第249話 琉球侵攻
天正14年(1586年)10月 琉球国 首里城
琉球王尚永ら琉球王国首脳は決断を迫られていた。
9月29日に「奄美に倭軍襲来」の一報が入ったことから、翌30日には文武百官を集め、降伏か抗戦かを諮るべく会議をもったのである。
ところが会議は進まない。降伏派は「無条件降伏すべし」と言う者と「一戦し、意地を見せてから降伏せよ」と言い出す者で争い始めれば、抗戦派は抗戦派で「明に逃れて捲土重来を図る」と言う者や、「首里城で籠城し、明の援軍を待つのが良い」と主張する者で喧嘩が始まる始末。
数日間にわたり無為な議論を繰り返すうち、遂に一昨日10月4日には、「運天港に倭軍が上陸、今帰仁城も落城」との急報が飛び込んできた。
北山方面に領地を持つ大臣、国頭親方が、二千の兵を率い、慌てて出陣していったが、昨日、恩納で惨敗、親方も討たれたとの報が入った。
倭軍のあまりの精強さを目のあたりにし、一気に流れは降伏に傾く。謝名利山ら明への留学経験のある者は、それでも抗戦を訴えているが、既に大勢は決した。
(これは降伏しかあるまい。さて、如何にして主戦派を黙らせるか……)
王は内心頭を捻る、が、時は王の長考を待ってはくれなかった。まさにその時、議場に1人の男が駆け込んできたのである。
「な、那覇沖に大量のガレオン船が押し寄せております!!」
そして間髪を入れず、『ドンッ、ドンッ、ドンッ』っと、耳をつんざくような轟音が鳴り響く。
「砲撃です。海上から屋良座森城、三重城に猛射を加えております」
「城から反撃はどうした!?」
「恐ろしいほど遠方から砲撃されておりますので、撃っても敵船まで届かないものと思われます」
北山方面に加えて、那覇港からも侵攻されては、勝ち目はおろか、明への逃亡の目すら無い。もはや説得の時間すら惜しい。
王は天を仰ぐと、声を絞り出した。
「……降伏いたす」
「陛下! それは!」
「騒ぐでない! 其方らは分からぬか? 倭軍の強勢ぶりは天を突くが如しじゃ。戦うても無駄な犠牲を増やすだけであろう。そして、捲土重来を期そうにも、このように海陸から迫られては、瞬く間に追いつかれよう。
予が王として出来ることは、もはや敵に礼をもって接することだけ。疾く、降伏の使者を送れ! 残った者は道中を掃き清め、議政殿に倭国の大将をお迎えするのだ!」
10月6日、琉球王降伏。
先陣が薩摩を発ってから、一月も経たぬ。電撃的な決着であった。
天正14年(1586年)12月 常陸国 新治郡 土浦城
「賊徒尚永。これまでの尚家の罪は決して軽くない。しかし、無駄な抵抗はせず、什宝を献上の上、自ら謝罪に参じたことは殊勝である。よって、ここにその罪を許し、琉球王に任じ、新たに立てた沖縄国、宮古国、八重山国の内で7万石を与える」
「……ありがたきしあわせ」
皆さんこんにちは、酒井政明こと里見義信です。
御覧のとおり、降伏した琉球王が謝罪に来たんで、快く許してやった上で、所領まで与えてやったんだ。いや~、俺って慈悲深いな~!
え? 問答無用で攻め込んどいて、『慈悲深い』とか、何を言ってるんだ、って?
いやいや、琉球王は日本国にとっては大罪人だからね。それこそ問答無用で族滅されても文句を言えないくらいのね。
あ、当代の尚永王は何もしてないよ。先祖がちょっとね。
まずね、近いところでは、尚徳王って王様が、奄美大島や喜界島を攻めて、鎌倉以来、郡代を務めてた千竃氏を攻め滅ぼしてるんだ。
まあ、150年ほど前の話だし、奄美を征服した尚徳王は第一尚氏、当代の尚永王は第二尚氏なんで、直接の血のつながりはないんだけどさ。でも、血統が変わっても占領しっぱなしだったんだから、同罪だよね。
ちなみに、鎌倉幕府からこの地域の地頭に任じられてたのが、何を隠そう島津氏だったりする。だから、最初から島津家自体に『奄美群島回復』って大義名分はあったの。
でも、これだけじゃ、琉球王を賊徒として本土まで連行するのは、ちょっと弱いよね?
そこで持ち出した材料が、『琉球王家は源為朝の子孫』って話なんだ。
源為朝は、源頼朝の叔父さんにあたるんだけど、日本史上でも屈指の武者だったとされてる。
少年時代、あんまり乱暴だったんで、父親の為義(※頼朝の祖父さんね)に勘当されて、九州に流されると『鎮西総追捕使』を自称して、九州を征服しちゃった。そのせいで父親が免官になっちゃったの。勘当したはずなのにね(笑)
で、京都に戻った直後、保元の乱が発生する。当然そこでも大暴れ。『弓を射たら1人の鎧武者を貫通し、後ろにいた別の武者の鎧に刺さった』なんて話も伝わってるんだ。でも、藤原頼長の作戦の拙さもあって、結局、戦自体は敗北って形になった。為朝は逃げたけど、湯治中に丸腰なところを捕まって、弓を引けないように腕の筋を切られた上で、伊豆大島に流罪になったんだ。
ところが、しばらくして筋がくっついた(!)為朝は、挙兵して伊豆七島を征服する。九州と違って流罪人が起こした反乱なんで、追討されるんだけど、またもや『300人乗りの船を射抜いて沈める』とか“あたおか”な伝説を残して自害した。とされてるんだ。
ここまでが史実(?)とされてる内容なんだけど、沖縄には『為朝が難を逃れて沖縄に渡り、その子が中山王国初代の舜天王になった』って伝説が残ってたの。
俺自身はさ、こんなの『源義経=ジンギスカン説』みたいな眉唾な話でしかないと思ってるよ。でも、それを琉球王家が利用してた形跡があるんだよね。実際、春に琉球王が送ってきた使者は「王家と同祖の里見家が将軍になったことを祝う」って言ってたし。
だから、これを思いっきり利用させてもらったんだ。だって、為朝はまだ罪人なんだよ? ってことは、琉球は罪人が建てた国になるよね?
てな訳で、
『国外に逃亡した上、本朝の領土を掠めた賊徒を討伐する』
これが、琉球征伐の大義名分だよ。
こんなの言いがかりでしかないのは重々承知してる。でも、ここで帰属関係をはっきりさせとかないと、将来的に領土問題が起こるから、ここは強引に決着を付けたよ。琉球の人達には、とんだとばっちりだけどね。
そうそう、島津義久には、褒美として、奄美群島全域を所領として与えたよ。使わずに残った金穀を全て与えた上でね。で、種子島・屋久島から与論島までを、律令時代に存在してた多禰国として再編しといた。支配国が一国増えた形で、こっちも名誉的な恩賞になるかな。
その代わりって言っちゃあ何だけど、追加で仕事も与えてる。沖縄本島北部にある今帰仁城の整備・拡張と、運天港、本部港の整備だよ。これは南西諸島方面に幕府の出先機関を作るためだね。
実は、今回の琉球出兵では奄美群島以外にも、沖縄本島北部の本部半島周辺を琉球から割譲させてるんだ。ただし、本部半島は幕府直轄領としてね。
何で島津に与えなかったのかって?
琉球の先には、台湾や呂宋島、大陸本土が繋がってるんだよ。琉球を完全に島津に任せちゃったら、そっちに手を出し始めるかもしれないじゃん?
だから、沖縄本島内に幕府直轄領を置くことで、「島津が自由に出来るのは奄美まで!」って、暗に示してやったの。
琉球王国サイドにしても希望が持てるよね。まず、幕府直轄領なら後々戻ってくる可能性があるけど、島津領になっちゃったら、島津が何かしでかさない限り、返してもらえる可能性なんか皆無じゃん?
それに、『幕府が直接、出先機関を設けた』ってことは、『島津に琉球支配を任せたわけじゃない』ってことになる。中間搾取の心配が減ったんだから、多少は安心できるんじゃないかな?
ま、今後どうなるかは、琉球王の心掛け次第だけどね。
それにしても、琉球王をもうちょっと早く連れてこられれば良かったんだけどな。そうすれば、もっと喜んでもらえたのに……。
実はね、20日ほど前の11月半ばには、琉球王は土浦に到着してたの。なのに面会まで1か月近くかかったのは、俺が忌中だったからなんだ。
鋭い人はピンときたかもしれないけど、7月から療養中だった義頼さん。薬石効なく、去る10月20日に亡くなってたの。
今日、琉球王と面会して沙汰を下したのは、四十九日法要が済んで忌明になったからだよ。賊徒状態で長く待たせるたは気の毒だけど、忌中に行事を行うのはもっと好ましくないからね。
義頼さんの最期はどうだったのかって?
それがねぇ、義頼さんの隠居以降、俺、あんまり話せてないんだよね。
あ、見舞いに行かなかったわけじゃないよ?
7月以降では3回、土浦から療養先の上総湊まで足を運んでるんだ。将軍としての執務をしながらだよ? 結構頑張ったと思わない?
でもさ、義頼さん、どんどん具合が悪くなってね。初めの頃ですら、すぐ疲れちゃってしゃべる時間はほとんど取れなかったし、9月以降は痛みが酷くて、モルヒネを多量に使うようになったんで、朦朧とした感じになってることが多かったんだ。亡くなるちょっと前に『琉球王降伏』の報告は出来たけど、その頃はもう寝たきりだったよ。
生前に琉球遠征成功の報告が出来たことと、あまり苦しまずに逝けたのが数少ない救いかもしれないね。
思えば、義頼さんは実の親以上に俺を理解してくれた存在かもしれない。その義頼さんの期待に沿える人間になるためにも、もっと頑張っていかなきゃね。




