第23話 土気合戦(閑話) ※地図あり
合戦シーン、人が死ぬシーンがあります。
※後書きに概略図を載せてあります。
元亀元年(1570年)7月 相模国西郡(※足柄下郡) 小田原城
「氏政殿、これを見てみよ」
「はい、父上(※北条氏康)。…………なっ! 土岐為頼、裏切りでございますか!? こうなっては是非も無し! 早速、人質を処さねば!」
「まあ、待たれよ。『裏切り』であったなら、それで良かったのだがな」
「?」
「よく見てみよ。土岐が里見としたのはあくまで『和睦』じゃ」
「それが裏切りではないと?」
「なんじゃ、分からぬか? 北条家と里見は、長らく戦っておる。そして、北条家と万喜の土岐家は盟約を結んでおる。目的は里見に対抗するためじゃった」
「はい」
「あくまでもこれは盟約であって、臣従の約束ではないのじゃ。土岐家が家臣なら、間違いなく裏切りじゃが、相手は小なりとはいえ同盟者。北条家としては『里見が攻めてきても助けてやらぬぞ!』と脅すことしか出来ぬ」
「なんと!」
「しかも、盟約を結んでおりながら、万余の軍に囲まれた土岐領に援軍を派遣できておらなんだ」
「しかし! もう少し粘っておれば、千葉や酒井の援軍が届きましたものを!」
「こうなっては詮無きことじゃ。此度は、当家が里見に先を越されたことは事実。まあ、悪いことばかりではない、幸いなことに土岐との盟約はまだ生きておる。こちらが下手なことをせぬかぎり、里見と共に攻めてくることはあるまい。それにほれ、土岐は『里見との和睦を仲介する用意がある』とも書いておる。だから、この状況をどう生かしていくかを考えねばならぬ」
「なるほど……」
「それにしても痛いな。3千を動員できる土岐家は、里見の喉元に刺さった棘じゃった。その土岐家を気にせずに、里見が動き始めることになれば、上総はもとより、下総も危うい。小弓の原や、東金の酒井、坂田の井田あたりには、城を固めるように指示をせねばなるまい」
「たしかに。今年はともかく、来年には、また香取方面への乱入があるかもしれませんな!」
「うむ、早速書状を……」
書状を書こうと氏康が右筆を呼びつけようとした時、せわしなく廊下を走る足音が聞こえてきた。足音は襖の前で止まった。何事か起こったのは間違いない。身の危険を感じた、2人は刀をつかみ立ち上がる。
誰何の声に応えたのは、聞き慣れた小姓の声。慌てているとは言え、足音も1つであったし、どうやら命の危険はなさそうである。
2人は改めて着座し、小姓に入室を促した。
返事を待つ時間も惜しそうに、慌てて入ってきた小姓は、いきなり話し始めた。
「御隠居様! 殿! 一大事にございます!!」
「いかがした!」
「はッ! 申し上げます……」
元亀元年(1570年)7月 上総国山辺郡 土気城外
東金城主 酒井政辰、成東城主 千葉正胤、坂田城主 井田胤徳、八日市場城主 押田胤定ら、山辺郡、武射郡、匝瑳郡といった東総地域の小領主による連合軍3千5百は、里見方に属する酒井胤治の土気城を攻めるべく、結集していた。
彼らは本来、土岐家の万喜城を救うべく派遣された先遣隊であった。しかし、万喜城を囲む里見勢は1万余との話である。さらに庁南城の武田豊信率いる3千と、酒井胤治の1千が増援として南下を始めたとの報も入っていた。総勢1万5千近い軍勢に、寄り合い所帯の3千5百が当たっては毛頭勝ち目がない。そもそも勝ったからと言って、手伝い戦の彼らには、何の実入りがあるわけではないのだ。士気など上がろうはずもない。そんな状況で彼らが取った作戦は、空き巣狙いだった。
目の前にある土気城は土気酒井氏の本拠、得られる財貨は期待できる。しかも、城主自ら多くの城兵を率いて援軍に出ており、残された城兵はたかだか3百程度、寄せ集めとは言え、十倍を超える兵力でかかれば十分に落とせよう。急報に驚いて城主酒井胤治が引き返してきても、十分に勝機はある。「万喜城を囲む里見勢を減らそうと考えた」と言えば、北条家や千葉宗家にも申し訳は立つのではないか。そんな打算から始まった戦だった。
諸将は物見の報告により、城主酒井胤治が茂原の藻原寺に入ったことを確認すると、参集していた東金城を発った。そして、その日のうちに土気城の大手門前に陣を敷くと、火の出るような勢いで攻撃を開始した。
土気城の3方は切り立った断崖であり、唯一平坦な大手門側にも深く空堀が掘られている。土気酒井家はこの堅城に篭もり、北条や里見の大軍を幾度となく跳ね返してきた。留守を守るは、城主の嫡男である伯耆守康治。親に劣らぬ名将である。
しかし、此度は、いつもとは些か勝手が違っていた。城主が麾下の将兵の大半を率いて万喜城攻略のために出陣しているのだ。
いくら堅城とは言え、守り手の少なさは如何ともしがたい。攻め手側の連合軍は、先手の兵が一時は塀を乗り越えるなど、終始優勢に戦いを進める。だが、守将の伯耆守も必死の防戦、侵入した攻め手の兵を何とか押し返し、日没によって、この日の攻防は痛み分けとなった。
その夜の攻め手側の軍議は和気藹々とした物になった。物見の報告によれば、城主胤治の軍勢は慌てた様子で日没直前に藻原寺に戻ったとのこと。しかし、茂原からこの土気まで軍勢を動かすには、急いでも2刻はかかる。しかも、胤治の手勢は1千しかいないのだ。倍以上の相手に正面から夜襲をかけてくることはまずあるまい。
問題は胤治に入城を許すことだ。今でも攻めあぐねているのに、守り手に1千の兵が加わっては、城の攻略などおぼつかない。
では、胤治はどこを狙ってくるか? 大手門側に全軍が集結しているのは、伝令を受けて胤治も知っていよう。だから、大軍が陣を構える大手を避けて、搦手側から入城しようとするに違いない。
夜のうちにこっそり搦め手側に網を張っておけば、上手くいけば一網打尽、悪くても入城は阻止できるに違いない。
よって、この日の軍議では、酒井胤治の入城を阻止するため、井田勢1千が搦手側に回り、夜を徹しての警戒にあたる。そして、他の2千5百は、しっかりと英気を養い、日の出とともに、交代で力攻めをかける。
このような策が定められ、各隊は持ち場に散っていった。
今日の調子で攻めるなら、上手くいけば明日中に城を落とせるかもしれない。そんな高揚からか、その日の夕餉は豪勢な物となった。酒もついて、嫌が応にも、明日の戦果を期待するものであった。
翌朝、朝餉の支度をするべく、起き出したある兵は、外が騒がしいことに気付いた。不審に思って陣幕をめくれば、そこにはどこから湧き出したのか、雲霞のごとき大軍が! 驚いて声を上げようとするも、その役割は果たせなかった。一条の矢が彼の喉元を貫いたのだ。
寝起きに矢の雨を注がれ、混乱を来したところに陣幕を破って敵兵が突撃してきた。
すわ! 土気酒井の朝駆けか!? 微睡みから醒めた将たちが、陣を立て直すべく攻め寄せる敵の旗印を見れば、天から降ったか地から湧いたか。土気酒井の左三ツ巴を先頭に、二つ引両に、割菱。万喜城を囲んでいたはずの里見と庁南武田の軍勢まで揃っている。
事、ここに至って、諸将は気付いた、自分たちは完全に嵌められたのだと。
南と西から押し寄せる里見と武田の大軍、加えて、城の守備兵たちも昨日の借りを返すべく、大手門を開いて果敢に打って出る。昨日の勇猛な狼たちはどこへ消えたか、今朝の有様は狼に追われた羊のごとし。完全に戦意を消失した将兵たちは、取るものも取りあえず、唯一包囲網の開いた北東へ向かって走り出す。
しかし、それは彼らの寿命を少し延ばしただけに過ぎなかった。確かに北東には敵兵がいなかった。ただし、それは敵が情けをかけてくれた訳ではなかった。配置できなかった、いや、配置する必要がなかったのだ。
北東へ向かって走る先頭の兵の前で、いきなり台地が途切れた。彼は足を止めようとするが、後ろから来た兵士に押されて転落した。押した兵士が気付いて叫ぶも、恐慌を来した兵に、言葉は通じない。彼も押されて転落していった。
それは、追撃する敵軍に追いつかれた将兵が、降伏を決意するまで続くことになる。
なお、転落した将兵たちも、全員が三途の川を渡ったわけではない。幸いなことに、落ちたのは『崖』というよりも、『急傾斜地』と言って良い場所だったからだ。打ち所が悪かった者、後から来た兵に踏み潰された者は多かったが、それなりの人数が崖下にたどり着き、生き延びることは出来た。
だからといって、それが幸せだったかどうかは分からない。転げ落ちてきた先に待っていたのは、完全武装の左三ツ巴の旗印。卑怯な空き巣狙いの被害を被り、悪鬼どもに復讐せんと憎悪を燃やす酒井胤治が本隊だった。
完全に戦意を喪失した連合軍の将兵たちは、ことごとく捕らえられることとなった。
さて、悲惨な運命を辿った攻城側で、唯一組織的に行動できた部隊がある。搦手側に回っていた坂田城主 井田胤徳の軍勢だ。
彼らは酒井胤治の入城を阻止するという目的があったため、夜間に陣を移動していた。さらに、城よりも低い位置に陣を張らなければいけないこともあって、酒宴に興じる他部隊を尻目に、厳重な夜襲警戒態勢を敷いていたのだ。そのため、いち早く朝駆けに気付くことは出来た。と、同時に、自分たちの軍勢で戦局を変えるのは如何ともしがたいことにも気付いた。
ここで悩むことは愚将の行い、自らと家臣の命を救うには、三十六計逃げるにしかず。胤徳は退陣を決意した。
「金も兵糧もくれてやれ、武器と馬さえあれば良い、敵の大軍が来る前に、東金城に逃げ込むのだ」
こう指示をすると、先頭に立って逃げ出した。
追撃に怯えつつも、急ぎに急いで1里半の道を駆け、朝靄の中に東金城が見えたとき、そこに翻る旗印を見て、彼は仰天した。あれは三つ引両、正木の旗印ではないか!
東金までもが落ちているとなると、東金から成東と続く山手側の街道を通れば、どこで発見されて追撃を食らうか分からない。少々遠回りにはなるが、九十九里平野の中央部を貫く間道を伝って坂田を目指すことにした。
そして、ほとんど飲まず食わずで三里の道を駆け抜け、たどり着いた坂田城を見て、彼は絶望した。坂田城にも三つ引両の旗が林立していたのである。
悄然と坂田城下に進んだ彼は、坂田城を占領していた正木時忠に降伏した。井田胤徳の長い長い一日は終わったのである。
この戦で、当主と主要家臣を失い、没落したり、当主は無事でも多くの家臣を失い大きく勢力を減退させたりした国人が多数現れた。そして、多くの北条方の国人が力を失ったことで、九十九里地域の勢力図は一夜にして里見方に大きく塗り替えられることになったのである。




