第211話 滲み出る悪意①(閑話)
今日は閑話(※本人以外の視点)です。
……………………時は遡る。
天正13年(1585年) 1月 常陸国 新治郡 土浦城下 岡見屋敷
「ええい! 面白うない! 酒じゃ、酒を持て! 飲み直しじゃ!!」
城の新年参賀から帰るや否や、いきなり荒れ始めた屋敷の主、岡見頼治に、家臣たちは驚きを隠せなかった。
家老であり、叔父でもある岡見頼勝が、あまりの有様を見かねて尋ねる。
「殿、いきなり酒とは……。城で、何があったのですか?」
「おお、伝喜入道か! 此度の領地替えの話は聞いておろう?」
「滝川一益様と里見信義様が領地を交換した話でございますな」
「それじゃ! その領地交換で彼奴めが関東に戻ってくると言うのじゃ! しかも、鉢形14万5千石だと! 旧主である我が所領が2万6千石じゃと言うに、どこの馬の骨とも知れぬ彼奴が、5倍以上の俸禄とは!!」
「それは畠山義長殿のことでございますか?」
「彼奴の名を口にすることすら腹立たしいわ! それに叔父上!『殿』などと、彼奴を敬う必要など無い!」
怒り狂う頼治をたしなめるかのように、伝喜入道は“事実”を口にする。
「確かに昔、義長殿は、我ら岡見家の組下にござった。里見家に望まれて出向しておりましたが、『信義様の初陣に合わせて当家に戻す』と約定が整っておりました。しかし、それを嫌がり、義長殿を追放したのは殿ですぞ?」
「ええい! そのような話は聞きとうない!! ……それだけではないぞ。我らも彼奴も里見信義様の組下ではないか! 彼奴の指示に従って戦うなど儂の矜持が許さぬわ!!」
「しかし、我らは里見家の直参、義長殿は信義様の部下、陪臣にござる。石高では負けておりますが、立場は上かと存じます」
「確かにな、しかし、信義様が里見家を継げばどうなる? 元々栗林家の婿で我らにとっても陪臣であった彼奴に、名実ともに追い抜かれるのだぞ!! これが飲まずにやっていられるか!!!!」
怒鳴り散らしていた頼治であったが、何かが思い浮かんだようで、すっと口を閉ざす。そして、一言呟いた。
「……待てよ!? 信義様が里見家を継がなければ良いのではないか?」
「殿! 滅多なことを申すものではございませんぞ!!」
「叔父上、酒の上のたわごとじゃ。許せ」
「……本当に、お気をつけくだされ」
伝喜入道に謝罪する頼治。しかし、その目の奥底には、怪しい炎が揺らめいていた。
天正13年(1585年) 1月 摂津国 八部郡 兵庫城
正月ではあるが、兵庫城の本丸、奥の間は重苦しい空気に包まれていた。
それというのも、昨年の敗戦で織田信包から“お叱り”を受けた、この城の主人が荒れているからである。
彼の取った行動を客観的に見れば、この処分は驚くほど軽い。……のではあるのだが、育ちから来る貴種の性分が邪魔をするからか、この城の主は、それが分からぬ様子。
酷くつまらなそうな顔をしながら、酒を飲んでは不平を垂れる。少しでも気に入らぬ点があれば、側に侍る小姓や侍女に怒鳴り散らし、また酒杯を呷る。この繰り返しである。
主人の勘気に触れるのを恐れて、家臣たちは皆、押し黙っていた。が、このままの状態を続けていては、公儀の印象がさらに悪化するのは明白。意を決した家宰の岡本良勝は、主人の前へと進み出た。
「殿、いささか飲み過ぎではございませんか? このままではお体に障りがありまする」
「これが飲まずにやっていられるか! 岡本良勝、素面では話にならん! 杯を取らす。お主も飲め!」
そう言いながら彼は、脇にあった銚子を掴む。すると、どれもこれも、悉く空である。
岡本が主人に話しかけている間に、示し合わせた別の家臣が、銚子を交換してしまったのだ。
怒りにまかせて、空になった銚子を投げつけると、柱に当たった銚子は砕け、破片が飛び散る。
「クソッ! 酒が無いではないか!! 酒を持て!」
「殿、これだけ銚子を空けていては……」
「ええい! 黙れ黙れ!! 聞きとうな……」
「申し上げまする!」
激昂する主人の言葉に被せるようにして、別の家臣が広間に入ってきた。乳兄弟の幸田孝之である。
「……なんじゃ! 幸田孝之」
「はっ! 羽柴秀吉様、御機嫌伺いにお越しです」
「何!? 羽柴秀吉だと? 私を笑いに来たのか!? 追い返…………! いや、ただで返してはつまらぬ。会おう」
怒りにまかせて、一度は門前払いをしようとしたものの、何か思うところがあったのか、嗜虐的な笑みを浮かべた彼は、予期せぬ客をその胸元に迎え入れた。
家臣たちは、己に主人の矛先が向かなかったことに安堵しつつ、最悪の時に訪れてしまった客の不運を不憫に思うのであった。
―――――――― 一刻半後 兵庫城広間 ――――――――
「羽柴秀吉、大儀!」
たっぷり準備に時間を掛けた彼は、客を軽んじている姿勢を隠そうともせず、軽い調子で広間の襖をくぐった。
流石に一刻半も待たせたうえに軽い扱いをされたなら、流石の秀吉とは言え怒りも湧いてこよう。それこそが、彼の作戦であった。
(ふふふ、心の乱れを捉えて叱責してやる。話の流れによっては打擲してくれるのも面白いかもしれぬ)
このようなほの暗い感情を胸の奥に抱えて、秀吉を見下ろした。その瞬間、彼の思惑はくじかれることになる。
広間の中央で平伏する小男が背にしていたのは、床が抜けんばかりの大量の進物であった。
驚いて声も出ぬ彼に、平伏したまま秀吉は叫ぶ。
「織田信孝様! 羽柴家をお救いくださいませ!!」
こうなれば、もはや話の主導権がどちらにあるかは明白である。
完全に毒気を抜かれた信孝は、尋ねた。
「秀吉、如何したのじゃ?」
「これからの話は、信孝様も深く関わってまいりますゆえ、お人払いをお願いしたく存じます」
「なに!? 儂にも関係がある話とな! 分かった! 孝之、茶室の準備をいたせ」
「はっ!」
先程までの仄暗い感情は完全に忘れたかのように、信孝は秀吉を茶室に導くのであった。




