第244話 評定の裏で(閑話)
今回は閑話(他者視点)です。
天正14年(1586年)7月 常陸国 新治郡 土浦城 広間
里見家の前当主にして、里見義信の実父である義弘は、高座から義頼の演説の一部始終を眺めていた。
思えば、今年の1月に弟の義頼が将軍宣下を受け、それに伴って、前当主である自分にも『大御所』号が認められた。たったの20余年前には、御家滅亡の瀬戸際まで追い込まれていたのが嘘としか思えぬ夢のような瞬間であった。後は、実子である義信が将軍位を継げるのであれば、いつ死んでも悔いはない。
懸念は義頼にも実子である男子がいることだった。このような場合、得てして御家騒動が起こるものだが、律儀な義頼は正室腹の男児を次々に養子に出していた。「なにも長男・次男を養子に出さずとも」と、思わぬではないが、それこそが御家を守らんとする気持ちの表れであろう。ワシが倒れてしまったばっかりに、『繋ぎの当主』を務めさせることになってしまった義頼には感謝しきりである。
本来ならば、早いうちに解放してやりたいところではあるが、義信はまだ19歳。まあ、義頼も40代であるから、今しばらくは頑張ってもらわねば。
この調子でいけば、義信の将軍位継承を見るのは、あと5年、いや10年はかかるかもしれぬ。一度病に倒れた身ではあるが、それまでは絶対に死ぬわけにはいかぬぞ!
……あの時はこう思っていた。
それがどうだ、先月3月ぶりに土浦に呼び出されたと思えば、そこに現れたのは、まるで幽鬼のようにやつれ果てた義頼であった。
ワシは確かに義信に将軍位を継いでほしいと思っておりました。しかし、義頼をこのような姿にしたいと思っていたわけでは決してございません。御仏よ! どうかお慈悲をお与えくだされ!!
などと親であるワシが取り乱しているというのに、義信は非常に冷静であった。慌てるワシに向かって、
「義頼様にはまずは静養していただくこと。そのためには、私が家督を継がねばなりませぬ。父上、どうかお力添えを」と申すではないか!
うーむ、流石はワシの子じゃ!!
この様子ならば、すぐに将軍を継いでも心配ないわい!
義頼も、安心して休めようというものじゃ!
ワシが感慨に浸っていると、またもや義信が話しかけてきた。なんじゃ?
む? 「後ろ盾が欲しい」とな?
ワシがおるではないか! ワシでは不足と申すか!? なに?
「義父様だけでなく、頼りにしている父上まで倒れられたら大変です!」だと!?
がはははは! 嬉しいことを言ってくれるではないか!
分かった分かった。しかし、先ごろの戦のように、何かあれば父はいつでも出張るから安心しておれ! ……して、誰を後ろ盾に持ってくるのだ?
…………なるほどな。ヤツは確かに実績はあるぞ、しかしだな、 え? それだけではない?
は? 考えてもみなかったが、言われてみれば実績は十分だな。後ろ盾となるなら、この父も異論はない。ただな、義信、彼の者が果たして首を縦に振るか?
え? 策はあるだと? なになに……!
流石はワシの子じゃ!!!!!!
これならば、義頼も安心して静養できようて。
実際、病床の義頼を見舞うた際に、これを聞かせてやったら、憑き物が落ちたような顔になりおった。
義頼よ、色々と苦労をかけたの。今はしっかり休むのじゃぞ?
おっと、色々と思い出しておったら、顔が緩んでしまったわい。そのような時はアイツのいけ好かない顔を思い浮かべて、と。
よし、引き締まった。天下の大御所として、義信の父として、このようなハレの席で、みっともない真似は出来ぬからな。
さて、無事に義頼も役目を果たしたことだし、ここからは義信の晴れ姿をこの目に焼き付けねばの!
義弘の歓喜の一日は始まったばかりである。
天正14年(1586年)7月 常陸国 新治郡 土浦城 広間
満座の中、親藩大名の末席で、笑みを噛み殺しきれない男がもう1人。
ふふふ、流石は義信殿じゃ、目の付け所が違うわい!
拾ってもらったこの身じゃ。子や孫のためにもしっかりと働いてやらねばの!
彼は、自らの出番を今か今かと待つのであった。
天正14年(1586年)7月 常陸国 新治郡 土浦城 奥の間
「前任者が居座っていてはやりづらかろう」
このようなことを言って、涼しい顔で広間を後にした里見義頼であったが、自らの居室である奥の間に入るや否や、膝から崩れた。
万が一に備えて、多めに付き添っていた小姓らの支えがなかったら、その顔は、無残にも畳を舐めていたかもしれぬ。
「義頼様!」
その痛ましい姿を見て急いで立ち上がり、駆け寄ろうとした、正妻の桂の方であったが、義頼は手を挙げてそれを制する。
「……大事ない桂の方よ、お主は身重の身だ。まずは、座っておれ。
……悪いが私は横にならせてもらうぞ」
急いで敷かれた布団に横たわった義頼に、桂の方が言う。
「お前様、お務め御苦労様でございました」
「……おう、何とか最後まで務め上げることが出来たぞ。これで、肩の荷が下りたわい」
「はい、今はゆっくりとお休みくださいませ」
「奥よ、お主にも苦労をかけるな」
「なにを仰いますか。お前様は、ただの土豪の娘であったこの私を、天下人の妻にまでしてくださったのですよ。この程度の苦労など、ただの役得でございますよ」
「……ふふふ、嬉しいことを言ってくれるではないか。しばらく休んでまた力を付けたら、季候の良い上総湊に移って静養だ。今度は驚くほど暇になろうから、奥や子らと過ごす時間も増えよう」
「はい、楽しみにしております」
「……うん。奥よ、今日は疲れた。悪いがこれで休ませてもらうぞ」
「はい、しっかりとお休みください」
「…………」
義頼が寝入ったのを見届けて、桂の方は部屋を出た。
「お前様、本当にお疲れ様でした」
去り際にこう呟いた彼女の目からは、涙が一筋こぼれ落ちていた。




