第226話 謀(はかりごと)
天正13年(1585年)8月15日 近江国 蒲生郡 安土城 羽柴秀吉屋敷
羽柴邸の奥の間には秀吉の腹心たちが詰めていた。
一座を代表して、弟である長秀が主君の出世を言祝ぐ。
「殿、任官と御執政への就任、おめでとうございます」
「「「おめでとうございます」」」
秀吉は一同の祝辞を鷹揚に受けると、表情を引き締めて話し始めた。
「うむ、裸一貫からここまでのし上がって来られたのじゃ。これだけでも十分に有り難いことである。しかし、信長様の遺志を引き継ぐ我らにとって、今の状況はまだ始まりに過ぎぬ。早々に面従腹背の者どもの牙を抜き、この日ノ本を安定させねばならぬ」
「なるほど、確かに我らにとって東国は別世界にござるな」
「黒田孝高、気が早いことを申すでない、東国だけではないぞ? 畿内や西国は落ち着いたが、間の中国とて怪しい物じゃ。ま、東国が何とかなれば、中国はどうにでも動かせようがな」
「さすれば、此度の論功行賞は惜しゅうございましたな」
「そうじゃな、信義殿が領地の加増を望んでさえいれば、“褒賞”の名目で西国に領地を移し替えられたのだが……。欲が無さ過ぎるのにも困ったものよ。何ぞ良い方策はないものかの」
その時、末席に控えていた福島正則が口を開いた。
「日ノ本を制した我らにとって関東の田舎侍など屁でもございませぬ。難しいことを考えず、攻め潰してしまえばよい話でござろう」
あまりの軽率な発言に、流石の秀吉も呆れて目を見開く。
(親類だと思うて参加させてはみたが、ちと早まったかもしれぬ。これは窘めてやらぬといかん)
叱責しようと口を開きかけたところで、別の方から声が飛んできた。声の主は黒田孝高である。
「……なるほど、一理はあるかもしれませぬ。ま、どう足掻いても二理はございませぬが」
「孝高、それはどういうことじゃ?」
「『攻撃するぞ』と脅してやればよいのです。それで、里見が屈服するならば、領地を関東から動かしてしまえばよろしいでしょうし、屈服しないなら福島正則殿の言うとおり攻め潰してしまうのも一興かと」
「しかし、我らには大義名分が無いぞ?」
至極尤もな疑問を投げかける秀吉に、官兵衛はさらりと答えた。
「そのような物、作ってしまえばよいのです。今でしたら『滝川一益の一門を匿うている嫌疑あり』など最適でございましょう。なにせ、里見家は立場上一益と関係が深うござった。それに一益の与力だった者も多く抱えておりますれば、突いてみれば、存外“真実”になるやもしれませんぞ?」
「では、早速詰問の使者を出すか?」
「それはお待ちくだされ。里見は軍配者である畠山義長が明日をも知れぬ状態と聞きます。軍配者を喪い、軍制が整わぬであろう今年のうちに手を打つことは某も賛成にござる。しかし、今は拙い。今、畿内周辺には10万近い里見の軍勢がおりまする。万が一それが暴れだせば、こちらもタダでは済みませぬ。ですから、その軍勢を一度国元に帰し、出来れば冬を待ってから使者を送られるがよろしいかと」
「なるほど、冬か! 里見勢の半分は奥羽の兵、冬になれば身動きが取れぬ。考えたものじゃ!!」
喜ぶ秀吉であったが、ここで弟の長秀が待ったをかけた。
「殿、お待ちくだされ。奥羽の軍勢が動けずとも、里見は10万近い兵を動員できまする。策を確実にするためには、出来ればもう一手欲しいところでござる」
確かに長秀の言うとおりである。そして、冬の間は奥羽の兵は動かないかもしれないが、春になるまで持ちこたえられてしまえば、こちらの有利は消える。そして里見には持ちこたえるだけの力があるのだ。
秀吉は少し頭を捻った後、ポンと手を打つ。
「北条家を動かすのはどうじゃ?」
「それが出来れば万人力でござる。しかし、信義殿の正室は北条家の出、北条を動かすのは難しいのではございませんか?」
「いや、味方にならずとも敵に回らねばよいのじゃ。それに、氏光や氏直はわからぬが、善光寺に押し込められておる前当主の氏政は滝川に遺恨があろう。焚き付けてやれば寝返らんとも限らぬぞ? それに儂は北条家にもちと伝手があっての。おい、清正、風間隼人を連れてまいれ」
「はっ!」
秀吉の指示を受けた清正は、しばらくして一人の風采の上がらぬ男を連れて戻ってきた。
「隼人よ、其方は以前北条に仕えておったと聞いたが、まだ伝手はあるか?」
「はい、数年連絡をとってはおりませんが、そのまま残った者もおりますので、今でも連絡を付けることはできるかと」
「よし、ではお主に使者を任すことといたす。上手く成し遂げたら、その“残った者”とやらも召し抱えて使わすゆえ、気張れよ?」
「有り難き幸せ! 必ずや成し遂げて御覧に入れまする」
「詳しくは追って沙汰をいたす。下がっておれ」
「はっ!」
風間隼人は短く返事をすると奥の間から下がっていった。その足音が遠く消えたのを確認し、秀吉は口を開く。
「聞いての通りじゃ。氏政がどう動くかは分からぬが、上手くいけばこれで楔が打ち込めよう。しかし氏政の回答を待っていては遅れが出る。それゆえ、我らの軍勢は解散させず、京の周辺に留め置くぞ」
「しかし、それでは諸将に警戒されるのではありませんか?」
「『畿内を守る城と街道の整備を行う』という名目でも付けておけばよい」
「なるほど。道理にござる」
皆が納得したのを見て、秀吉は満足そうに頷く。そして、改めて顔を引き締めると言った。
「皆の者。分かっているとは思うが、この場での話は他言無用ぞ! 親しい朋輩や父母、妻子であろうと漏らすことはあいならぬ。正則、清正、分かったな?」
「な! なぜ我らのみ」
「そうですぞ! 正則と一緒にされては困ります!!」
「何だと! 清正!!」
「止めい! そういうところじゃ!!」
「「…………」」
「お主らには、この羽柴の家を背負うてもらわねばならぬのだ。この仕事を成し遂げ、我らの期待に応えてみせよ!」
「「はっ!」」
天正13年(1585年)8月15日 夜 近江国 蒲生郡 安土城 里見屋敷
「…………と言うことでございます」
「隼人、助かった。御苦労だったな」
「信義様……! 秀吉の近くに控えていながら滝川様の件を気付くことが出来なかった某には勿体ないお言葉にございます」
「いやいや、あれはあちらが上手だっただけの話だ。気に病まずともよい。しかし、これで秀吉の信頼も上がるであろう。きっと、さらに動きやすくなるに違いないから、今後ともよろしく頼むぞ」
「はっ! ところで、北条家にはどのように対応なさいますか」
「氏政殿には『羽柴秀吉が里見を潰そうと企んでいるようだから、話に乗ったふりをしてくだされ。上手く行けば、きっと相模への帰還が出来るようになりまする』とでも手紙を出しておこう。流石の氏政殿も今回は信じてくれるであろう」
「ははは、前回は若様の手紙を無視して酷い目に遭っておりますからな」
「流石に今回は信じてもらわねば困る。鶴を悲しませてしまうのは、ちと心苦しいでな」
「「はははははは」」
「そうそう、隼人よ、川中島に行ったら、ついでに秩父の所領も見てくるとよい。役目柄ほとんど帰れていないであろう。それで何か困ったことがあれば、必ず申せ」
「……恐悦至極にございます!」
皆さんこんばんは、梅王丸改め 里見弾正忠信義こと酒井政明です。
秀吉の野郎、いきなりやらかしてくれましたよ。大人しくしとくなら見逃してやろうかとも思ってたんだけど、早速里見に手を突っ込んでくるとはね。
こんな舐めた真似をしてくれた以上、それなりの落とし前を付けてもらおうじゃないの。
さあ、忙しくなるよ!
天正13年(1585年)9月3日 遠江国 敷知郡 浜松城
関東へと帰還する途上で浜松城に立ち寄っていた里見信義一行。彼らが去った直後、入れ替わるように城を訪れたのは、秀吉の老臣 前野長康であった。
実施的な城の主である徳姫に面会を求めた長康は、目通りするなり一通の書簡を手渡した。怪訝な様子で書簡を開いた徳姫であったが、読み進めるうちに表情がみるみるうちに強ばっていく。
「前野長康、これは真か!」
「徳姫様に申し上げます。確実な話ではございませぬが、里見家には説明を求める必要があるものと考えておりまする。しかし『火のないところに煙は立たぬ』とも申しますゆえ、“まさか”のこともありうるかと」
「兄上と叔父上の命を奪った謀反人の片割れなど許してはおけぬ! 我ら徳川家は討伐の先鋒を務めようではないか! 早速兵を挙げる!!」
「お、お待ちくだされ! まだ、嫌疑がはっきりしたわけではございませぬ。これから詰問の使者を出しますゆえ、挙兵はお待ちくだされ」
「さよか? では、いつでも出陣が叶うよう街道や港湾整備の名目で兵を集めておく。出陣が決まった暁には、何よりも早く連絡をよこすのじゃぞ? 徳川家の底力を憎き謀反人どもに見せつけてくれようぞ!」
「有り難きお言葉かな! 三法師様もきっとお喜びくださるでしょう!!」
長康を見送った徳姫は、酒井忠次ら重臣を集めると、分国内に動員をかけるよう指示を出した。
平和になったように見える天下。しかし、水面下では激しいうねりが生じ始めていた。




