第236話 秀吉の逃避行(閑話)
第三者視点です。
ちょっと長め。
天正13年(1585年)11月30日 早朝 近江国 坂田郡 長浜城外
少しばかり時を遡る……。
関ヶ原を逃れた秀吉は、白み始めた田中の小径を長浜城へと急いでいた。付き従うのは片桐直盛(※且元)、加藤茂勝(※嘉明)ら10数名のみである。元領主の強みで地元民しか知らぬ間道を伝ったため、思いのほか時間がかかってしまった。しかし、その甲斐あって、追っ手は完全に撒けたようだ。これならば程なく長浜に入城できそうである。
しかし、その考えは八条山の裾を回ったところで脆くも瓦解した。自らが丹精込めて築き上げた長浜城、つい先日まで湖水に優美な姿を映していたはずの、その自慢の天守が影も形も無いではないか。
これも地震のせいであろう。自らの不運に歯がみしつつ、秀吉は1里の道を駆け抜け、早くも四半刻後には城外にたどり着いた。
しかし、己の目で見る城下の惨状は、彼の予想を遥かに超えていた。しかも、夜が白んできたにもかかわらず、将兵たちは右往左往するばかりで、まともに手が打たれているようには思えない。聡い彼は、瞬時に容易ならざる事態が起こっていることを察した。
「片桐直盛、伝令を装って城へ入り、何が起こっているか聞いてまいれ。ただし、裏切り者が出ているやもしれぬゆえ、儂がここにいることを伝えることは罷りならぬ」
「はっ!」
「加藤茂勝、万が一に備えて、米川の川口に船を回しておけ。我らが乗れる大きさであれば良い。水夫も忘れずにな」
「はっ!」
しばらくして憔悴した表情で戻ってきた直盛。その表情に最悪の事態を予測した秀吉であったが、聞かないことには先に進めない。勇気を絞って回答を促す。
しかし、返ってきた答えは“最悪”の、そのさらに上を行っていた。
「三法師様は昨晩の地震による城の倒壊に巻き込まれ、御逝去なさいました。また、強く責任をお感じになった羽柴秀勝様は、『義父上に顔向けできぬ』と仰せになり、側近が止めるのも聞かず、つい先程切腹された由にございます」
直盛の言葉を聞いた秀吉は、怒りを通り越して、もはや呆然とするしかなかった。
「……秀勝、なんと早まったことを」
こう呟いて、しばらく天を仰いでいた秀吉であるが、状況を動かしたのは、またしても直盛のこの一言であった。
「秀吉様、お弔いは如何様に……」
「直盛、戯けたことを申すでない! ほれ、あれを見よ! 弔いをいたす前に里見が押し寄せて参るわ!!」
南の方を示した秀吉の指の向こうでは、佐和山城が燃えていた。
佐和山が落ちてしまえば、ここ長浜でいくら頑張ろうが袋の鼠同然である。しかも籠城しようにも、城が崩壊した状態ではどうしようもない。まだ窮地が続いていたことに初めて気付き、言葉も無く押し黙ってしまった直盛たちに、秀吉は言う。
「こうなっては是非も無し。謀反人どもに対抗するために、まずは安土に向かい吉丸君(※織田秀則)を奉ずるのだ。そして、甲賀郡の宮部継潤ら3万を併せ西国に向かうぞ。船の用意はできておる。急げ!!」
「「「……はっ!」」」
一行は安土に向けて足早かつ秘密裏に出立した。秀吉以外の全ての者の心に釈然としない思いを残しつつ、ではあったが……。
天正13年(1585年)11月30日 午後 近江国 蒲生郡 安土城
秀吉一行の姿は、安土城に面した中の湖の港にあった。そこに、秀吉来着の報を受け、安土城を預かる杉原定利が現れる。
「秀吉殿、よくぞ御無事で……」
「いやあ、杉原定利殿、昨晩は誠に酷い揺れでしたな。安土の様子が心配になり、忍びで確認に参りましたが、この様子でしたら大丈夫そうですな! いや、結構結構!! ところで、この揺れで壊れた部分の普請など、ちと相談したき儀がござるゆえ、急ぎで部屋を取っていただきたい」
「おお! そのようなことならばいくらでも」
心配げな定利の顔を見るに、既に関ヶ原での敗報が噂として入っているのであろう。秀吉は内心歯がみしつつも、大声で努めて明るく振る舞うことで、噂が虚報であるかのように見せようとする。
その様子を見て、定利の周囲には安堵の空気が流れた。その多少弛緩した空気の中、悠然と城内に入った秀吉は、用意された部屋に人払いをかけると密談にかかった。
「定利殿。決して大声は上げてくださるな。関ヶ原にてお味方は壊滅いたした」
「なッ! ……失礼した。朝方から流れておった噂は真であったか……」
「どのような噂が?」
「『関ヶ原でお味方が大敗、秀吉殿は亡くなった。大垣城も落ちた。長浜城が炎上し、三法師様は亡くなられた』などというものでござる」
「『儂の死』以外は全て事実じゃ。報告が上がる前に逃れたゆえ、大垣城は分からぬが、あの状況であれば間違いなく落ちているじゃろうな。それにしても噂が流れるのが早すぎる。これは里見の手が回っておるやもしれぬ」
「それで、いかがなさる。噂が流れて以来逃散する者が後を絶たず、7千いた兵も今では5千を割っておるぞ?」
腕を組んで何やら考え始めた秀吉であったが、想定外の事実を知って焦る杉原定利によってすぐに現実に引き戻される。
噂だけで逃亡者が出ているような現状では、安土を守るのは難しい。そもそも、安土城は見せるための城で、防衛には向いていないのだ。そう考えた秀吉は瞬時に判断を下す。
「取りあえず西国へ下り再起を期したいと思うておりまする。ついては定利殿にも同道を願いたい」
「しかし、動くとなれば、さらに脱落する者が出ぬか?」
「譜代の家臣のみを連れ、船で移動すれば何とかなろう。また、安土の船を全て徴発し、使うた船は大津で焼き捨てればよい。ついでに瀬田の唐橋も焼き払えば、敵の追撃はかなり遅らせられよう」
「そうすると、甲賀郡の宮部継潤らはいかがいたす?」
「宮部継潤らには、まだ働いてもらわねばならぬ。『信楽街道を使うて宇治方面に退くように』と伝えよう。よし、そうと決まれば儂はすぐに手紙を書く。定利殿は儂の護衛という名目で、家中の信頼できる連中を集めてくれ。それと、吉丸様もお連れする。三法師様亡き今我らの旗頭になってもらわねばならぬでな」
「うむ、確と承った!」
杉原定利は早速部屋を出て行く。それを見送って、秀吉もすぐに宮部継潤宛の手紙を認め始めた。と、すぐに血相を変えた定利が戻ってくる。
「秀吉殿、吉丸様がおらぬ! 間違いなく先刻まではいらしたのだが……」
「……これは! ここまで里見の手は伸びておったか!! うかうかしてはおられぬ。定利殿、吉丸様の捜索は無しじゃ。一刻も早く瀬田川を越えねばならぬ。最優先で同行する者の人選を頼む!!」
「お、おう!」
秀吉たち1千名が安土の港を発ったのは、僅か半刻後のことであった。
天正13年(1585年)12月1日 朝 山城国 宇治郡 大津街道
翌日。一夜の宿を借りた山科の勧修寺を出た秀吉一行は、大津街道を伏見に向けて進んでいた。
伏見に出てしまえば、後は淀川を下るだけで大坂に着く。大坂に着きさえすれば、本領の姫路もすぐだし、海を使って毛利や四国・九州の諸将の助太刀を得ることも出来るのである。『あと一歩』そんな思いで歩みを進めていたとき、先行して斥候を務めていた加藤茂勝が血相を変えて戻ってきた。
「報告! 前方より大軍が迫っております。旗印は木瓜と桔梗にございます」
「それは紀州の織田信張様と蜂屋頼隆殿の軍勢であろう。大坂表の増田長盛より報告を受けておる。ここで出会えたのは有り難い。早速合流しようではないか! 加藤茂勝、引き続き使者に立ってくれ」
「はっ!」
「定利殿、これでひとまずは安心でござるな!」
「いや、正に正に。昨日から生きた心地がせなんだが、これでようやく枕を高くして寝られそうじゃ」
「それに、信張様は信長様とは別家なれど、間違いなく織田家の御一門。戦功も十分なれば、我らの旗頭とすることも出来よう」
「然り然り!」
一行がこのような軽口を叩いていると、間もなく加藤茂勝が戻ってきた。聞けば、快く迎え入れてくれるとのこと。秀吉ら諸将は喜び勇んで、紀州勢の本陣に向かうのであった。
「秀吉殿、よくぞお越しくださった。謀反人を討つために出陣したものの、遅れてしもうたのではないかとヒヤヒヤしておりました。それがこのような機会を頂戴できるとは、のう、蜂屋頼隆殿」
「いや、織田信張様の仰るとおり」
「そこまで仰っていただけるとは、何とも心強い! 力を併せ、謀反人を討ちましょうぞ!」
「おうさ! では早速動こうかの」
ここまで言って一度言葉を切った織田信張は、大きく息を吸うと辺りに轟く大音声で叫ぶ。
「皆の者! 謀反人どもを捕らえよ!!」
「「「応!!」」」
予め陣幕の外に潜んでいたのであろう。雪崩れ込んできた兵士たちに、抵抗する間もなく秀吉一行は捕らえられたのである。
「何をするか!」
「ははははは、天下の大悪人もこうなっては形無しよな。それにしても、信孝殿を唆し、信包殿と信雄殿を討たせた上で、その信孝殿を殺して織田家の実権を握るとはよくぞ考えたものよ」
「何を戯けたことを申すか!!」
「ははは、無駄無駄、いくら吼えても証拠は挙がっておるのだ。それにしても、『里見家と事を構えよう』などと考えねば、もう少し長生きできたかもしれぬのにの。阿呆なことをしたものよ」
「そ、それはどういう……」
「信張様!」
ここで脇に控えていた蜂屋頼隆が口を開く。頼隆とは数年来友誼を結んでいたこともあって、その言葉に期待をかける秀吉であった。が、彼の言葉は、文字通り秀吉を地獄に叩き込むものであった。
「信張様! このまま生かしておいて、逃げられたら元も子もありませぬ。すぐに首を打つべきかと」
「その通りじゃ! 流石は蜂屋頼隆殿じゃわい!」
「はい、罵るのは首になってからでも出来ますゆえ」
「よし! この場で首を刎ねよ」
「ま、待ってくれ、いや、待ってくだされ!! 儂が……」
「問答無用!」
何かを喚きかけた秀吉であったが、全てを語ることなくその首は宙を舞っていた。
右近衞権少将 羽柴秀吉死す。陰謀をもって織田家を牛耳った男の、呆気ない最期であった。




