許してください。って柏手打っといた。
すみません! 神罰が下りませんように!
で、鹿島神宮からの帰り道、訪ねたのがこちら、松岡則方さんのお屋敷なんだ。
でも、みんな疑問に思うでしょ?
松岡則方って誰? って。
この松岡則方さん、鹿島神宮の大祝(※祭礼のときの祝詞奏上役)をしてるんだけど、別名、松岡兵庫助って言う剣客なんだ。
鹿島で剣客。ここで、鋭い人はピーンと来たよね?
じゃあ、早速行ってきます!




