第217話 信義流“説得術”
天正13年(1585年)4月 上総国 伊隅郡 万喜城
皆さんこんにちは、梅王丸改め 里見上総介信義こと酒井政明です。
曾祖父の土岐為頼さんが危ないって聞いて、北海道から関東に戻ってきたんだけど、本人に会ったら本格的にヤバかったよ。
ただ、『病気が酷い』って言うよりは、『自分はもう死ぬって思ってる』or『生きる気力をなくしてる』って感じっぽい。周囲の人達はそれに気付いて考えを改めるように話したみたいなんだけど、本人が『もう死期が近い』って信じ込んじゃってて、全く話が通じないんだって。
為頼さんは90過ぎ。現代だって長寿な部類なんだけど、こんな風に弱っていくのは見てられない。だから、ちょっと策を弄してみましょうかね。
「曾祖父様、里見信義、蝦夷地より戻ってまいりました」
「……なに!? ……蝦夷地とな?」
「はい。一昨年、乱心した安東愛季を誅しまして以来、蝦夷地の差配も当家が任されることとなりました。面倒ですが、誰かがせねばならぬことゆえ、2月ほど、出かけて参りました」
「……安東愛季を斬った話は痛快であった。また聞かせてもらえぬか?」
「はい、あれは、陸奥の不来方での論功行賞の折……」
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結局この日は、安東愛季の乱心から始まって、蝦夷地の様子に繋げて、先日もらった羆の毛皮の話で〆た。本当はもっと引き出しはあるんだけど、『為頼さんの体調を考慮して』って名目で、途中でぶった切ったんだ。
為頼さん? いたく不満げだったよ。「もっと話をしろ」ってね。だけど、「こんな体調では長く話を聞かせられない」って言われて、渋々引き下がったんだ。
ちなみにその日、為頼さんは、俺のお土産の昆布と貝柱でダシを取った重湯をすすり、あまりの旨さに目を丸くしてたんだって。
次の日は、羆の毛皮の現物を見せた後、蝦夷地の旨い物の話に繋げた。そしたら、その日は、昨日と同じ出汁を使ったお粥が食べられるようになった。
そんな感じで日々話を続けていくうちに、為頼さんはいろんな物を口にするようになり、10日もすると自分で起き上がれるぐらいまで回復しちゃった。ちょっと前まで寝たきりみたいになってたなんて、とても信じられないぐらいだったよ。
きっと、こんなにも弱っちゃったのは、『自分が高齢だ』って自覚があるから、『もう死ぬもんだ』って固定観念に駆られちゃったのと、「もうお迎えが近い」って口にすると、会う人会う人が皆「縁起でもないことを言うな!」って、自分の話を否定してくるんで、意固地になってたみたいなとこもあったんだろうね。
そんな中、俺はまず興味のある話で釣って気力を増やし、さらに、旨い物で食欲を湧かせたんだ。
食事が出来るようになれば、体力が戻ってくる。体力が戻ってくれば、さらに気力も増す。こんな好循環に乗せることが出来たのが勝因だね。うーん、それにしても食い物の力(?)って凄い!
―――――――― 3日後 ――――――――
今日は里見家・土岐家合同の快気祝いだよ。なんと、義頼さんまで参加して、めっちゃ盛大に行われることになっちゃった。
実は、義頼さんは『為頼さんが危ない』って聞いて、超特急で仕事を熟し、何とかスケジュールを空けて、見舞いのために土浦を発った。なにせ、義頼さんにとっても祖父に当たるからね。
それが、万喜城に近づくにつれて、『快方に向かってる』って話が増えてきて、最終的には、見舞いのはずが快気祝いになってたんだって。これには流石の義頼さんも苦笑いしてたよ。
ちなみに、義弘さん、松の方さんや、鶴さん、俺の子どもや弟妹は、俺より先に万喜城に滞在してたんだ。なにせ、全体統括の義頼さんや、開墾主任の俺よりも、ずっと仕事が少ないからね(笑)
快気祝いは大広間で行われた。高座中央に為頼さんと義頼さん、その左右を義弘さんと頼春さんが固める。まさに『里見家・土岐家合同』の形になった。
俺? 俺は下座だよ。俺まで入れると、バランスを取って頼春さんの嫡男、頼哲くん(15歳 ※際だった勲功無し)とかも並べなきゃいけなくなるんで、当然の措置だと思うよ。
最初に、女房衆、子どもまで含めて為頼さんを囲むように全員が並んだ。宴が始まったのはその後だ。
俺は最初の挨拶が終わったところで一度中座させてもらったんで、その後の展開は良く分からない。だけど、結構離れてるはずの俺が仕事をしてる部屋まで賑やかな声が聞こえてきたんで、相当盛り上がったんだと思う。
仕事が終わったのは約1時間半後。たすき掛けのまま広間に戻った俺は、複数の近習たちを従えて、高座に向かう。
見ていると、俺を見つけた為頼さんがホッとした表情を浮かべるのが分かった。まあ、当然だよね。祝いの席なのに『仕事がある』って曾孫がいきなり中座しちゃったんだからさ。ちなみに、高座にいる他の3人は事情を知ってるんで、ニヤニヤしてる。バレるから止めてほしいんですけど!
「信義殿、仕事は終わったのかえ?」
「はい、お待たせいたしました。為頼様に一刻でも早く私の仕事の成果をお目にかけたく、このような格好で参じましたこと、お許しください」
俺は振り返ると、後ろに控える近習たちに持参した紙を広げさせた。
一瞬、みんなが息を呑む。
そこには、ついさっき、里見家・土岐家の一同が全員集合したときの様子が、鮮明に描かれていたんでね。
「こ、これは!」
「はい、先ほど皆様にお並びいただいた姿を描いたもの。名付けて『天正十三年 土岐慶含公 快気祝図』と申します」
「これは有り難い! 自ら筆を取ってこのような素晴らしい物を描かれるとは、まさに馳走じゃ!!」
「為頼様にお褒めの言葉をいただき、安心いたしました。ただ、これだけでは、ちと質素に過ぎますゆえ、この席の後で一度回収いたし、狩野派の絵師に屏風絵に仕上げさせた後、改めてお贈りいたしとうございます」
「いやいや、嬉しいのぉ。この爺を喜ばせてくれた信義殿には、まず杯を与えねばなるまい!」
「おお!」
「その通りじゃ!」
「間違いない!」
「有り難く頂戴をいたします」
「そうそう、信義殿、先に断っておくが、儂は『病み上がりだから酒は控えよ』と医者に止められておるゆえ、返杯は不要ぞ」
「では、何をお召し上がりで?」
「おお、これよ!」
為頼さんの隣にいた義弘さんが、手元の瓶を持ち上げる。なるほど、グレープフルーツジュースね! これなら、健康にも良いし、病み上がりにはもってこいだ。しかも、仲間が出来た義弘さんも嬉しそうだし、良かった良かった。
この後、『快気祝図』を肴に、宴はさらに盛り上がった。為頼さん自身も子、孫、曾孫から玄孫まで一堂に会してることもあって、終始ご満悦だったよ。
義弘さんや義頼さんとも若い頃の話とかしてたみたいだし、俺にも初めて会った2歳のときの話とか嬉しそうに話すんだ。良い曾祖父孝行が出来たよ。
この日は小さい子どももいたし、主役が病み上がりだってことで、まだ日のあるうちに宴は終わった。見てると、まだ飲み足りなさそうな人はいたけど、為頼さんが満足したみたいなんで、特に文句も出なかったよ。まあ足りない人は自分の家で飲むんだろうから、問題ないね。
俺は為頼さんと「次は正月にでもしっかり飲みましょう」って約束して、城内の宿舎に戻ったんだ。
だけど、その約束が果たされることはなかった。
翌朝、俺を迎えたのは『為頼さんの死』の報だったんだ。
昨晩、為頼さんは、頼春さんたちと一緒に、俺の土産の乾物で出汁を取った湯漬けを食べ、風呂にも入って普通に床に就いたらしい。
朝になり、いつまで経っても寝ていることを不審に思った小姓が声を掛けたときには、既に息を引き取っていたようだ。
天正13年(1585年) 5月 土岐弾正少弼為頼 永眠 享年93歳
戦国の房総を生き抜いた男は多くの子孫に恵まれてこの世を去った。
その死に顔は、非常に穏やかであったと伝わっている。
 




